新釈・猿地蔵

胤田一成

第1話

 むかしむかしのお話です。

 なんでも元和の末か、寛永の始まりのこと。盛岡藩のさる貧しい谷間の村で起きた出来事と聞き及んでおります。

 この村の人々は山の急な斜面を切り拓き、段々畑になった僅かな土地でヒエやアワを耕しては生計を立て、その日の暮らしを漸く送るというたいへん侘しい生活を余儀なくされておりました。しかし、それもまた、度重なる凶作で台無しにされることもままあり、年貢を納めてしまえば、あとはもうわずかばかりの作物が残されるといった具合に、村人達は貧しさを窮めていたのでございます。

 そのような大層貧しい村に茂作という名の一人の老爺が暮らしておりました。茂作はたいへん正直で働き者ではございましたが、どこか呑気な性分をしておりました。というのも先程も述べました通り、山の斜面を拓き、猫の額ほどの僅かな土地を耕す茂作にとって、産不女を娶った末に、子もなければ孫もなく、しかも老い先短い我が身を思うと、そう苦心するほど焦ることも無く、その日の暮らせるだけの飯と多少の銭さえ残れば、それでもう充分に思えるようになっていたのでございます。

 茂作にとって田畑を耕すという情熱ははるか昔に過ぎ去った遺物であり、鍬を血まめができるほどに固く握りしめるという激情はとうに拭い去った残滓でございました。果てしなき無欲の先に待ち構えているものは諦観であり、茂作は全くの無欲とまではいわないまでも、知らずこの道を真っ直ぐに歩んでいたのでございます。茂作の持つある種の呑気さはこれに起因していたのでございましょう。


 ある日のことでございます。

 老爺の茂作は早朝から手に鍬を携え、いつも通り畑を耕すつもりで外に出ました。

 初秋の肌寒い風の中にも麗らかな陽射しが心地良い朝のことでございます。壮年の頃なら一時に終えてしまうような土弄りも、老年となった茂作にとっては大変な作業であります。疲れた茂作はとうとう昼の仕事を終えると地べたに腰を下ろし、胡坐をかくと煙管を吹かしながらうつらうつらと舟を漕ぐようにして、居眠りをしてしまいました。

 いくばかりかの刻が過ぎた頃、、寝惚けた茂作はぼんやりとした頭で自分の周りに、大勢の人の気配を感じました。そして、やがてそれらが無遠慮にもベタベタと身体中を弄っているのに気が付きました。

「これや、立派な地蔵様だ」

「まるで生きているみたいだ」

「こんな所に置いといたらバチが当たるに違いない」

「それにしても見事な半眼だ」

「まるで悟りきったお釈迦様みたいに欲のない御顔だ」

「是非とも山の頂の祠にお祀りせねば」

 茂作はうっすらと開けた眼で周囲を見渡しました。すると驚くべきことに目前には立派な赤茶色の気をたずさえた、幾匹ともしれぬ、数え切れないほどの猿達が群がっているではございませんか。

「これは参った。多勢に無勢というやつは正にこのことを言うのだなあ。しかもこの猿達は人語を操っておる、きっと山王様の遣いに違いあるまい」

 茂作は心中でこのようなこと思うと、冷や汗をかくのも我慢して、平然を努めるように密かに決心しました。茂作は歳の功から山の獣を相手にすることの恐ろしさをよくよく理解していたのでございます。

 やがて猿達は、黙然として動かない茂作を担ぎ上げると、恐ろしい迄の勢いで、山を駆け登っていきました。それから、流れの早いことで有名な暴れ川までやって来ると、茂作を目の上の位置まで持ち上げながら、歌い出しました。それはこんな具合の愉快な歌でございました。


 よっさ、よっさ、よっさっさ。

 猿のお尻を濡らしても、

 地蔵様のお尻は濡らすなよ。

 よっさ、よっさ、よっさっさ。


 呑気な茂作はこの歌をたいそう気に入りました。山王様の遣いともあろう者達が自分のことを尊い地蔵様と勘違いして、このような愉快な唄を口にしようとは思わなかったからでございます。茂作は頬の内側を痛いほどに奥歯で噛み締めながら、呑気なこの憎めない猿達のやること最後まで見届けようと決めました。

