002
彼が退院してくるまでの間、私はずっと彼のことを考えていた。彼が病院で言った通り、彼と私はそれまでほとんど話したこともなかった。
彼はサークルの中では人気者で、誰からも好かれていて仲が悪い人は一人も思いつかない。部長がサークルの運営に困っていれば颯爽と問題を解決していき、技術面で悩む部員が居れば即座に最高の先生になって自信を取り戻させた。彼が居るだけで周りは自分も頑張ろうという気になって、彼の前では悪いことや道を外れたことはするべくもなかった。私がのうのうとサークル活動に参加している間に何度も部員が彼のお見舞いに行った話を聞いたし、それで彼の事故が大きなものではなく彼がすぐに退院してサークルに戻るという話も聞いていた。実際は検査入院に切り替わって長引いてしまった訳だけれど。
ともかく、そんなサークルの中心とも言える彼が、サークルで最も空気になっている私と接点などあるはずもなく、これからもサークルを卒業するまでずっとそうだと信じて疑うこともなかったのにこれからどうなってしまうのだろう。出来る限り波風を立てずにサークルの片隅でじっとしていたい私にとっては、彼の復帰は正直に言えば不安だらけだった。けれども不安な気持ちにさせられる度に彼の最後の言葉も思い出されて、それまで柔和な笑みを崩さずに丁寧に私に接していたのに最後だけは突き放したような口調で話した彼が本当の彼で、彼が言うところの打算の人付き合いをやめた彼だと言うなら、彼はそういう風に在るのが一番幸せなんだろうかとも思い、そんな彼の頼みを無碍にすることはできないよなぁと逡巡を繰り返した。
そもそも幸せを感じづらいって、どういう状態なんだろう。私には想像もつかない。「あなたは生まれたときから幸せを感じづらい状態であるようです」と宣告されることが、自分にとってどれほど衝撃的なのだろう。事実を告げられても、身体や脳が今までもこれからも何か変わったりしたわけではないのに、彼の気持ちは変わってしまった。それは想像するには余りにも余りあって、私程度には到底わかりっこないけれど、せめてわからないことは忘れないでわかっておかないといけないなと思い何度も自分を戒めた。
そうして準備をする時間をたっぷりと与えられて迎えた彼の復帰は、意外にも唐突で割とあっけないものだった。
「ただいま」
いつも通りオーケストラの合わせ練習をするためにサークル会館の広い部屋に集まり、それぞれそこかしこから椅子や譜面台を持ち寄ってがやがやと準備をしているときに、しれっと彼は混ざっていた。とろくさく遅れて譜面台を運ぶ私を追い越しざまに覗き込んで、あっさりと帰還の報せを寄こしてくれる。
「あ、え、お、おかえり?」
あまりにも咄嗟のことでしのろもどろな反応しか返せない私を見て、彼は少しだけ目を細めた気がした。彼はマスクをしていて表情がわかりづらかったけれど、その微かな笑みは別に暖かくも冷たくもなかった。けれどもだからこそ無垢にも思えた。
「ああー! **くーん!」
彼が席を用意するとそれに気づいたすぐ傍の席の女子たちが黄色い声を上げたのを皮切りに彼の復帰はあっという間に部屋中の部員に広まり、みんなが彼の元へ駆け寄り、人が多すぎて近寄れない人も遠巻きにちらちらと彼の様子を伺っては言葉を探しているようだった。私はそんな彼を見てやっぱり人気者だなあと思い、片隅では少し可哀想に思った。練習前ですらこの調子では、練習が終わった後はどれほどの人の対応に追われることになるのだろう。
何故だろうか彼はあまりそれを望んでいない気がして、だから可哀想に思えたのだということにも気が付いて、なんだか変な気分がした。彼のことなど何も知りはしないし、彼とあの日会って話をしていなければこんなことを思うこともなく、彼の復帰に何かを感じることもきっとなかったはずだったのに。
いや、そもそも彼の口振りでは、彼は私とあの日会っていなければ大学もサークルも辞めるつもりのようだったから、私が見舞いに行っていなければ彼は今ここに帰って来ることもなかったのか。そう思うとますます妙な気分だ。
練習を取り仕切るコンサートマスターまでが彼との話に興じていたので、練習の始まりが少し遅れている間、私はずっと奇妙な気持ちのまま思考をぐるぐるとさせながら部屋の隅で小さな穴の開いた部屋の白い壁をぼんやりと眺めてながら頬杖をついていた。
