003
迷い迷い地図を確認しながらなんとか銀の森に辿り着いた。銀の森は絶妙に見つけづらい路地の中にあって、何とか見つけた後も結局自転車をどこに留めれば良いのかわからず最寄り駅の駐輪場に自転車を留めてから戻ったので随分と時間がかかってしまった。
銀の森は居酒屋と言うにはお洒落すぎるけれどBARというにはラフすぎる、よくわからないお店だった。今まで自分はBARというものを利用したことはなかったので、もしかしたらこのお店が典型的なBARである可能性もあるのだけれど私のイメージの中のBARとは趣が違っていて、実際あとから彼が言うには「何故か飯も食えるBAR」とのことだった。
「人混み切り抜けてきたんですか?」
私の第一声はそんな言葉だった。
「退院直後で体調がまだ万全じゃないから今はそっとしておいてくれって言ってね」
彼はにへらと笑って、今まで漫画の中でしか見たこともなかったようなお洒落な形のグラスを指でつまんで少し持ち上げて私への挨拶にした。彼はカウンター席に座っていて、隣の椅子に置いてあった自分の鞄をどけて足元に置くと座面をぽんぽんと手でたたき私に座るように促した。
「いやあ癖って言うのかな、基本は思ったより変わらないね。意外と染みつくもんだねえ」
「立ち振る舞いのこと」
「そう。意外と疲れることもなくさ、さらっとできるもんだね。人が喜ぶ所作っていうのがさ……」
彼はグラスに入った鮮やかな色の液体をくるくると揺らしながら呟いた。それは私に向けてというよりは、虚空に向かって投げられているように見えた。そして、それが彼の小さな望みでもあるのだと思った。サークル会館の中の彼はきっと、誰かの前でその人以外に向けて言葉を放ったりしない。だから彼にとっての小さな自由が今少しだけ実現したのではないだろうかなんて思って、少し嬉しくなっても、そんな風に今この時間を特別視して、そこに同席してる自分も特別だと思おうとして自分で満足感を感じようとしているのだとしたら、私はなんて傲慢なのだろう。
よく考えてみれば彼の「何もしてなくても人を喜ばせるなんて簡単だ」みたいな発言の方がよっぽど傲慢なのだけれど。
「他の人と話してるとつまらないよ。いやどうだろう。まあまあ楽しかったかな。事故の前はね。でもやっぱり人と話すってことにそこまで楽しいとかって印象があったことはないなあ、小さい頃から。でもさ、健康と同じでそういうのって失ってみないとわからないときってあるからね」
のっけからすごいことを言うなあ、これを他の部員が聞いたらどれほど驚くのだろうと思いつつも、私はうんと相槌を打って返すことしかできず、彼の話を聞きながらメニューに目を通す。
「僕ね、本当のことを言うと人の気持ちって全然わからないんだ。病院で医者にも言われたんだけどね、なんとかってテストをやったら他人への共感性が極端に薄いとか言われてさ」
私がカルボナーラを注文すると、彼が追いかけてハンバーグセットを注文した。私が銀の森に辿り着くまでは結構時間を使ってしまったしもう食べてしまっているかと思っていたので少し意外に思った。
どうして彼は待っていたのだろう。彼は待つ必要なんてないはずなのに。私を喜ばせるような行動を意識して行う必要はないからだ。
「人の気持ちがわかるように振る舞う方が人から好かれるんだよね。人の気持ちがわかるってそんなに良いことなのかな。人の気持ちがわからない人は悪者?」
私の方をちらっと見るけれど、相変わらず彼の言葉がこちらに向かっているのかはわかりづらく、返事をして良いものか私は少し悩んだけれども彼は私の返事を待っているようだ。
「わからない。考えたこともなかったから」
「じゃあ今考えて」
少し唸って間を置いてからぽつりと答える。
「私はきみの気持ちがわからないけど、何にもできないサークルの空気の私が、何でもできるきみの気持ちなんて絶対わかるわけがないと、今日思ったよ」
「それで?」
「私が人の気持ちがわからないからサークルの空気なんだとしたら、人の気持ちがわからないのは悪なのかもしれない、と思う」
「それは全然違うね」
あまりにもあっさりと、しかもはっきりと彼が否定してしまうので、私ははっとして彼を見る。彼は手元のグラスに視線を落したままこちらを見はしない。
「君は自分の行動に人がどう感じるか人よりたくさん想像しているから行動を委縮してるだけ。もっと言えばプライドが高いから自分の納得のいかない行動をしたくないし、自分に厳しい分人にも厳しいんで他人も自分を厳しい目線で見てると思い込んで無難な行動をとりたがってる。だから君は他の人の気持ちを他の人よりは考えて予想して行動してる人」
カウンターの奥の厨房の方からじゅわっと何かを焼き始めた音がして、私は目から鱗が落ちるような思いがした。私はそういう風に彼から分析されていたのかと思うと同時に、それは間違っていると反論するのも難しいことにも気が付いて、とにかく驚いた。
「そこまで人をプロファイリングできるのに、気持ちはわからないの?」
「感覚的な話だよ。理屈ではわかるっていうのかな。僕自身がその感覚を知らないんだもの。例えばだよ? 君がこのお酒を飲む。多分君はあまりの度数の強さにくらっとして、こんなものをおいしそうに飲む人の気持ちがわからないと思う。でも僕はこのカクテルが好きでこの店に来るたびにいつも最初に頼む。このとき、僕らは本当に同じ味を感じていると思う? 世の中には酸味の感じ方は男女で違うって研究報告もあるし、実際辛い物が好きな人と苦手な人じゃカプサイシン酸の受容器官に違いがあるとしか思えないよ。でも僕らはそれを辛いって一言で表して共有しようとするんだよ。でもそれは同じ辛いじゃないと思うんだよな」
「確かに、そうかも」
「神経の反応の強さとか、反応してる神経の場所と多さとか、そういうので数値化してくれればいいのに。楽しさとか、幸せとかさ」
りんりんと、自分が店に入るときも鳴ったドアの鈴の音が鳴り、自分たちの後からの来客を告げた。私はふいに彼が足元に置いたヴァイオリンケースが客の足に当たったりしないか心配になってふと視線をやったけれど、客はスムースにテーブル席へ案内されて心配は無用だった。
「幸せが数字になったとしても、私達は幸せにはならないよ」
「そうかな。スマホのアプリとかでさ、見るんだ。あ、今僕幸せになった! って。そしたら幸せになれると思わない?」
「私はどっちかっていうと怖いから見ないかな」
「どうして?」
「幸せが、こう、誰か他の人に決められちゃって、それ以外は幸せじゃないよって言われそう。家族と過ごしてる時間が一人でカラオケしてる時間より幸せじゃなかったら悲しくなるかもしれない」
「幸せを自分で決められないと怖いの?」
「そういうことなのかもしれない」
彼は「ふーん」と言ってこちらを見た。私は結構青臭くて気恥ずかしいことを言っていたので、なんとなく決まりが悪くて視線を逸らす。
「ま、僕は怖いって気持ちもわかんないんだけどね」
丁度カウンターのマスターから注文していたお酒が届けられる。「カルーアです」厨房を遠くに覗く分には、カルボナーラとハンバーグにセットにはもう少しかかりそうだった。
青い鳥は生まれない 二階堂くらげ @kurage_nikaido
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