 谷川を無事に越え、山の頂きの祠に茂作はやがて祀られました。すると、猿達は信心深く手を合わせ、合掌をしたかと思うと、どこからともなく栗の実や山葡萄の実、果てはどこで手に入れたのか小判や大判まで茂作の前に山のように積み上げていくではありませんか。茂作はその滑稽な様子をしげしげと半眼を開け、呑気に眺めておりました。

 夕刻にもなると猿達は祠の前から消え去り、どこかへと行って散り散りになってしまいました。大方、村にでも降りて、今頃畑を荒らしている頃合いなのでございましょう。茂作は懐から手拭を出すと、目の前に山のように積み上げられた作物や金を包み、のんびりと猿達と同じく村へと降り去って行きました。


 茂作は一日にして村一番の長者になりましたが、無論、これを訝しむ者も当然ございました。いの一番に茂作から大金を手に入れた手段を聞き出そうと尋ねたのは、茂作の家の隣に居を構える、吾平という名の老爺でございました。

 先程も述べました通り、茂作は呑気で正直な性分の持ち主でありましたから、吾平の目論見も露知らず、その日起きた珍妙な出来事も、疑念の余地もなくペラペラと話し、打ち明けてしまったのでございました。猿達が己を地蔵様と間違えたこと、栗や山葡萄といった山の幸、引いては最後まで自分を地蔵様と勘違いしたまま、どこから持ち出したのか大判や小判を勝手に布施しはじめた経緯を茂作はつぶさに話してしまいました。

 吾平は初めこそ茂作の語る話を半信半疑といった様子で耳を傾けておりましたが、目の前に山と積まれた山の幸、大判や小判といった宝物を目の当たりにして、魔が差さない者がございましょうか。吾平は決して悪人ではございませんでしたが、これほどまでの大金を得ることができたならと、ちらとでも考えてしまったことを誰が責めることができましょう。

 吾平は茂作とは幼い頃から同じような貧しい暮らしを営んでおりましたが、歳を経る毎にその具合は自ずと大きく変わっていきました。茂作にはこれといった欲もなく、その日をつましく暮らせればそれで充分満足でしたが、吾平は茂作とは違い、妻もあれば子もあり、どうしても金がいる身であったのでございます。

 村の人々は山に僅かに残された土地を、誰もが苦労することのないように平等に割り与えておりましたが、かねてから行われる検見のせいで、子と共に畑を耕す吾平にとって、これは大きな悩みの種でございました。吾平は少しでも暮らしが楽になるように手に鍬を携えて、小さな畑を懸命に耕しましたが、豊作になればなるほど、検見のおかげでお役人様に多くの年貢を納めなければならず、働けども働けども一向、暮らし向きが豊かにならないといった具合に、謂わば貧乏くじを引いてしまったようなものでございました。

 そこで子宝には恵まれずとも、夫婦二人でつましく暮らせるだけの余裕のようなものを感ぜさせられる茂作のことが、折に触れては羨ましくもあり、また、苦々しくも思われるのでございました。

 

 吾平は家に帰ると、眉間に皺を寄せ、行灯の油に浸された寄り糸がジリジリと焼かれていく音を聞きながら、黙然と頬杖をつきながら考えました。もし、茂作のように長者になることができたら、どれだけ家族に楽をさせてやることができるであろうか。妻の着たきり草臥れた着物を新しく好きなだけ買うて与えてやることもできれば、子に新しく良い土地を買うて与えてやることで、厳しい検見の目から逃れさせることもできるかもしれぬ。それから…。取らぬ狸の皮算用ではございましたが、吾平の想像は膨らむ一方でございました。

 吾平は明け方まで黙然と筋向いの茂作の家を見詰めていたかと思うと、とうとう茂作の語った話を聞き入れ、自分もその恩恵に預かることを決心しました。


 次の日の昼方のことでございます。

 茂作の畑の前で吾平は胡坐をかいて、半眼を開けながらじっと息を潜めて座っていました。すると案の定、うつらうつらし始めた途端、どこから猿達がわらわらと群がって、吾平をたちまちのうちに取り囲んでしまったではありませんか。

