禁忌 第三節

 再び眼を覚ましたとき、そこはまだ夜の禁足地だった。

 後頭部に走った鈍痛が思考を覚醒させた。


 逃げなければ。

 そう思うが、身体が思うように動かない。次第に自分がずっと両腕を上げている奇妙な姿勢で立っていることに気付いた。それだけではない。口には布で轡が噛まされていて、叫ぶことさえ出来なくなっていた。

 私はようやく自分が木にくくりつけられていることを自覚した。

 両手首を縄で括られ、木に吊られていた。


 何故こんなことになっているのかは理解が追いつかなかったが、この状態でいることの危険性はすぐに理解できた。

 刃物をもって禁足地を徘徊していた化け物に見つかれば、確実に殺される。

 そのときの私はまな板の鯉だった。あの化け物が私を見つければ躊躇いなく鋏のような凶器で惨殺される。救助も望めないだろう。夜になると消防団は二次被害を嫌って捜索をしない。

 もし私を案じて捜索したとしても、何の確証もなく禁足地に踏み込むとは思えない。

 無理矢理繋がれた両手を引っ張ってみるが、手首を鬱血(うつけつ)させるほど強く絞められているために縄はびくともしない。縄自体を引っ張ってみるが手首の圧迫が更にひどくなるだけだった。

 早くしなければッ!

 気ばかりが急く。それでも拘束は解けない。

 私は自暴自棄になり、唸り声をあげて縄を外そうと手首をがむしゃらに動かした。

 そんな私の耳に、遠くから跫音が聞こえた。

 途端に全身が硬直した。冷たい血液が背筋を登りあがった。

 振り返れば、木々の合間に人が立っていた。

 最初、それは右腕だけが異様に長く見えたが、それが家などで利用する高枝切ばさみのような器具だと気付いて戦慄した。

 奴だ。そう察した私を肯定するように、あの金音が、カチャンと鳴らした。

 それはもう私を見つけ出したことが非常に嬉しいと言うかのように、カチャン、カチャン、と刃金を噛ませる。いま殺してやると言うように。

 私は轡の奥から絶叫した。

 しかし、相手は躊躇うこともなく凶器の高枝切ばさみを見せつけるように振り回しながら近づいてくる。アタッチメントとしてノコギリ刃のようなものがついていた。それをどのように使用するかは、狂喜する何者かの浮き足だった足取りが如実に語っていた。

 私は最後の力を振り絞って、縄を解こうと抗った。

 だが、縄はびくともしない。

 その代わりに轡の布が緩まり、顎辺りまでずり下がった。

 何者かは十メートルもない距離まで近づいている。

 私は最後の望みを賭けて叫んだ。


 誰かッ。

 その声に、何者かの後ろから山彦のように声が返ってきた。


 誰だッ。

 木霊した声は、私のものとはかけ離れた嗄れた声だった。

 何者かは驚愕したように振り返ると、すぐにその場から立ち去った。

 走り去った何者かと代わるように誰かが走り寄ってきた。その人は私に気付くと、私の名を大声で呼んだ。

「けがぁねえか」

 聞き慣れた訛った声に、私は堪らず泣き出した。

 助けに来てくれたのは、タケじぃだった。

 タケじぃは持っていた小刀で紐を切ると、布の轡を外してくれた。

「いきとるか」

 へたれこむ私に、彼はそう訊いた。

 私が首肯すると、タケじぃは、そうか、と嘆息して、

「こんどはたすけられたか」

 そう静かに独りごちた。



 あの夜、タケじぃと一緒に禁足地から出たあと、村の人達が私を心配して捜索隊を飯盛山に向けていた事が分かった。

 しかも昼頃には捜索が始まっていたというから驚きである。

 私が発見されたのは、五日目の午前零時頃。捜索は夜を徹して続けられていたらしく、首吊り鳥居から見下ろしたとき、童妙神社(どうみようじんじや)の辺りは煌々と明かりが灯っていた。

