青い鳥は生まれない
二階堂くらげ
001
自動ドアを通り抜けて病院の特徴的な匂いを感じた時、どうして来ちゃったんだろうなあと心の中で呟いた。それでも引き返す気にもなれなくて、私は履き古したスニーカーを滅菌スリッパに履き替えて、蛍光灯の鋭い光を眩しく照り返すつるつるの床をぱたぱたと歩き出した。
目指すは三〇七号室。こころなしか病院のエレベーターは、優しい音がする気がする。少し揺れて、ふとつかんだ手すりのわきの操作パネルにエレベーターの年代を感じた。何人がこのパネルにどんな思いで触れたのだろう。エレベーターの中の空気の匂いを感じて、同乗した青緑の入院着を着た人の頼り投げな背中を見て、それはきっと切実に祈るような気持ちだったに違いないと思うにつけて情けなくなった。本当に、どうして来てしまったんだろうか。
しているうちにエレベーターは三階について、私は車椅子に乗った人の脇をすり抜けて、点滴のパックを吊り下げる棒を避け、するりとフロアに降りた。三階は一階に比べて更に薄暗く、蛍光灯の光のけばけばしさがいっそう際立っていた。眼前には狭い廊下が左右に伸びるのみで、窓も通路の突き当りまでなく、じめっとした空気をまるで感じていないかのようなきりきりとした動きで看護師の女性が一人目の前を左から右へと横切って行った。それがひどく冷たくも感じたし、過酷にも思えた。
「失礼します」
横開きのドアの長い手すりに手をかけるとひやっとして、それが背筋まで伝って来た。何となく今の自分の行いを後ろから誰かに指を指して責められているような気がして、私はそれを振り払うように手に力をこめた。ドアは独特のすーっという滑らかな音を立ててゆっくりと開き、恐らくは他の誰とも対等に私を病室へと迎え入れた。
彼は四台のベッドのうち右奥の窓に近い場所に居た。
「あの、どうも、はは」
私の口をついて出たのはそんな情けない言葉とも言えないようなものだった。それでも彼は嫌な顔ひとつせず私を笑顔で迎えてくれた。
「来てくれたんだ、ありがとう」
座って、と彼は傍の背の低い椅子を私に勧めてくれて、私はそれに素直に従った。
「ねえ、先に言ってもいい」
私が彼にかける心配の言葉を探しているのがまるで目に見えていたみたいに彼が言った。私は流されるがままにうんと頷いた。
「お嬢さん、今悩んでることがありますね」
彼はふいにおどけたように言うので、私はえっと短く声を発して考え込んだ。
「当たり?」
彼が尋ねる。私はばつが悪くて、なんだか変な汗をかきそうだった。しかし私がへらへらと苦笑いして言い訳を返そうとしても、その言葉もまた彼に先に制されてしまう。
「認知バイアスって言うんだよ。もっと細かく言うとバーナム効果って言うらしいけど、曖昧なことを言われているのに人間は自分だけを指しているように感じるときがあるんだって。入院してる間に読んだ本に書いてあったんだけど、誰かに話したくてね。意地悪してごめんね。お詫びにさ、これ」
そう言うと彼はベッドの脇の小さな棚の上に置いてあったスナック菓子をひとつ私に渡して、もうひとつを自分で開けた。私はあまりにも滑らかな所作に気おされて、寧ろここで食べない方が失礼なような気がする空気に負けて断り切れず「ありがとう」と礼を言ってから菓子の包装をぴりっと破った。
お互い一口ずつ齧る。私は病室の床に菓子の食べかすを落としてしまわないか気が気でならなかったけれど、彼はベッドの上にかすが落ちることもまったく気にしない様子でさくさくと菓子を頬張っていく。
「でも、すごいなあって思っちゃった」
彼は最後の一口を頬張り終え、スナック菓子を咀嚼しているさなかだった。私はまだ半分残った菓子を両手で膝の上に持ったままぽつりと零した。
「まるで心の中がわかっちゃったのかと思ったよ」
私のわざとらしい笑顔を向けられても彼はやはり困ったような顔もせず、むしろ口の中のものを飲み下すといっそう柔らかく笑って言った。
「わかるよ」
ふと彼の顔を見る。意識してそうしたわけではなくて、身体が自然とそう動いた。彼の表情を見て、目を見て、なんとなく視線を離せなくなってしまう。彼は穏やかだけれど、少し寂しそうな顔をしていた。
「君は……同じサークルではあるけど殆ど話したことのない僕のお見舞いに一人でやって来た。僕のことを心配して、ではないよね。じゃあ僕が思いつく理由はふたつで、ひとつは怪我をしたり弱っている人間を見て優越感を感じて安心したいからだけど、僕が知ってる限りじゃ君はそういう人間じゃあない」
彼は菓子の包装を丸めてごみ箱に投げ入れた。視線が私から外れて、私もふいにごみ箱の方を見やる。そして彼もごみ箱のある壁とベッドの間の、小さな棚のすぐ脇の暗く小さな角を見ながら続けた。
「君は今弱っている。何か辛いことがあったんだ。それでなんとなく気の迷いで僕のお見舞いに来たように思っているけれど、その実本当は自分の心の傷を誤魔化すためにお見舞いに来たことに気付いていて、そのことに後ろめたさも感じている」
