第2話 推理小説の死に花束を

 ローズが探していたのは『虚無への供物』というミステリ小説だった。しかし『虚無への供物』は書店には置いていなかった。とりあえず私たちは、私の当初の目的通り中華料理屋へと向かった。私とローズはそれぞれラーメンを注文する。


 それに追加で私は餃子を二人前注文した。階級は同じだが、一応は私のほうが先輩だ。たまには先輩らしいことをしようと思ったのだ。


「『虚無への供物』。さっき端末で調べた限り人がばんばん死ぬミステリ小説みたいだね」


「そうなんですか」


 現代社会においてミステリ小説はもっともひどい規制を受けているジャンルの1つだ。残虐性の高い物語を読むことによって読者が犯罪に及ぶ危険性が指摘されたのが2030年のことだ。これによって犯罪をその主なテーマとする小説は公開してはいけないことになった。


 おそらくその『虚無への供物』という本はどこの書店に行っても、どこの図書館に行っても読むことはできないだろう。


 2006年に仙台市で起きた生後間もない赤子が誘拐された事件もこの規制議論においてはよく引用される。この事件では岡島二人という2人組の推理小説作家の書いた『99%の誘拐』という小説に登場する手口に似た方法で誘拐が行われたのだ。


 この一件から推理小説は犯罪者に知恵を付けてしまいかねないものと言われるようになった。


 推理小説というジャンルそのものはまだ死んではいない。1980年代後半に北村薫などを代表とする「日常の謎」と呼ばれるブームが始まるが、そうしたブームに該当する作品が今も出版されつづけているのだ。


 こうした規制が始まったころ、あるミステリ小説評論家が批判的な意見として次のような文章を残している。


『日常の謎、日常の謎と持て囃すが、本来そうした特性は殺人事件を主眼としたミステリ小説も持っているのだ。長編ミステリ小説では殺人とは関係ない関係者の日常的な行動によって事件が複雑化するというのは王道中の王道なのだから。そんななかあえて日常の謎を主題とする、おおいに結構な試みである。しかし王道あっての邪道ではないのか。殺人、強盗、誘拐これらを禁じ手にすることによって日常の謎すら衰退していくことを私は予言する』


「それで『虚無への供物』と今読んでる本はどう関係しているんだ』


「それが『虚無への供物』のパロディ――あるいはオマージュとかバスティーシュとかって言ったほうがいいんですか――本なんですよ。あ、もちろん人は死にませんよ」


「ほう」


「それで、『虚無への供物』を読んでからのほうがより理解を深められるかなと」


 ずいぶん効率の悪い仕事をしているな、というのが正直な感想だった。そんなことをしていたら1冊の本を読み終えるのに何日もかかってしまう。私たち『読書師』にとって一日にどれだけの本を読めるかというのはどれだけの金を稼げるかということに直結するというのに。


「だったらせめて『虚無への供物』がどういう本か。調べてから外に出るべきだったな。そうしていれば無駄足を踏むことはなかったのに」


「いや『虚無への供物』が人が死ぬ小説だというのはわかっていましたよ」


「だったらどうして。書店で人が死ぬミステリ小説が扱われていないなんてのは小学生でも知っている常識だろ」


 そこまで言って自分で気付く。


「知りませんよ。そんなこと。だって私生後三ヶ月しかありませんから」


 そう。彼女は生後三ヶ月しかない。もちろん彼女の見た目は成人女性で、私と同じように労働に従事している。それがなぜか。その答えは彼女がアンドロイドだからだ。


 一億総クリエイター時代。誰が読んだか今の時代を表彰するフレーズだ。『小説家になろう』、『カクヨム』などと呼ばれた素人でも投稿できる小説サイトの登場によって小説を書く人口というのは莫大に跳ね上がったといわれている。


 もちろん創作人口が跳ね上がったのは小説だけではなく音楽も、絵も、漫画も、ゲームもそうだ。


 創作することによって自分のうちにあるものを吐き出すことは精神衛生上極めてよいことで、創作以外の作業の効率が高まるし、社会の犯罪率を下げるという論文が発表されたのはその時期である。


 実際、その時期は世界的に社会は急速な成長を見せる。しかしそれには限界値があったのだ。クリエイターに対して消費する人が不足してしまったのだ。そうなると誰からも読まれない見てもらえない聞いてもらえないクリエイターというのが増加するようになった。


 創作することそのものはストレスの発散になるが、自らの創作物が自身のなかにある水準以上に評価されないことはクリエイターにとって大きなストレスになることが明らかになった。やはり実際に、というべきか。この時期に多くの猟奇的犯罪が発生した。


 そこで登場したのが私たちが従事している「読書師」などの創作物評価産業である。私たちは政府から金をもらって小説を評価する。多くはほとんど読み手のいない素人作家だ。それによって社会が安定するというのが政府の狙いらしい。そのほか小説投稿サイトから依頼を受けて読書する「読書師」も存在する。


 読書師は創作物評価産業のなかでももっとも大きなシェアを誇っている。おそらく専門技術がいらないことがその理由だろう。


 出来にさえこだわれなければ小説を書くというのは文字入力のできるデバイスか、あるいは紙とペンがあれば誰にでもできるのだから。


 読書師業界は慢性的な人手不足状態がずっと続いている。そこで近年手を付け出したのがAIによる小説の評価だ。


 読書家の一部がAIであることはすでに社会的に知られている。しかし作者たちにとって自分の小説に感想をくれた人物がAIであるかどうかを知ることはできない。相手がAIだと知ると自分の小説を読んでくれたとしても、その満足度が大きく下がることがすでに研究で明らかになっているのだ。


 なぜただのデータ上の存在ではなく、ローズのように人間に模した身体を持つ必要があるのか。それはよりリアルな書評をするためだと言われている。彼女たちは人間と同じように食事をし、同じように景色を見て、同じように寝たりもする。


 そういう人間と同じような生活を送ることがより人間らしい書評をすることへつながるそうだ。

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読書士:文芸が死に続け、殺され続ける世界の話 ぶるぶる @buruburu1920

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