発端 第五節
私は小さい頃、母に寝物語をせがむのが常だった。
母は大変な読書家で、昔読んだ小説や民話を子供用に噛み砕いて語るのがうまかった。特に民間伝承の話が多く、掛け布団の端を掴み、おっかなびっくりしながらも一言一句逃さないように聞いていた。
母が話す物語は好きだった。
ただ、一つだけ嫌いな話があった。
その話をするときの母の顔は、いつもの温和な表情ではなく、公言してはいけない秘密を言って聞かせるような、真に迫る顔だった。
「菊の節句の夜は、決して外に出てはいけないよ」
話し始めの文言は決まってこれだった。
菊の節句といえば、端午(たんご)や七夕(たなばた)などの五節句の内の一つで、旧暦の頃、この時期に菊が咲く季節であるために、そう呼ばれ始めた。もとは重陽(ちようよう)の節句という。
とはいえ、こんなこと君には釈迦に説法だろうね。だが、これは私自身の考えをまとめるためでもあるし、私の知識を君に訂正してもらうという意図もある。
君にとっての蛇足だとは重々承知だが、少し付き合ってくれ。
重陽の節句は陰陽思想(おんみようしそう)が下地にあり、その思想で奇数は陽の気を含む数字で、それが重なる日は気が強すぎるために不吉とされ節句の行事を行った。その中でも九という数字は、もっとも陽が強い数字とされていたため、九月九日は重陽の節句の行事で邪気を払った。
しかし中国から日本に渡来したこの文化は、平安時代には日本的な解釈が施され、むしろ陽の重なりは吉兆であるとして、菊の花びらを浮かべた酒を酌み交わす行事へと変容している。
そんなあまり知られていない重陽の節句だが、彌子村(みこむら)には重陽の節句の慣習は残っていた。
ただし日本的な吉祥としてではなく、中国的にな邪気から身を隠す日として。
日が沈めば、絶対に外には出てはいけない。
日が昇るまで、喋ってはいけない。
譫言(うわごと)のように、母は私に言った。壊れた音声機器のようにリピートと再生を繰り返し、最後は私に懇願するような物言いになった。
その懇願が、子供心に怖ろしかった。
菊の節句の夜には、母を莫迦になった蓄音機にならざるをえない怪物が出歩いているのだ。
ただ、菊の節句の夜には絶対に父は外出した。
母に父は出て行っても大丈夫なのか、と訊くと、大人は大丈夫なのだと教えてくれた。
では何をしに行くのか、と問うと、母は、仕事だと言った。
何の仕事か、と訊くと、大切な仕事なのよ、と答えた。
いつだったか、父が帰ってきたあと、居間で母と話している声を漏れ聞いたことがある。
その会話の中で出た、とある不吉な単語が痼(しこり)のように残っていた。
首吊り雛。
のちにそれが、彌子村が重陽の節句で行う祭祀であることを知った。
だが高校に進学するために村を出るまで、ついぞ首吊り雛の祭祀がどういう儀式なのかを知る機会はなかった。両親も口を噤み、曖昧な笑みを浮かべるだけだった。
それから五年後、こういう形で祭祀に関わるとは。
私達がさせられた作業は、首を吊られた人形の納棺(のうかん)だった。
まずタケじぃが吊された人形に合掌したあと、貫に掛けられた紐を取り外した。鳥居自体は背が低く、手の届く高さに貫があった。
次に取り外した人形を私達に手渡した。人形はかかえるほどの大きさだったが、木彫りなのか見た目より軽かった。
それを一つ一つ経文の張り合わされた竹籠に納めていく。いわば竹籠は首を吊られた人形の棺桶の役割を果たしていた。
作業中、誰もが無言だった。
タケじぃから渡される人形は精巧な作りで生々しさがあった。どれも異なる顔で衣服も個性がある。
その中で共通点をあげるならば、年齢が幼児から童子ほどの子供だけだという点だ。
そんな年端もいかない子供の頸部(けいぶ)には、緩まないよう結節(けつせつ)が作られた縄が括られている。その凄惨な造形物は十六体あり、一つの竹籠に四体ずつ納められた。
私が最後の一体を竹籠に詰めたとき、ふと渡された人形のうなじに傷痕が見えた。よくよく注目すると、それは傷ではなく文字が彫り込まれた痕だった。
