微笑みと国

三津凛

第1話

国際空港に降り立つと、その国の匂いがする。

タイは香辛料の香りがした。アメリカとも、ドイツとも、ニュージランドとも違う。鼻につくような香りだ。香りの向こうに、褐色の人懐こい笑顔が浮かぶ。

「久しぶりね、ミユキ」

7年ぶりに出会ったスーワイは相変わらずだった。父親が社長をしているという彼女は高校生の頃に1年間日本に交換留学した。そこで私とスーワイは出会った。日本に来た時から、彼女はすでに不自由ないほど日本語は話せていた。褐色の肌と、濃い目鼻立ちがまだ見たことのない濃厚なアジアを思わせた。スーワイが帰国した後も時折手紙を送り合った。お互い勉強のためと英語で送り合った手紙も、スーワイの流暢な英文に根をあげて私はいつしか返事を書かなくなっていた。それが7年ぶりに辞書と首っ引きでわざわざ英文のエアメールをタイまで送ったのには理由があった。

「ミユキは今バケーションなの?」

スーワイはあっけらかんと言う。7年ぶりの返事によると、彼女はイギリスに1年ほど語学留学をしてまだ学部生だということだった。その身の上が私は羨ましかった。おまけにスーワイは、タイ語に加えて日本語に英語も話せる。彼女の世界は広い。

スーワイは私の言葉を待っていた。必ず聞かれると思っていた避けて通れない質問を、私は正直に答えてみせる。

「仕事ね、辞めちゃったの」

「そうだったの」

スーワイは天気の答えを聞くように、それを軽く流した。気遣う風でもなく、本当に軽く考えているようだった。私はそれに救われて、やっぱりエアメールを出してよかったと思った。初めは返事が来るのか不安だった。

これ以上ないほど平易な英文と定型通りの表現で私の葉書は海を越えていったはずだ。

恐れていた質問を、思わぬ軽さで流されてしまうと欲が出る。私はつい愚痴をこぼす。

「会社に入る前は、すごく良さそうだったのに入ってみると上司はきついし、同期とも上手くいかなくて、嫌になっちゃった」

「そうなの」

スーワイは私に同情する様子もなく頷く。煌びやかな海外ブランドの美容店の照明がスーワイの瞳を照らす。

「仕事がちゃんとあっただけ、幸せって思うけど」

そこに非難がましい響きはなかった。私は口を噤んで、よく磨かれた空港の真っ白な床に目を落とす。


仕事があるだけマシ。こうやってカネを持って外国へ行けるだけマシ。

たった100円、200円を稼ぐために血眼になっている人々の群れで同じことが言えるのか。


スーワイはそう言ったわけではない。

それでも、私はスーワイの涼しい二重から異国の、それも発展途上の国の過酷さを肌で感じた。

空港からはスーワイが気を利かせてトゥクトゥクで家まで送ってくれた。埃っぽい風が私たちを撫でる。

「ミユキがいい時間の飛行機に乗ってくれたから、渋滞にはあわなそうよ」

スーワイが耳元で叫ぶ。

「タイには1週間?」

「うん」

「どこに行くの?」

「観光できるところを、適当に」

スーワイはバケーション、とまた呟いた。仕事を辞めることの深刻さがまるで違っていることに、私は不思議と安心する。

新卒で入社した専門商社で、夢を砕かれるのにそう時間はかからなかった。研修もそこそこに、すぐに法人営業に飛ばされた。元が無理して入った会社だったので、すぐに私は折れてしまった。上司の厳しい指導に耐えきれず、同期の仕事ぶりを比較しては心を病んだ。電話の音にすら吐き気を覚えて、トイレから出られなくなってしまった。スーツに袖を通すことができなくなり、私はそのまま退職した。

新卒で入社した会社を半年も経たないうちに辞め、私は引きこもった。なんとなく本棚を整理しているうちに、栞がわりに文庫本に挟んでいたスーワイとのエアメールを見つけたのだ。振り込まれた給料にはまだ手をつけていなかった。

次第に昼夜や、日付、曜日の感覚まで朧になっていく自分が怖かった。私は自分で自分に荒治療をすることにしたのだ。そして、スーワイにエアメールを送った。返事が来ることに気持ちの半分を賭けてみた。

都合の良い夢を見て、現実に裏切られたと折れることは2度としたくなかったから。

返事は2週間後に返ってきた。私はそこで、澱を落とすように振り込まれた給料のすべてを使い切るタイ旅行を決めたのだ。



「ナイトマーケットがあるの。行く?」

「行きたい」

荷物を解いた後で、スーワイが声をかけてきた。初めの1週間はスーワイの家に泊めてもらうことにした。その後は適当に安いホテルを見つけようと思った。

私はスーワイに連れられて、初めてアジアのナイトマーケットを見た。

どぎつい電飾の瞬く中で、汗を浮かべたタイ人たちが怠そうに屯する。冷凍庫なんてない中で、海鮮類を並べているから匂いがきつい。時折あばらの浮いた野犬がチロチロと這い回っては、棒で叩き帰される。

スーワイが「座ってお酒でも飲みましょう」と言ったので、私も頷く。マーケットから少し外れた店先のプラスチックの椅子に落ち着くと、スーワイは慣れた様子で注文をする。私は喧騒から外れると、この国の夜の輪郭が見えてくるのを感じた。物珍しそうな顔して歩く欧米人や、何とかして売りつけようとするタイ人のしつこさがはっきりと迫ってきた。