 タケじぃは下山中、何も言わず肩をかしてくれた。私も何も訊かなかった。

 彼が最後に呟いた、

 ──こんどはたすけられたか。

 という言葉が、彼の心中の誰を指す言葉だったのかは私には知る由もなかったが、もう何も訊こうと思わなかった。

 彌子村(みこむら)に関わる全てから距離を置きたかった。

 ただ唯一の心残りは、禁足地で見つけた実里ちゃんの天子人形(あまごにんぎよう)だった。

 そのことについては触れようか悩んだ。

 しかし彼女はもう生きていない。それに人形は禁足地に置き去りにしてしまっている。

 逡巡の末、私は黙って下山した。

 三叉路に辿り着くと、村人が一斉に声をあげた。その中から両親が飛び出てきた。

 どちらも十歳は老けたような顔で頬には涙が伝っていた。そのあと様々な人から労われたが、そのどれも覚えていない。両親の言葉さえもだ。


 結局、タケじぃは事の顛末を言わなかった。私が何者かに縛られ、殺されそうになっていたことなど見ていなかったように、

「山中で怪我をしていた」

 と周囲の人たちに言い残して、去って行った。

 五日目の朝、もう少し安静にしたらどうかという両親の心配に対して首を横に振り、彼等に見送られながら始発の列車に乗った。

 閉まる扉ごしに見た母の顔は、申し訳なさそうな気持ちをどうにかこうにか取り繕うような表情をしていた。

 父は何か言いたげな表情だったが、結局口を開かなかった。

 無人駅の改札には、杖をついたタケじぃが凝っとこちらを見ていた。

 私は彼等に軽く手を振ると、座席に腰を下ろした。

 走り出した車窓に飯盛山が映った。

 あの忌み山にまだ私を探す化け物が徘徊しているのだろうか。

 山の中腹には灰色のガードレールのようなものが見えた。

 その石色の斑点が、生還したはずの私の心をひどく苛んだ。

 私は忌々しい石鳥居の斑点から眼を逸らすと、君にこの五日間の怪異を伝えるために、キャリーケースから取り出したパソコンの電源ボタンを押した。

 パソコンのブーンという起動音が、誰ひとりとしていない三両編成の車内に小さく響いた。



 こうして私の彌子村(みこむら)での五日間は終わった。

 あの五日間を生存し、私はアパートでこの後書きのような文章を書いている。

 この文章を書くのは非常に疲れをともなうものだった。

 この五日間に文章におこすのは苦痛であったし、何度も断念したいと思った。

 彌子村の日々を思い出し、言葉にして記憶を記すことは、私に強烈な恐怖をフラッシュバックさせるものだったからだ。

 実をいうところ、アパートに帰宅したあと、私はこのテキストファイルから距離を置こうと思っていた。

 君に送るうえでは書いた事実が私の体験談と間違っていないか確認する作業も伴う。それが苦痛だった。

 しかしこれを君が目を通しているように、私は書ききった。

 それでも書かなければならない理由が、彌子村から戻ってきた私の身に起きたからだ。


 アマゴサマの祟りは終わっていなかった。

 天子人形(あまごにんぎよう)があったんだ。

 帰宅後にキャリーケースを整理していると、あの私を模した天子人形が出てきたのだ。

 それは童ヶ淵(わらべがふち)に流したはずだった。

 しかしそれは慥かにそこにあって、以前見た時よりも私に酷似していた。

 今になって思えば、私は大きな勘違いをしていたのではないだろうか。

 アマゴサマの悪意は、あの五日間のうちに終わり、私は恐怖映画を見終えた観客のように、もう害を及ばないと何の根拠も無く信じていたのではないか。

 しかし、違うのだ。

 アマゴサマはまだ私を許してない。

 最近、あの禁足地で逢った化け物が頭にちらつく。

 それは時折、人混みの中から視線を送ってくるような気がしてならない。

 何者かは、いやアマゴサマはまだ諦めていないのだ。

 私を許していないのだ。

 あれが禁足地で呟いた言葉が、ずっと私の心に憑いてまわる。

 ──ころさなければ。

 その言葉は、まるで私の耳元で囁くように、誰も居ない部屋で聞こえてくるのだ。


 助けてくれ。頼む。

 早くしなければ、私は本当に殺されてしまう。

 君だけが頼りだ。

 連絡をくれ。

 アパートの住所と新しく購入した携帯の電話番号は名刺に書いてある。

 この用紙を入れる封筒に入っているはずだ。確認してくれ。

 できるだけ、迅速な連絡を期待している。

                                   

                                   

 山儀(やまぎ) 晶(あきら) より

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