発端 第四節
夜の山道は想像以上の悪路だった。
まず闇が深い。手を前へ伸ばすと手首辺りが暗闇に沈み込んで消えてしまうほどだから洒落にもならない。ライトがなければ下半身さえ見えるかどうか。山を歩くというよりは深海を潜るというほうが適切な表現だろう。
さらに草木で足下がおぼつかず、視野が下に向きがちで視界が狭まる。その為に前方に光っているであろう浦口や坂梨のライトの光を頼りに進むこともままならない。上を向けば脚が取られる。下を向けば光は見えないのだ。
そして唯一の頼りである光源は天寿を全うしようとしている。明かりとして意味を成しているか疑問なほど弱い光だが、これが消えれば暗闇の中で溺れてしまうのは畢竟だった。
ただ幸い一つだけ歩く上での指針があった。先頭を歩くタケじぃの熊鈴だ。足元を照らしながら俯いて歩く私にとって、鈴の響きは進行方向を指し示してくれた。
チリン、チリン。
視界を暗闇に奪われた山道で、蕭然(しようぜん)とした音色が彼方から降ってくる。
チリン、チリン。
息を潜めた山の中を鈴の音を頼りに登っていく。
チリン、チリン、────。
なんの前触れもなく、すっと音が消えた。
驚いて顔を上げると眼前に揺れる二つの明かりの内、先頭の光が左に揺れ、そして消失した。坂梨のハンドライトだろう。次いで、浦口のヘッドライトが揺れ、彼の横顔が浮かんだ矢先に同じ挙動で闇の中に消えた。
私は転ぶのを覚悟で山道を駆け上げると、竹藪が群生した平坦な場所へ辿り着いた。
藪の左側には分け入って進む隘路(あいろ)があり、道幅は私が両手を広げると両端に手がつくほど狭かった。
隘路へ進入し左にくねる道を駆け足で進むと、今度は右へと道は蛇行していた。
遠目にヘッドライトをつけた浦口の横顔が見えて、すぐに消えた。足許に注意しながら蛇行した隘路を左に曲がると、またちらりと浦口の横顔が浮かんでは、また吸い込まれるように右へと消えていった。
私は幾度か蛇行する道を曲がったところで、この竹林が九十九折りに曲がりくねった小径だと察した。そしてこの隘路が酷く心身を消耗させた。
左右に迫るような藪が月明かりまで木の葉で遮断して、まるで京都清水寺の胎内巡りのような閉塞感があった。加えて密生する林が音を防ぐらしく、タケじぃの鈴の音どころか浦口の足音さえ聞こえなかった。
泣きっ面に蜂とはまさにこのことで、今度はハンドライトの明かりが消えた。
すると闇がその瞬間を待っていたかのように、身体に押し寄せ完全に暗闇に呑まれてしまった。もはや眼を開けても閉じても大差はなかった。
私は暗闇の中で指先にあるスイッチの感触を確かめながらスイッチを何度も切り替えた。だが、再びハンドライトが点灯することはなかった。
私は先頭を行く浦口を呼んだ。
しかし、返答はない。
助けを求める私の叫びは木霊することなく、藪の中に吸い込まれていった。
途端、目眩を覚えた。
片膝をつくと、もう一歩も動ける気がしなかった。呼吸が上擦(うわず)って上手くできない。思考が方々に飛んでまともに考えられない。
私はパニックを起こしていた。もはや前後すら判断がつかなかった。
暗闇に質量さえ感じ始め、どんどんと心神が押しつぶされていくようだった。知覚神経が混線でもしているかのように、錯覚と現実が混濁した。
もういっそ狂ってしまえ、と心が叫んだ。
そのときだった。
ゾワリ、と悪寒が背筋をなぞったのは。
すると、どうだ。危機を感じた身体が一瞬にして再起動した。前後不覚の容態は快復し、思考はクリアになった。まるで一瞬にして泥酔から醒めたように。
そして復帰した知能が素早く、背後に別の恐怖すべき対象がいることを示唆した。後頭部をなぞり上げるような妙な感覚が恐怖から逃れた訳ではないと警告を続けた。
何かいる。
距離にして五メートルもない。凝っとこちらを窺っている。
私は相手を刺激しないように、ゆっくりと立ち上がった。もしや野生動物かもしれない。動物は大概が夜行性だ。タケじぃが腰に熊鈴を付けていたことを考えると人里に下りてきた熊という可能性も十分にあり得る。
耳を澄ませながら、左腕を伸ばして藪に触れた。そして撫でるように前に進んでいく。
背後に立つ存在は様子を見ているのか、動きはしなかった。
走り出したい気持ちを抑えて隘路が曲がるまでゆっくりと歩いた。
そして隘路を曲がりきると、藪に手を触れながら全速力で走った。曲がりくねる道の手前では曲がりきれず藪に何度も体当たりをしたが、それでもがむしゃらに走った。
すると鬱蒼と茂っていた藪林がひらけ、月明かりが差す広場に出た。
這々の体で広場の中央に辿り着くと、竹籠を下ろして一息ついていた他の三人が息せき切ってやってきた私へ胡乱な視線を投げていた。
竹林のことを説明しようとしたが、どう説明したものかわからず、まずは息を整えることに専念した。
背負っていた竹籠をおろし、竹籠に寄り掛かるようにして座り夜空を見上げれば、上弦よりやや膨らんだ月が淡い光を発していた。
月はこんなにも素晴らしいものかと、柄にもなく感動した。
広場からは木々が開けていて、蒼白く照らされた彌子村(みこむら)が一望できた。
私はその絶景に摩耗した心を慰撫されながら、隘路に現れたのはなんだったのだろうかと考えた。
やはり動物だろうか。だが息を潜めて凝っと見つめていたような気もする。ならば私達の後ろを誰か村人がついてきていたのか。いや登る時に鈴の音に耳を澄ませていたから分かるが、後ろに続く足音など聞こえはしなかった。藪林ならまだしも山道ならば足音はある程度分かる。では何だ、そう考えを巡らせていると、タケじぃが嗄れた声で、
「しごとだ」
と、告げた。
私は惚けていた気を引き締めた。なにも私達は夜の山登りに来たのではない。あんな禍々しい竹籠を背負ってきたのには訳がある。まだ何も終わってはないのだ。
だがこの妖しい仕事を早々に終わらせて、空気の澄んだ田舎で月夜を堪能するのも悪くはないとも考えていた。一難去ったせいか、気分は上向いていた。もうこれ以上恐怖を覚えることはない、そう安易に結論づけていた。
そんな時だ。遅まきながら坂梨と浦口の様子が落ち着きのないことに気づいた。
彼等は私が広場に来てからずっと村を一望できる絶景など見向きもせずに、むしろ反対の山側を見上げていた。
不審に思い、私も彼等が縫い付けられたように見上げているものへ視線を向けた。
そして、ようやく自分が置かれている現状を理解した。
この竹籠の用途も。
此処が何処なのかも。
なぜ村人が童妙神社(どうみようじんじや)に集まっていたのかも。
村に起きている何もかもを、その奇景が語っていた。
広場の奥まった場所に一基の石鳥居があった。
二本の柱の上に反りのない笠木が横たえ、その下に貫(ぬき)と呼ぶ横柱を入れる一般的な鳥居だ。その貫には荒縄で何体もの人形が吊り下げられていた。
吊り下げる縄は、一つ残らず人形の首を絞めている。
鳥居と呼ぶには凄惨な石の絞首台。
蒼白な月影のした、首を吊った人形は夜風にそよぐ。
首吊り雛。
彌子村(みこむら)に伝わる奇怪な因習はそう呼ばれていた。
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