漂白

 白。遠近感のない一枚のコピー用紙のような白。微かな模様があるのだろか。それとも背景の手前に何かがうっすらと漂っているのだろうか。いずれにせよ、視点の移動に従ってそれが平面でないことがわかってくる。奥行きがあり、上下がある。空間だった。

 そこに彼女が立っている。姉妹の妹の方だ。どうだろう、濃密な霧の中に立っているにしてはちょっと明るすぎるし、かといってどこか屋内の全体に作為的に強い照明が当てられているというには空間的な広がりが大きすぎた。

 彼女の足元にはコンクリートらしい道があった。周りの面とはやや質感が異なる。道は空間の奥に向かって伸び、最後は輪郭がぼやけて消えている。彼女は足を踏み出す。何か目指すものがあるのだろう、その表情に無限の広がりに対する怖れは感じられない。しばらく、道と、彼女と、それ以外に景色は見えない。ただ進む。

 やがて何かが見えてくる。道の中ほどに黒い穴が開いている。ゴルフのカップほどの大きさ。あんまり周りが明るいせいで縁がグレーに見えている。

 いや、穴ではない。むしろ地面より少しだけ高くなっている。レンズキャップだ。確かに黒いが真ん中にロゴが入っている。

 彼女は踏み越える一歩前でしゃがみ、それを拾い上げた。傷はない。落とされて間もないもののようだ。縁の両側に嵌めこみ用の押さえとバネがついている。

 彼女は顔を上げる。道の右側に沿ってフェンスがある。金網ではなくて金属の棒が縦縞に並んでいる。フェンスというよりは檻のような造りかもしれない。だが檻というにはやはり一辺が長すぎる。フェンスは道とともに始まり、道とともに消えている。途中に区切りもない。

 道の先、フェンスの前で狐がしゃがみこんでカメラを構えている。一度撮ったものを画面で確認したあと、目を離したついでに道の両方を振り向く。当然彼女とも目が合う。お互いの顔がかろうじて判別できる程度の距離だが、狐は少し頷いたか、それとも前髪をよけたのか判然としないくらいの仕草をして、またカメラを構え直した。それは、自分からは無視しないが、彼女が無視したいならそうしてもらって構わないという曖昧な意思表示でもあった。

「上手く撮れる?」結局彼女は狐の横で立ち止まって訊いた。

 狐は彼女に話しかけられたのがあまりに久し振りだったのですぐには振り向くこともできなかった。「ああ」と抑えた返事をしただけだ。

「これ、落としたんじゃない?」

 狐はポケットを確かめる。「そうかもしれない」

「はい」

「ありがとう」

 狐は自分の手に置かれたレンズキャップから目を上げて彼女の顔をまじまじと見つめる。そうか、こういう顔をしていたんだ。長い間会っていなかったからもうほとんど忘れかけていたけど、やっと確かめることができた。

 そして、そう、これは記憶ではないし現実でもない。幻想か夢なのだ。狐は気づく。

「いいの? みんなに置いてかれてるけど」彼女は道の先に目をやりながら訊いた。

「そっちは」狐は訊き返す。レンズキャップをカメラに嵌める。

「まあ、まだ時間あるし」

 狐は腰を上げて、カメラの画面を彼女に向けて差し出した。首紐をかけたままだったので二人は顔を近づけなければならなかった。画面には夏毛のホンドキツネがじゃれあうところが映っている。アカギツネもいればギンギツネもいる。全て二人が目の前にした長大なフェンスの向こう側にいるキツネたちだ。そのうち何匹かは今もフェンスの近くに寄ってきて二人の話に耳を向けている。

 彼女はカメラを返して、道の先の方へ回って狐から何歩か離れる。

「ねえ、まだ私のことが好き?」

 狐はフェンスの方を向いたまま、カメラを首紐に任せて手をポケットに突っ込んだ。そうでもしないと手のやり場がなかった。

「どうだろう。もう、違うと思う。なんでもないただの他人とは違う。特別だ。でも、昔の輝かしいイメージ、この世のものとは思えないような感じに比べたら、今の君は、なんというか、ありうる存在になってしまった。そこにあるのは人間一人一人が違うという、ただそれだけの特別さなんだ。何かこう、それに対する賛美とか、堪えがたい渇望というのは浮かんでこない。もちろんそれは君が変わったんじゃない。僕が変わったんだ。変わらざるを得なかった。いわばそれは愛のなりそこないの残滓のようなもので」狐はところどころ詰まりながら、言葉を選びながら言った。

 彼女は狐の目を見て聞いていた。

「私、どうするべきだった?」

「どうする?」

「うん」

 狐はそこで一度フェンスの向こうを見渡す。

「愛してくれなくてもよかったんだ。ただ、もう少し話をしたかった」狐は言った。

「どんな?」

「何でもいい」

「世間話ってこと?」

「うん。僕が訊くんじゃなくてさ、君が人に話したいことを何でも言ってくれればいいんだ。そういう、なんでもないようなことを聞きたかった。それは、だから、何かを話したいというよりも、時間を共有することの一部として話をするのもいいってことだよ。それで多少なりお互いの価値観のようなものがわかるなら、もう少しよかった」

