キツネになる
狐は夜の路地を光のように駆け抜けた。前足と後足の間に大きく歩幅をとり、後ろには残像の白い影を引き、影の終端はやがて狐が走るのと同じ速さで消えていく。あとには闇だけが残る。河原を抜け、茂みを跳び越える。
狐は走る自分の体に集中する。走ることだけを考え、他の何もかもを頭から追い出す。追い出された何もかもは風圧に押し流され残像の後ろに取り残される。狐の全てが「走る」になっていく。限りなく近づいていく。
しかしその疾走は唐突に終わる。
別の生き物が真横から飛びかかり狐の首筋に噛みつこうとする。狐はその勢いで左へ飛ばされながら危うく相手の牙を振り払った。が、反動で背中から地面に落下してもんどり打つ。一瞬の出来事だ。傍目にそれは二つの色違いのボールが空中で衝突して弾けたような具合にしか見えない。衝突の瞬間にボール同士がどんなふうに変形しているかなんてとてもじゃないが目視できない。それは当事者たちだけの戦いだ。
狐は自分の上にのしかかろうとした相手を全部の足で突っ張って空中へ押し返した。相手はそのまま飛び上がって体三つほどの間合いに綺麗に着地する。
それはキツネだった。麦色の毛並みに耳の裏と足の先が黒い普通のキツネ。その横にもう一匹。つがいだろうか。河川敷の草叢の前に二匹並んで前足をぐっと前方に踏ん張って構え、口を大きく開けて吠え立てる。
狐も相手に合わせて構えをとる。でもどうしても彼らの縄張りを通らなければならない理由はない。たまたま入り込んでしまっただけなんだ。戦いたいわけじゃないから少しずつ後ずさる。
でも狐が距離を取ろうと足を踏み換える度に相手はぴょんぴょんと立ち位置を変えて狐の背後に回り込もうとする。すると狐はそっちへ頭を向けなければならない。攻撃と防御、防御の隙に攻撃、攻撃の隙に攻撃。まるでボクシングのようだ。狐も覚悟して体勢を整える。喉の奥をグルグルと鳴らす。
そして首を高く、口をいっぱいに開いて顎と牙の大きさを見せつけあう。互いの甲高い鳴き声。体の大きい狐が次第に相手を茂みの方へ追いやるが、キツネの一匹が横へ回ってゆっくりと距離を詰め、前足を振り上げてぴょんと跳び上がり、口先にその勢いを集めて狐の腰のあたりを上からがぶりと噛む。
狐は咄嗟に身を翻して上になった相手に噛みつこうとしたが、すでに跳び退いて構えの姿勢に戻っている。そこへ今度は今までじりじりと攻められていたもう一匹のキツネが攻撃に転じる。
単純な力では狐に分があるようだったが、決め手になるのは技と頭数だった。キツネの方が圧倒的に争いに慣れている。一方的に狐の傷だけが増えていく。
そこに例の長身の女が現れた。神社で狐にハナイカリの花をやった女だ。夜闇の空間の一点が発光して、その閃光が上下に伸びるや否や、ぱすっという微かな衝撃音のあと、次の瞬間にはそこに女の姿があった。服装は前と同じ、白いセーターに朱色のスカート。その裾が小さな衝撃波ではためいた。
女は二匹のキツネを制止した。何か言ったわけではない。手を翳して目を合わせただけだ。しかしそこには明らかに何らかの意思疎通が成り立っていた。声のない言葉のようなものだ。女のその一言目ではキツネはまだ構えを解かなかったが、二言、三言目で渋々了解した様子になり、一匹は前足を引いて楽な姿勢で立ち、もう一匹もおもむろに腰を下ろして首の後ろや脚の付け根を掻いた。そして女が頷くと二匹で草叢の中に分け入って姿を消してしまった。
二匹のキツネが消えるのとほぼ同時、ふらふらで立っていた狐がどさっと横に倒れた。
毟り取られた白い毛玉がいくつか空気の流れで舞い上がる。大きく、妙に間隔の長い息をしている。
女は狐の体の上に手を置いて傷の具合を確かめるように頭から尾の方へ滑らせる。傷の深いところを念入りに撫でる。それから狐の首と腰の下に手を差し込んで両腕に抱えた。
そして再び飛ぶ。
飛ぶ、といってもその跳躍は物理的なものではない。河原の草の上から女と狐の姿が消え、神社の社殿の前に現れる。現れたところでは空気がわずかに押しのけられ、消えたところでは周りから流れ込む。それだけだ。
境内は静かだった。遠くからネコの鳴き声が聞こえる。警察の立ち入り禁止の黄色いテープはまだ木々の間に張られている。一部には張り直した形跡がある。そこだけテープの艶が違っていた。
女は簀の上に狐を下ろして座り、自分の膝に彼の頭を寝かせた。始めのうちは狐もまだ息が荒かったが、十分もすると次第に落ち着いて体力も回復してきたらしく、ゆっくりと人の姿に変わっていった。
「何か大切なことを忘れていくような気がするんです」狐は瞼を閉じたまま言った。
「何か?」
女はそう訊いて狐の頭の下に自分の手を差し込んだ。その方が狐はきっと喋りやすい。少し頭を揺さぶられて狐は眩しそうに瞼を開けた。
「例えば、愛というものについて僕はとても多くのことを考えたはずなのに、いま思い出すことができるのはその中のほんのわずかな部分に過ぎない。思い出せない領域が黒い染みのように広がってきている」
「自分を束縛していたものを忘れられるというのは、幸せなことじゃない?」
「そう。でも僕は幸せになりたいわけじゃない」
「それではいけない?」
「いけない。それを忘れたら、僕はきっとまた誰かを傷つける」狐は首を振って毅然と答えた。
「直せないのね」
「たぶん。僕が僕である限り。だから僕はもう消えます。この体はあなたに返す」
「今? まだ時間は残ってるよ」
「はい」
「でも、迎えに来てくれたんじゃない?」女は目線で指し示すように顔を上げた。
狐も女の膝の横に手を突いて体を起こす。
参道の正面、敷地の外に赤いコートを着た女が立っていた。姉が狐を探しに来たのだ。
「どちらにしても、あの人には挨拶だけしておきたい」狐は言った。
「そしたら、鳥居を抜けるまではこのままにしておくから」
「はい」
女は指先を揃えて狐の額に当てる。そこから小さな閃光が生まれ、ショートのようにぱちっと弾ける。
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