彼の視線はまだ暗がりに向けられたままで、それが救いでもあるような、放逐でもあるような気がした。私はとにかく情けなくて、恥ずかしくて、今すぐこの病室から駆け出していってしまいたい気分でいっぱいになって、顔がもうどれほどの熱を帯びているかもわからない程だったけれど、それ以上に彼に詫びなくてはという気持ちが勝った。
「ごめんなさい」
私は頭を深く下げた。彼の顔は見えない。窓から差す光が少しだけ弱くなった気がした。
「あは、こっちこそごめんね。いいんだよ。顔を上げて。僕が意地悪しただけだから」
そうは言われても、今顔を上げたら私が顔をどれほど真っ赤にしてどんな表情をしているかわかったものではないし、見せられたものではない。私は手で口元を多い、伏し目がちにまだ少し前かがみになりながら、なんとか少し上体を起こしてゆっくりと息をして、彼の腰から下を覆う薄い布団に視線を向けた。
「それでも、ごめんなさい。きみの言う通りだと思う。入院してるきみを利用して自分が安心したかったから、ここに来たの」
自分で言葉にしていて途中からあまりの情けなさに泣きそうになって、きつく目を細めた。思わず下瞼に力が入って、唇が震えかけた。
「人間ってそういう風にできてるんだよ。さっきも言ったけどこの本に書いてあって、認知バイアスって言うんだってさ。誰しもがそういう風にできてるし、誰もそれを責めることはできないようにできてるんだよ。中では君は自分のダメージを入院中で弱者の立場の僕を見下して安心して誤魔化そうとするんじゃなくて、僕を心からいたわってなくそうとしたんだから、寧ろ讃えられてもいいくらいだと思う。君は愛が欲しくなったら愛を与えることができる人なんだと思うからさ、もう顔を上げてよ」
意を決して口元から手を外し彼の顔を見ると彼は微かに笑っていたけれど、差していた陽が暗くなったからか、それはさっきまでの穏やかでやわらかい笑みからどこか弱弱しく力ない笑みに変わって見えた。さっきまでの情けなさや不甲斐なさはふいにどこかへ行ってしまって、彼が急にたった今瞼を閉じたらもう二度と開かないような不安がかわりにすり抜けて忍び込んで来る。
「色んな人が見舞いに来てくれたけど、君が一番良かった」
彼はリクライニングされて少し傾いていたベッドから背を起こして、足を組みなおしこちらを見て続けて言う。
「僕が交通事故で入院してるのは知ってると思うけど、なんでこんなに身体は健康で骨折もないのにまだ退院できないか知ってる? 交通事故だからさ、あちこち色々と検査したんだけどそうしたら僕の前頭葉の脳波に異常が見られるとかで、その検査で入院が長引いてるって訳。それでさあ、お医者さんが言うには、僕は極端に人と比べて幸せって気持ちを感じづらいようにできてるんだって」
「え……」
「しかもこれは事故の影響とかじゃなくて、生まれつきなんだってさ。しかも遺伝するらしいよ。僕は生まれてから今まで二十年くらい、ずっと幸せってものを知らないで生きてきたってことらしくて、笑っちゃうよね。本当かよ! って。ははは」
彼はスナック菓子の袋をもうひとつ手にとるけれど、その間も私は複雑な気分で微妙な表情をしながら彼を見つめるしかなかった。ぺりぺりと包装が音を立てて破かれる。その音で私もまだ両手に食べかけの菓子の入った袋を持ったままだったことを遅れて思い出した。
「んで、そう言われたらなんか今までのこととかこれからのこととかどうでも良くなっちゃってさ。医者からは退院前に定期的な認知療法を受けるように勧められたりもしたけどとにかく鬱陶しくて、今は一刻も早く退院したい気分で……いや、そんなのはどうでもいいや。単刀直入に言うよ、よく聞いてね」
彼は食べかけの菓子をベッドに備え付けられたテーブルの上に置いて、私の目をはっきりと見つめて言った。私はまた彼の目から視線を離せなくなる。
「僕はもうさ、なんていうか、打算で人付き合いするのに少し飽きた。だから僕の脳波の異常を教えた君にだけ、今までとは違った付き合い方をしてみようと思う。大学とかサークルとか辞めるのはそれにも飽きてからにしたい。だから君にはそれに協力して欲しいんだ。あと僕の脳波のことは他の人には内緒にしてほしい。どうかな」
彼の言葉は飾り気がなくて素っ気なくて、少し暴力的とも言えるくらい乱暴だったけれど、私はノーとは言えなかった。脳波のことを他の人に暴露する理由はないし、さっきまで自分がこの人を利用して安心しようとしていたことを指摘されたばかりだったし、何より彼の眼差しが今までの生涯で見たこともないくらい頼りなげで、触れば折れてしまいそうな細い花の茎みたいに大切にしなくてはならないような気がした。
私は「わかった」と二つ返事を返した。彼は破顔して「ありがとう」と言ってくれた。彼はずっとにこやかな表情をしていたはずなのに、何故だか彼がようやく笑ったような気がした。
彼がテーブルにのけたスナック菓子を食べて、私も思い出したように自分の手に残っていた菓子を口に含んだ。彼が「じゃあ、またサークルで」と言うので、私は席を立つのが自然な流れのように思えた。そうしてその言葉通り私は彼が退院するまで彼の見舞いには行かなかった。
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