解呪 第三節
私は包丁を片手に数分ぼうっとしていた。
別段殺すことに躊躇ったのではない。
今からでも目の前の女の喉笛に刃先を突き刺すことは出来る。
肋骨を避けて心臓を刺すことなど容易だろう。
ただぼんやりと、なぜこうなってしまったのか、考えていた。そこに後悔や怒り、失意の念はない。ただ他愛もなくぼうっとする子供のように考えていた。
──ぴーんぽーん。
間延びしたチャイムが鳴った。
私は浴槽から廊下に視線を移した。
このマンションはオートロックマンションではないので、訪問者は廊下を出た直ぐ右手のドアからチャイムを鳴らしている。扉の前で慌てているような気配もなく、投函口を覗くような音もしない。宅配便か何かだろう。
そう考え、不在票を入れて立ち去るのを待っていると、またチャイムが鳴った。
「あのー、さきほど連絡頂いた扶桑運輸(ふそううんゆ)ですけどぉ」
男の声が聞こえた。
彼は反応がないのを不思議に思い、遠慮がちにドアをノックした。
「平川(ひらかわ)さん、いらっしゃいませんか? つい五分前に連絡されましたよねぇ」
平川と言われ眉を顰めた。この部屋の住人は山儀だ。
それに平川はこの二○二号室ではなく、慥か一階の一○二号室だったはず。この部屋に訪れる前、ポストで名前を確認したから覚えている。
要は来る階を間違えているのだ。それなのに男はドアの前で戸惑うような声を上げながらも執拗にチャイムを鳴らしてくる。
最初は直ぐに帰るだろうと思っていたが、相手は自分の間違いに気付かないのか、何度も何度もチャイムを鳴らしてはドアを叩いた。
なんでこう自分を邪魔しようとする人間が多いのか。
新卒で入社した会社もそうだった。ろくすっぽ指示も説明もなく飛び込み営業をさせられる毎日。技術は自分で盗め、などと前時代的な事を高らかとほざいては部下の教育を怠る上司。だがミスすると二時間三時間は罵倒し貶す。いつも時間がないとこれ見よがしにいう上司に何処から私をいびる時間を捻出しているのかと問い糾してみたかった。
それでも堪えに堪え、まとまった金を携えて退職。大学からの夢だった農業に手を出せば、近隣住民と折り合いが付かず思うようにいかない。
しまいには二度目の殺人を犯そうとしている最中に間抜けがやってくる始末。
神経を逆撫でされるようだ。
首が壊れた首振り人形のようにチック反応を示し始める。
私は包丁を洗面器のなかに包丁を置くと廊下に出た。
足音を聞いたのか運送員の騒がしいチャイムが止んだ。
用心の為に扉にチェーンロックを掛けると、鍵を外しドアノブを回した。
「あの平川様ですよね」
「違げえよ」
怒気を込めて言う。
ドアの隙間から顔を覗かせる配達員の男は間の抜けた声に見合った人の良さそうな、それでいて思慮の浅そうな二十歳前後の青年だった。垢抜けておらず、勤労学生のようにも見えた。
「あれ、おかしいな?」
戸惑った声をあげながら上を向いて、あっ、と間の抜けた声を上げた。
今頃になって表札に気付いたらしい。視線を戻すとバツの悪い顔をした。
「えーと、平川さんのお宅って何号室ですっけ」
私ははばかりもせず舌打ちをした。
配達員は気まずそうに頭をさげた。
「一階だよ」
そういってドアを閉めようとすると、あの、と配達員から声を掛けられた。
ここで無視して、またチャイムを鳴らされたら殴りつけそうだったので、私は苛立ちながらなんだよ、と訊いた。
「あの最後に一つだけお伺いしても宜しいでしょうか?」
なにッ、と怒鳴るようにいって、ふと妙なことに気付いた。
目の前の青年の服装だ。
配達員ならその会社が支給した制服を着ている。
だというのに目の前にいる青年は皺のない白いワイシャツに黒のジーパン姿だった。
「えーと御確認なんですが」
そう前置きした青年の貌が、一瞬にして鋭さを露わにした。
「お前が浦口だな」
青年の口から電話口で聞いた忌々しい声が生じる。
途端、火花が弾けるような音に続いて、ドアノブを掴んだ右手が弾けた。
瞬時に右手から全身を貫くような衝撃が走る。
心臓が感じたことがないほどに跳ね上がった。
全身が痙攣し、俎板で跳ねる魚のように顔を突き出して喘いだ。
ぶれる視界にスタンガンを持った青年が見えた。
その顔はさっきまでの人畜無害のそれではなく。
煌々と光る猛禽類のような眼光と三日月のようにつり上がる口元。
それは化け物と形容するに足る面貌で。
掛けたチェーンを分厚い業務用の鋏で切断すると、ドアの隙間からぬっと身体を入れて痺れて動けない私を見下ろした。
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