「これはまたお地蔵様がいらっしゃる」

「しかし今度のはだいぶん恐ろしい御顔をなさっていらっしゃるのう」

「それでも本当に生きてらっしゃるみたいだ」

「兎に角ここに置いておくわけにもいかない」

「是非とも山の頂の祠にお祀りせねば」

 吾平は先ず、半信半疑であった茂作の話が本当になったことを畏れました。なんでも、猿は源平の時代より日吉大社、山王様の遣いの権化だと聞いていたからでございます。それに、あの平家の物語では内裏が炎上したのは、その猿達が手んでに火を持って、内裏を襲い大火を放ったせいともいうではありませんか。

 吾平は人語を操る数え切れないほどの猿達が自分の周りを囲んでいると考えると、畏れ多くも不安になり、冷や汗を我慢するのもやっとの心持ちでございました。

やがて、猿達は吾平を茂作の時のように担ぎ上げると、これもまた、恐ろしい迄の勢いで、山の斜面を駆け登っていきました。そしてまた、流れの早いことで有名な谷川までやって来ると、吾平を目の上の高さに持ち上げ、またもやこんな唄を歌い出しました。


 よっさ、よっさ、よっさっさ。

 猿のお尻を濡らしても、

 地蔵様のお尻は濡らすなよ。

 よっさ、よっさ、よっさっさ。


 吾平は茂作とは違い、この囃子唄にとくと耳を傾けました。その上、この歌を愉快とも痛快とも全然思えないのでございました。むしろそれを聞いた吾平の心の中で密かな苛立ちがムラムラと沸き起こり始めておりました。

「山王様の遣いとも称される猿達が、俺のような矮小な人間と尊い地蔵様との区別もつかぬというのか」

 吾平の心は急激に冷めていきました。そして自分の行おうとしていることのあまりの軽佻浮薄さを、この囃子唄を聴きながら今更ながらに思い知らされました。人語を操れど猿達はやはり山の獣でしかないのかという失望と、金を目当てに尊い地蔵様に扮した己の愚かしさにおくばせながらも、気が付いてしまったのでございます。

 この囃子唄にはなにか尊いものを侮辱するような、そうして声高に歌う者が己自身を貶すような卑しさを、どこかに感じずにはいられませんでした。「山王様の遣いという尊い存在が、地蔵様という高尚な存在を二重に否定している」。吾平はこの囃子唄にかくあるべき姿を踏みにじられたような気分になりました。

 次に吾平が思いを馳せたのは茂作のことでございました。吾平は茂作がこの畜生達のように山から村へと一緒になってひょこひょこと降りてくる様を思うと、茂作の存在が急激に嫌らしいものに思えてならなくなりました。その心持ちは謂わば、軽蔑の念でございました。吾平は茂作にも卑しさを見て取ったのでございます。

「なにが山王様の遣いだ。何が地蔵様だ。俺の知っている両者はもっと高尚な存在ではなかったのか」

 吾平は次の瞬間には、思わず失笑していました。それは吾平自身、微塵も気が付かないほどの刹那に起こった感情の発露でございました。吾平の失笑を訊くと、猿達は驚き、怒り始めました。

「あ、こいつは人間だぞ」

「偽地蔵だ」

「捨てろ、捨てろ」

 吾平はたちまちのうちに谷川へと落とされました。谷川の急な流れに揉まれながら、吾平は思いました。

「これで良いのだ。これで良いのだ。茂作よ。俺はお前のように己を騙し、猿達を欺いてまで金など欲しくない。尊い者を笑いものしてまで金など欲しくない。俺は掌にいくら血まめができようとも鍬をやはり振るい続けよう。それが俺の生きる道だ」

 暴れ川の急流に揉まれながらも、吾平は老体に鞭打ち、最期まで抗い続けたのでございました。谷川の冷たい水の中にあって、吾平の心臓は熱く熱く燃え滾り、心は奇妙な達成感と満足感とで充ち充ちておりました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新釈・猿地蔵 胤田一成 @gonchunagon

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る