小さい文字だが、「森山健太(もりやまけんた)」と刻まれている。
その人形の名前を知った途端、手の中にある人形が一層生々しく思えた。
「あまり見ない方がいいよ」
振り返ると、浦口が何かを諦めていたように苦笑していた。
私は気味が悪くなり、「森山健太」と彫り込まれた人形を竹籠に押し込めた。
タケじぃは全ての人形が竹籠に納棺されたのを確認すると、石鳥居の前で手を合わせ頭を下げた。私達は慌ててそれに倣い一礼した。
あとで訊いたことだが、鬱蒼と樹木が乱立する石鳥居の先は禁足地(きんそくち)とされていて、アマゴサマという山の神が棲まう神域だった。
タケじぃは一礼をすると、義務を果たしたとばかりに石鳥居に背を向け、早々に自分の竹籠を背負って九十九折りの隘路へと入っていった。その変わり身の早さは手を合わせたアマゴサマに対して敬う気持ちが微塵もないかのようだった。
私は慌てて重くなった竹籠を背負うと、まだ神経質そうに竹籠の中の人形を整頓しようとしている坂梨や、のったりと竹籠を背負い始めた浦口を追い越して、タケじぃの竹籠に触れるほど近くに駆け寄った。
絶対に帰路はタケじぃの熊鈴が聞こえる距離にいたかった。もう二度と濃密な闇の中をなんのよすがもなく歩きたくなかったのだ。
九十九折りの隘路に入ると、タケじぃとの距離を保ちつつ歩いた。
途中、性懲りもなく電池の切れたハンドライトをつけようと試みていると、
「そいつはいらん。ないほうがよぉみえる」
と、タケじぃは振り返りもせず言った。
別段、タケじぃの竹籠を追えば良いのでハンドライトに拘る必要もないなと思い直し、ジーンズのポケットに差し込んだ。
最初は光もなく何も見えなかったが、次第に眼が闇に慣れて、視界はぐんと広がった。
暗順応(あんじゆんのう)というやつで、顕微鏡のしぼりの役割を果たす眼球の虹彩が瞳孔を広げて水晶体を通る光量を増やす。
明暗を識別する桿体細胞が反応して視覚が働くようにするこの作用のおかげで、タケじぃの後頭部まではっきり確認できた。
「みえるよぉなったろう」
私の感嘆の溜息を聞き取ったのか、タケじぃは言う。
礼をいうと、ん、とだけ返ってきた。それから特に会話することもなく黙々と歩いていたら、九十九折りの隘路を抜けていた。
タケじぃは山道の手前で一旦立ち止まると、
「あしもと、きぃつけえ」
と、注意した。
私は、ん、と返した。
行きは下を向いて歩いていたために気づかなかったが、山道は隘路より明るい。多分、梢の隙間から月光が差し込んでいるからだろう。
「なんでかえってきた」
山道も隘路と同様に何も喋らず下りるかと思っていたが、タケじぃは意外にも話し掛けてきた。
私はタケじぃから話題を振られ、驚きながらも質問に答えた。
大学が夏休み期間で暇な時間ができたこと、両親から常々帰省しろと催促されていたこと、五年ぶりだった彌子村に久々に訪れたいと思っていたことなどをたどたどしくも語った。
タケじぃは私の口べたな説明を、ん、とだけ相槌を打ちながら聞いていた。
そしてひとしきり話し終わると、タケじぃはぼそりと、
「わざわざ、こんな日にこんでもよかろぅが」
これには私も耳を疑った。
村の古参は祭祀を大切にし、一切の疑いもなく崇めるものだと思っていたし、その中でもタケじぃは信仰の筆頭格だと根拠もなく決め込んでいた。
だからタケじぃがぼやくように言ったのには吃驚した。
しかし時間が経つと、なんだか可笑しくなってきた。
あの木造翁(もくぞうおきな)もぼやくし、若者のように祭祀を面倒だと思うのか。
そう思うと堪えきれず、少しだけ吹き出した。
すると急に笑い出した私に驚いたタケじぃはびくっと肩をあげて振り返った。
「・・・・・・きゅうにわらうな。こわかろうが」
至極真面目な顔でそう言った。
もう限界だった。
私は夜の山道で腹を抱えて笑った。
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