練習は最初の方こそそわそわとした雰囲気であったけれどそこは流石の彼で、彼の前で彼を理由に練習をないがしろにすることを彼が喜ばないことを部員の誰もが言葉にせずともわかっていた。彼は彼で二週間近くも入院していたにも関わらず他の誰よりも上手くヴァイオリンを弾ききって、演奏面でも他の部員をリードして引っ張って見せた。それまでセカンドヴァイオリンの核を欠いて全体のまとまりを欠いていたオーケストラ全体が、失っていたバランスを取り戻して生き生きとした自信のある音を出せるようになっていき、その感触を部員が互いに感じ取りながら、演奏はあっという間に良くなっていった。
セカンドヴァイオリンの中では彼はパートリーダーとはいえ、彼一人でここまでオーケストラが大きく変わるのだということに音楽的なセンスをまったく持ち合わせない私ですらすぐに気づけるのだから、彼の影響力の大きさに驚いた。みんな技術的にも精神的にも彼のことをこんなにも頼っていたのだ。
それで彼は幸せなのだろうか。
私なら? 不安や責任の重さに潰されてしまうかもしれない。というかそもそも自分が人に頼られているところをリアルに想像することさえ難しくて、彼の気持ちを推し量るまでに至れない。普通の人は人から頼られて、自分が努力して培った確かな努力に基づいた実力で、それに見合った責任を果たして誰かの役に立つことを、幸せだと思うんだろうか。
やっぱり私にはわからないな。
そんなことを考えていたら、ふいにE線の上で弓が暴れて弦がばたばたと震えた音を出した。けれども、誰もそんなことを気にはしない。
私の影響力は彼の何分の一だろうか。
この練習に私は要らないんだなと思うと、少しだけ悲しくなった。
結局指揮者とコンサートマスターはきちんと練習をやり切り、見失ってずっと取り戻せずにいた良い感触を再び手に入れられたことに少なからず興奮して喜んでいる様子で、それは部屋の誰もが共有する思いであり、その理由が彼であることもまた誰もがわかっていた。それ故にこの練習の挨拶が終わったら彼の元に部員が殺到してあらゆる言葉を雨のように浴びせかけるのもまた同じくらい明白で、彼はそのときどんな表情でどんな対応をするのかと少し気になった。
案の定彼と近く楽器を持ち運べるヴァイオリンの部員から、練習が終わったあとの彼のもとに詰め寄った。耳をそばだてたけれど彼の声は黄色い声に埋め尽くされてよく聞こえなかった。私は出口から一番近い場所に位置取っていて運搬にも一番時間がかかるコントラバスパートなので、誰よりも早く早々にコントラバスをサークル会館の楽器庫に仕舞わねばならず、あまり彼に聞き耳を立てている時間も余裕もなかった。私は弓を緩め松やにを少し飛ばしてケースに仕舞ってから、コントラバスを抱え、彼を取り囲む集団をちらっと横目で一瞥してすぐに部屋を出た。
そうしてコントラバスを楽器庫に仕舞い終えて部屋に戻って来ると、彼はまだ譜面台を片付けることもできないまま人の波に囲まれているかと思いきや、予想とは反対に彼は影も形もなくなっていた。部屋をきょろきょろと見渡してみてもそれらしい人は見つからないし、そもそも居れば他の人が話しかけに行っているはずだからすぐにわかるはずだ。
帰ってしまったのだろうか。私だったら、あれほどの人に囲まれて全ての言葉に対応するのは大変だし無理だと思うから、逃げ出してしまいたかったというのなら理解できるけれども彼はそういう気持ちだったのだろうか。いや、きっと何もできない私と何でも持っている彼が同じ気持ちになんてなるはずがない。
だろうけれども、じゃあ彼は、何を望んでいたのだろう。あの時間に、周りに、自分に、そして私に。
何となくもやっとする自分に気付いて、嫌になる。私もまた彼に何か期待していたのかもしれない。秘密を共有したことに浮かれて、特別なような勘違いをして、頼られたような気になって嬉しくなっていたのかと思うと、病院に足を運んだときよりも恥ずかしい思いがした。
なんて厚かましい。せめて誰にも悟られなかったことを救いにしたい。
でもあの時はそんな思いも彼に見透かされて、もし彼が今の私を見たら、この気持ちも見透かされてしまうのかもしれない。けれどもそれで情けないと感じるよりも彼を恐ろしく感じるよりも、寧ろ許されるような気がして、彼と話したくなった。
譜面台を運びながらポケットからスマートフォンを取り出すと、一度も使ったことのなかった彼との連絡フォームが起動していて、メッセージが入っている。
丁寧にGPSの地図までついて。
「終わったら十八条の銀の森ってお店に来てくれないかな、奢るから」
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