「そう……」彼女はカメラに嵌ったレンズキャップに視線を下げてちょっと唇に指を当てた。

「うん」

「あなたと話すのが純粋に嫌というわけではないよ。尊重してあげたいと思った。でもそれは私の中で釣り合いが取れないことなんだと思う。束縛とかじゃなくね、私の愛すべき人に申し訳が立たないというか、その人以上のことをあなたにしてあげるのは、駄目なの。私は自分を軽蔑しなけれないけなくなってしまう。だからね、断るっていうのもちゃんと苦しいの。私と、あなたと、両方を立てておくことはできない」

「わかってる。いいんだ。君は僕にも努めて優しくしてくれていたんだと思う。それで足りなかったのは僕の問題だ」狐は彼女の黒い瞳をじっと見据えたまま言った。

「じゃあ、私、もう行くね」彼女は体の前で両手をぎゅっと合わせて、とても真剣な表情でそう言った。足を後ろへ踏み出し、体の向きを変え、最後に顔を、目を背ける。道の先へ歩いていく。やがて彼女の姿が薄れ、白い背景に溶け込んでいく。

 狐はそれを見届けてから目を瞑る。深く息をする。喉が震える。レンズキャップを手で覆う。

 彼の背中に誰かが額を押し当てた。フェンスもコンクリートの道も消えている。もちろんキツネたちもいない。

「もっと早くあなたに会いたかった」それはヒワの声だ。

「僕もだ」狐はヒワに答えた。肩に置いた彼女の手に手を重ねる。

「帰りなさい。私のもとに」ヒワは狐の背中に息を吹き込むように言った。

 狐は体の力を抜く。ヒワがそれを抱きとめる。もはや二人の姿も見えない。強い光に当てられたように全ての輪郭が白く蒸発していた。


 狐は幻想から覚める。起き上がってきざはしを下りる。振り返ってももうそこに長身の女の姿はない。石畳の上を鳥居の方へ歩いていく。

 敷地の外で姉が待っていた。夜風が冷たい。吐息を手の中に吹き込んで両手を擦り合わせる。狐が鳥居の手前で立ち止まると境内へ入ってきて「ねえ」と呼びかける。「なぜ君はあの姿で彼女に会いに来ようと思ったの?」

「なぜ……」狐は振り返って黄色いテープの一角へ顔を向けた。「最後に一目見ておきたかった。でも、だからといって彼女を嫌な気持ちにはさせたくなかった」

「何日も上がり込んでおいて、一目?」

 狐は一度自分の足元を見る。

「そう。長すぎたのかもしれない。僕にも、彼女にも、お互いを綺麗なままにしておくには、長すぎた。本当は最初の夜にでも出ていくべきだったんです。でもできなかった。もう少し長く彼女の声を聞いていたい、もう少し深く彼女の優しさに触れたいと思ってしまった。それは過ちだった」狐はそこで首を小さく横に振った。「だから、もうおしまいにします」

「おしまい?」

「はい。ほとんど一度きりだったけど、生きている間にあなたと話せてよかった」

 姉はしばらく何も言わずにテープの張られた林の方を眺めていた。「おしまい」という言葉の意味を考えていたのかもしれない。

「もしかして、こんなことになったのは私があなたの前に現れたからじゃない?」姉は訊いた。

「それは違う。思い込みだ」狐は強く否定した。「決めていたことなんです。でなきゃ、『よかった』なんて僕は言わない」

 狐はそこまで答えると元の姿に戻ってお座りした。姉は狐の前にしゃがんで、見事な無表情のまま、相手の額や耳の後ろを毛並みを整える程度に撫でつけた。彼女自身の精神的安定のために必要なことのようだった。

「家に戻ろう。妹ももうあんなに冷たく当たらないよ」姉は立ち上がって参道を下りながら狐を呼んだ。

 狐も腰を上げ、決心をつけるようにひと呼吸置いてから鳥居の下を通った。

 姉が振り返って鳥居の向こうに目を向ける。そこに女の姿はない。静寂だけが残っていた。狐がその足元に座って後ろ足で耳の後ろを掻いている。姉はその見慣れない仕草ちょっと首を傾げ、でもすぐに歩き始める。

「おいで」姉は横向きに歩きながら狐に向かって呼びかけた。

 狐は姉の方に目を向けるが立ち上がらない。

 姉は屈んで狐の目の高さで手招きして膝を叩く。

 それで狐の方もようやく彼女の意図に気付いたみたいに歩き始めた。

 それからアパートに戻るまで、姉と狐の間にこれといってコミュニケーションは生じなかった。姉が先を歩き、狐が後ろに従っているのを時々振り返って確認していただけだ。

 階段を上り、扉の鍵を開ける。框に座り込んでいた妹は狐の目をじっと見つめて彼の方に両手を差し出した。

「ねえ、私、おまえに言わなきゃいけないことがあるの」

 狐はその手に鼻先を近づけ、顎を乗せ、そのまま妹の懐まで首を差し込んで頬を舐めた。

「ちょっと、聞いてよ。ねえ、どうしちゃったの?」妹は狐に舐められながら何とか言った。だが間もなく彼女は気付くことになる。この狐はもう今までの物分かりのいい狐ではない、だからこれから自分が話そうとしていることなんてちっとも理解してくれないのだ、と。それは彼女に小さな喪失と安堵を与えた。

 狐はもう誰でもなかった。妹と彼との間に過去などというものはもう存在しない。何の思念も、記憶も、確執も。

 姉は扉の鍵を閉め、白い狐の耳の間と、茫然と狐に舐められる妹の頭と、順番に手を置いてから部屋に上がった。


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しろぎつね 前河涼介 @R-Maekawa

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