言語の違いなんてまるで気にしない逞しさに、私は自然と笑みがこぼれる。邪険に手を振られても、必死に食い下がるタイ人、軒先の客が工芸品を手に取っても立ち上がりもしない怠け者のタイ人、呼んでもいないのに売りつけに来るタイ人……まるで毎日がバケーションみたい、と思った。

「ねぇ、スーワイ」

「なあに」

「ここの人たちは、日本がどんな国か知ってるのかな……というか、外国に行ったことはあるのかな」

「さあね」

スーワイは汗を浮かべて怠そうに呟いた。半分はどうでも良さそうな気配を感じて、私もそれ以上は言わなかった。

バーツのあまりの安さ。1バーツ、2バーツに必死になるタイ人たち。そうしたものを目の当たりにすると、あの恰幅の良い白人たちが一体どこから来たのか多分まるで分かってはいないのかもしれないと思う。

それでも不思議と心が癒された。油の臭い、魚の痛んだ香り、果物の涙の出そうな酸っぱさ。そういうものが、乾いた砂漠に染み入っていくように私の中を濾過されて滑り落ちていく。生きながら死んでいたような心が、不思議とほぐれていく。

そうやってしばらくぼんやりとしていると、騒々しい集団がのっそりと現れた。

「……ちょっと行ったところにね、売春宿があるの」

スーワイがこそっと耳打ちする。

あぁ、どこにでもあるんだなそういうの、と私は思った。

集団は一目で中国人だと分かった。いかにも金と暇を持て余していそうな顔つきをしていた。ポマードで硬く髪をなでつけて、脂肪のついた腹を重そうにして歩いている。

中国語はまるで分からないけれど、女の品定めをしようとはしゃいでいることは分かった。札束で頬を叩くようにして、ふらふらと出て来た若い女の子に何かを言っている。しばらくそれを眺めていると、私はたまらなく嫌になってきた。

わざわざ異国に来てまでも、女を買って遊ぶのか。バーツが弱いことを、タイがまだ貧しいことを逆手に取って札束で叩く。

「ディスカウント、ディスカウント」

1人の男は女をまけるようにと食い下がっているようだった。若い女の子は小狡そうに首を振って、傲岸に掌を広げてみせる。


早く金出せ、まけないよ。


なんて言ってるのだろうか。

わざわざタイまで来て、大騒ぎして買春か。心底嫌な気持ちになった。スーワイはしんとして何も言わない。

私は憤って、思わずスーワイに耳打ちした。

「女を買ってるのね……あんな大声で……いやあな顔してる皆んな」

スーワイは私の日本語に軽く頷いてから、少し疲れたように言った。

「でも、20年くらい前だったら、あの中国人たちは日本人だったのよ。日本人も同じだった。」

私は言葉を失った。馬鹿にして見ていた大所帯の中国人たちが霞んでいく。

「父から聞いた。日本の土地がものすごく高くなった頃よ。日本人があの中国人たちみたいに女の子、たくさん買ってったのよ。いくらかまけてくれって言う人もいたんだって、ほらあの男の人みたいにディスカウントって」

スーワイに悪気はないようだった。ただあったことを淡々と言っている、そんな様子だった。

私はそれ以上は中国人たちを詰れずに、黙っていた。スーワイは相変わらず大騒ぎして女の子を品定めする中国人を達観した横顔で眺めている。



生ぬるい風がかき回されていく。その中に無数の言語が入り混じる。

ここはどこなのか、私が誰なのかうっかりすると分からなくなりそうだった。

不安になって、傍のスーワイを見る。彼女はちゃんとそこにいた。果物売りがリヤカーを引いて通りかかる。「あなたも食べる?」と、スーワイが私の目を捕まえる。頷くと、スーワイは何かを言ってパイナップルを指差した。果物売りは耳が聞こえないようだった。スーワイが指した先を見て彼は理解したようだった。素手のまま、果実に細い包丁を入れて切り分けていく。

スーワイは微笑んだ。

私もつられて微笑んだ。

冷えていないパイナップルが、割って入るように差し出される。

スーワイが私を見る。


お金のある外国人。


どんなに仲良くなれても、こうして同じものを一緒に食べあっても、ベルリンの壁、万里の長城が隔てたように私たちは裂かれている。

私は無言でバーツ紙幣を果物売りに渡す。彼は抜け目なくお釣りをごまかして、リヤカーを引いて行った。

どうせ円に換金はできないのだからと、私は笑う。

あの中国人たちの大声もいつの間にか遠ざかっていた。耳を澄ませば、エキゾチックな喘ぎ声のひとつでも聞こえてきそうなのに、辺りは妙に静かになった。



あの窮屈な日本。病んでせせこましい人でぎゅうぎゅうの日本がどこか愛おしくなった。

私の居場所はここではない。あくまでバケーションだ。

まだ日本に帰りたいとは思わなかった。しばらくはタイにいて、典型的な外国人の観光客を私は演じるだろうと思った。

それでもこの国には長くはいられない。

私とスーワイは、黙ったまま冷えていないパイナップルに手を伸ばした。

蝿の緩やかな唸り声以外は、何も聞こえてこなかった。

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微笑みと国 三津凛 @mitsurin12

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