明日の黒板

ゆあん

手紙

 この手紙は、これを読んでいる、あなたに贈ったものです。

 ここには、あなたがあなたである理由と、そして、わたしがわたしである理由が、記されています。

 それはとても大切なことです。

 どうか、最後まで読んで下さい。



 あなたとの日々を思い出すとき、最初に思い出すのは、あの教室です。

 あなたは私に、好きだと言ってくれましたね。

 私はあなたが告白してくれるのを待ち望んでいたのを覚えています。

 だから卒業の時まで踏ん切りがつかなかったあなたに、随分とヤキモキしたものです。

 それは私だけでは無くて、あなたや私の友人達もそうで。

 あなたが友達に背中を押されて、やっとのことで打ち明けてくれたことを、私は知っています。

 あなたは緊張していて気が付かなかったようですけれど、振り返ると、窓という窓に友人たちの顔が張り付いていたんですよ。私の耳が真っ赤になっていたのは、そういう恥ずかしさもあったからです。


 だからあの場で、勇気を振り絞ってくれたあなたの告白を、断らなければならないのは、本当に辛かったのです。


 あなたを傷つけてしまったことを後悔しない日はありませんでした。それは私が断る理由にしていたドイツへの留学中の日々でもそうでした。正直を言うと、それからしばらくは、まったく駄目になっていたのです。何をしていても、あなたのことを思い出してしまうのです。

 あなたはこれを聞いて、なんて言うのでしょう。きっといつものように、「勝手だなぁ、君は」と言うのでしょう。そして、いつものように、優しく肩を抱いてくれるのでしょう。


 友達のおせっかいに救われたことは、一度や二度ではありませんでした。

 その夜、あなたが校舎に忍び込んだことを、友人から聞きました。私はその話を聞いた時、心臓が止まるかと思いました。急に、あなたと会えなくなる日々に恐怖しました。もしこの機会を逃したら、二度とその笑顔を見ることができなくなるのだという現実を知ったとき、私の体は悲鳴をあげたのです。寒さが残る季節でしたが、私は寝巻き姿のまま、学校に走ったのです。

 結局、あなたとは会えませんでした。私はあなたが座っていた席でひとしきり泣きました。誰もいない教室は、私の嗚咽で満たされていました。そのせいか、なんだか一人では無い気がして、それはそれは、随分と泣いたのです。

 だから、あなたが残してくれたそれに気がつくまで、かなり時間がかかったのです。涙も枯れて滲んだ視界が晴れていったとき、初めて、月明かりに照らされた黒板にあなたの筆跡を認めたのです。

 それは手紙でした。告白で伝えきれなかった想いを、教えてくれましたね。ちゃんと伝わりましたよ。その内容は今でも鮮明に覚えています。もちろん、一字一句です。もったいないから、ここでは言いません。だってそれは、私にとって宝物なのですから。

 私はチョークを取りました。あなたのその真摯さに応えられる、最後の機会だと思ったのです。その姿を見せずに済んだことは、幸運だったかも知れません。なにせ私は、ほんとうに何かに取り憑かれていたようでした。それは読まれることは無いのかもしれません。でも、それでもいい。そうしなければ、私は後悔すると思ったのです。


 だから、あなたとふたたび出会ったあの日。

 あなたがもう一度教室に訪れ、私の返事を読んでいてくれたことを知ったとき、急に、あの若かりし日々が蘇って、泣いてしまったのです。その時も、あなたは私の肩を抱いてくれましたね。そして私は思い出したのです。母が亡くなったとき、あなたが同じように肩を抱いて、いつまでも側にいてくれたことを。


 変わってない。あなたはあの頃と、変わってない。

 それは、私を女にしました。


 おかしいですよね。再会するまでに四十年。おたがい、体はすっかりおじさんとおばさんなのに、こころは少年と少女だったなんて。


 それからの日々は、本当に宝物みたいでした。過去のことなどすべて忘れて、私はあなたの為に生きました。そしてそれが、私の幸せでした。

 あなたは相変わらず優しかった。あなたと私を分かつ元凶でもあったのに、「お前の第二の故郷だろう」と言って、共にドイツに行ってくれたこと。ほとんど会ったこともない父の墓に花を添えてくれたこと。そしてその前で、私を妻として迎えると伝えてくれたこと。「お父さん、ご挨拶が遅れて申し訳ありません。娘さんは私が幸せにします」だなんて、あなたがそんな素敵なことを言えるひとだとは思いませんでしたよ。あなたが一番かっこよかったエピソードです。


 でもわたしは、穏やかで脇が甘いところが、一番好きだったんですよ。


 あの教室の話をすると、あなたは恥ずかしがって、「ちょうど飛行機が飛んでいったから、あれに乗っているんだろうなと思って」と、良く誤魔化していましたね。あなたの名誉のために言いませんでしたが、時効ですよね。時間も方角も、全然違ったんですよ。


 そんな他愛の話ですら楽しむことができる。あなたと過ごした時間は、わたしにとってかけがえのないものです。


 だから。

 その日々を少しずつ忘れていく。

 そんなあなたを見ていることが、とても辛かった。


 あなたは覚えていないかも知れませんが、取り壊し予定だった校舎に二人で出向いたのには、そういう想いがあったのですよ。何も、思いつきではありません。大切だからこそ、二人の思い出が散りばめられたあの校舎を、もう一度、二人で見たかったのです。あなたの記憶に、あなたの魂に、刻み込んでおきたかったのです。そのせいで随分と疲れさせてしまったことは、ここで謝っておきます。ごめんなさい。


 この手紙は、あの日、あなたが黒板に綴ってくれたわたしへの手紙へのお礼と、

 そして、わがままで振り回してしまったことへの謝罪なのです。

 遠いあなたの世界に届くように、一番遠くまで行く飛行機に乗せてもらいました。


 ここまで読んでくれれば、もうわかりますよね。

 それとも、そちらの世界に行っても、やはりまだ難しいでしょうか。


 あなたが道に迷わないように、記します。

 あなたには最後にしてもらわなければならない、大切な仕事があります。



 あなたの名前は、佐藤夏男。

 仕事に生き、世の中を助け、そして、何もかも失った私を妻として迎えてくれた、心優しい人。わたしの大切な人。



 覚えていて下さい。

 そして、私を出迎えて下さい。

 そして、そちらの世界を案内してください。

 昔のように、手を引いて、肩を抱いて。



 あなたとふたたび、空の向こうで出逢えることを、楽しみにしています。



 ―――あなたの春子

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