怪異 第五節
家に帰った私は自分が思っていた以上に憔悴していたらしい。
母は私を一目見るとしきりに休むことを勧めた。だが、このまま布団にもぐれば悪夢を必定だったので、自室から煙草を持ち出して一服しようと決めた。
煙草を常飲する性質ではなかったが、その夜は何かで気を紛らわせたかった。その捌け口に煙草を求めた。
自室に戻ると脱ぎ捨てた上着をさぐり、開封して数本しか吸っていない『HOPE』を取り出した。パッケージに書かれた『希望』という英語が、恐怖から逃避したくて煙草を手に取った私を嘲笑っているかのようだった。
ややおら庭で一服しようとしてライターがないことに気付いた。慥か最後に吸ったのは一週間前のアパートのベランダだったので、おそらくそこに置いてきたのだろう。
私は火種を探しに台所へ向かった。台所の引き戸を漁っているとチャッカマンが出てきたのでそれを拝借し、庭に出ようと振り返ったところで、台所脇におかれた半透明の可燃物のゴミ袋が目に付いた。
私はゆっくりとゴミ袋に近づき、捨てられた雑多なゴミの中から衣服を一着を摘まみ上げた。
それは着替えとして持ってきた私の一着で前日の捜索に着用した柄物のシャツだった。
そのシャツは右端が長方形にざっくりと切り取られていた。
頭によぎったのは、浦口が水子供養碑で語ったもう一つの怪異。
百舌鳥の早贄。
凄惨な死体。
私は頭をふって、脳内から怖ろしい連想を振り払った。
なぜ衣服を切り取られなければ行けないのか。全く意味が分からない。だが長方形に裁断されたシャツは、私に向けられた悪意をまざまざと見せつけた。
私はすぐにそのシャツをゴミ袋に押し込むと勝手口から庭に出た。埋めた人形の所在がどうしても気になった。そこまで深くは埋めていない。鉢植えを植える程度だ。近くにあったスコップを手に取り記憶を頼りに掘り進めると、土は柔らかく、その場所が掘り返した場所だと感触が教えてくれた。
だというのに、幾ら掘っても人形は出てこない。
蒼然となった。スコップを投げ出して、縋るようにジーンズのポケットから取り出した煙草に火をつけようとしても、手先が震えてまごついた。
苛立って煙草を捨てると、私は天を仰いだ。
殺されると思った。
何者かの悪意がすぐそこまで迫っている。安穏としていれば、迎える結末は無惨な死体だ。
私に殺意を向ける誰かは分からない。だが動機は明確だったと思った。
首吊り雛の祭祀を失敗させたからだ。私が森山健太君の天子人形を持ち去ったことが切っ掛けなのだ。
そう考えると、犯人は森山健太君の関係者、特に異常な精神状態の森山咲の線が濃厚だろう。しかし、それでは疑問が生じる。
なぜ彼女は私が祭祀失敗の原因だと特定できたのか。
彌子村では浦口も坂梨も疑われている最中である。彼女だけが知り得る方法があるのか。それに彼女が私の身に起きた全ての怪奇現象の根源ならば、深夜に私の家に侵入して私を模した人形を置くという奇行も理解できない。悪意や復讐が動機ならば、彼女は家人に発見されるリスクを冒してまで、天子人形を置くなど回りくどいことをせず、村に口伝されている「一踪一死」になぞらえて殺害すれば良かったのだ。
では彼女ではなく、アマゴサマの狂信者という線はどうか。
これは否定も肯定もできない。私は村人個人の思想まで把握できていないからだ。ただ、これについても頭を捻る部分がある。アマゴサマの祟りを代行して殺人を犯すリスクと、それに見合う利益が釣り合わないのだ。
狂信者に損得勘定を持ち出すのはおかしい話しだろうが、そもそもアマゴサマは祟り神であって、村に恩恵を与える神ではない。アマゴサマを畏れこそすれ、代行殺人をおこなって得られるものなど何もないだろう。もし狂信者なりの理論があるのだ、と言われればそこまでだが、そうなると村人の思想を把握する必要がある。それは無理というものだ。
よって私がこの悪意に取りうる手段は自衛しかなかった。
自衛──そう考える一方で、果たして相手が自衛できる対象か、という不安があった。
若しも本当に健太君が神隠しに遭ったとしたら。
誤解を恐れず本心を述べるなら、このとき私は健太君が遺体で発見されることを切に望んでいた。彼が常識の範囲内で死亡したらなら、私はこの暗澹とした呪いから解放されるからだ。
しかし、神隠しが実際に生じたとすれば、アマゴサマによる次の犠牲者は私なのだ。神の祟りが地域限定とはいかないだろう。彌子村から出たからといって、救われると考えるのは楽観的だった。
もう私の心は半ばこの祟り神の存在を信じ始めていた。パンに浮き出た黴が段々と周りを腐蝕していくように、私の精神も怪異に侵蝕されていた。
既にこのとき、私が危惧すべきは肉体的な死だけではなかった。このままでは精神さえ摩滅させられる危険性があった。
自衛しなければ、と再度思う。
このままでは、死体か癈人か二者択一だ。
私は残っていた煙草を全て灰にするまで逡巡すると、家の中に戻った。
その頃には、ひとつの指針が出来ていた。
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