長い宿題

澤田慎梧

長い宿題

 「森の薫りに癒やされる」等というキャッチコピーを見る度に、裕一は居心地の悪い、なんとも言えない気分になる。


 緑深い地域で生まれ育った裕一にとって、森や林はごくごく近しい、常に傍らにある存在だった。実家のすぐ近くには豊かな森が広がっていて、裕一の遊び場でもあったのだ。

 そんな裕一にとって「森の薫り」とは、生と死の象徴以外の何ものでもなかった。


 例えば、木々や花々がそれぞれに放つ匂いが複雑に絡み合った、決してかぐわしくはない薫り。

 例えば、枯れ落ちた草木が腐りゆく時に発するえた薫り。

 例えば、動物達の体や、彼らが食したり排泄したりしたものから立ちのぼる薫り。

 例えば、動物達が命尽き、その体が朽ちゆく時の薫り――。


 幼心にも、そんな生と死のサイクルを感じ取っていた裕一にとって、「森の薫り」は覆せない現実を――いくら生命に満ち溢れた存在であっても、最後には死に、朽ち、次の命の礎となるのだという自然の摂理を感じさせるものだった。

 だから、「癒やし」という言葉からは程遠い存在だったのだ。


 そして今、そんな生と死の薫りに包まれた火葬場で、裕一の祖父が荼毘だびに付されようとしていた。

 祖父は、よわい八十を超えても未だに現役、といった元気溢れる老人であったが、脳の大事な血管が破れたとかで、あっさりと逝ってしまったのだ。

 自宅で亡くなっている祖父を発見したのは、他ならぬ裕一だった。


 裕一の家は、両親と祖父母との五人暮らしだった。今どき珍しく二世帯住宅の形をとらない、普通の一軒家での肩を寄せ合うような暮らし。それが裕一の世界の中心だった。

 祖父にとって裕一は、七十歳を過ぎてからようやく生まれた孫だ。その為なのか、祖父は裕一には物凄く甘く、勝手におもちゃを買い与えては、祖母や両親に怒られていて――裕一にとっては最高の祖父だった。


 自宅近くの森でいつも一緒に遊んでくれたのも祖父だ。

 森の生き物の生き死にを――森の薫りの持つ意味を教えてくれたのも、祖父だった。


「生き物はな、一生懸命生きて、死ぬとゆっくりと土に還って、そして次の生き物が育つ栄養になるんだよ。そうやって、命が巡っていくんだ」

「いのちがめぐっていく……?」

「ああ、そうだよ。生き物にとって、死は終わりじゃない。次に生まれてくる者達に、タスキを渡すということなんだよ」


 まだ小学校に上る前の裕一に、祖父はそんな話を聞かせてくれた。

 その日のことを、裕一はよく覚えている。裕一が、生と死というものを、命の循環を直感的に理解し始めた、その日のことを。


 ――それから数年が経ったある日のこと。

 裕一が小学校から帰ると、その祖父が居間のソファに深く沈み込み、あえぐように口を大きく開け天井を仰いだまま、冷たくなっていた。小学三年生の裕一の目から見ても、明らかに死んでいることが分かったくらいだ。

 大好きだった祖父の亡骸なきがらを前に、裕一はパニックに陥る――こともなく、実に冷静に動き始めた。


 まず、祖母の不在を確認した。祖母は琴の師匠であり、まだ現役で教室を開いていたので、昼間は家に居ないことが殆どだった。

 次に、家の戸締まりを確認した。もし祖父が病死ではなく、家に侵入してきた何者かに殺されたのだとしたら、まだ犯人が家の中にいるかもしれない。そう考えたのだ。

 そうして十分に家の中を確認してから、裕一はおもむろに父親の携帯に電話をかけると、告げた。「おじいちゃんが死んでる」と。


 そこからは慌ただしい毎日が続いた。

 父も母も、祖父の突然の死に動転し慌てふためくばかり。祖母は落ち着いたもので、そんな二人を叱咤しったし、祖父の死に伴う手続きやら葬式の手配やらを手早く差配していった。

 そんな大人たちを、裕一は実に平然とした様子で眺めていた。裕一のその様子を、両親も祖母も「きっと裕一は、人間の死をまだよく理解出来ていなくて戸惑っているのだ」と判断したのだが……実はこれは大きな勘違いだった――。


 祖父の告別式の日は快晴。梅雨明けの重くのしかかるような青空が、眩しいくらいだった。

 告別式を終えると、祖父の亡骸は霊柩車で、裕一達はマイクロバスで、それぞれある場所へと向かった。

 そこは森の片隅に建つ、高い煙突を持つ建物――火葬場だったのだが、その時の裕一は、そこが何の建物なのか知らなかった。誰も裕一に教えてくれていなかったのだ。


「ねえ、あの中におじいちゃんを入れて、どうするの?」


 祖父の棺が安置された火炉かろの前。何度目かの読経を聴きながら、ふと裕一が母に尋ねた。


「……これから、あの中でおじいちゃんのご遺体を焼くのよ」

「やく……?」

「そう。焼いて、お骨にするのよ」

「焼いて、おホネ……? ――だめ、だめだよ!!」


 ――母の言葉を理解したその瞬間、葬儀の間もずっとおとなしくしていて、涙一つ見せなかった裕一が泣きわめき始めた。

 突然のことに、両親が、祖母が、親戚達が、読経をしていたお坊さんや火葬場の職員までもが、びっくりしてざわめきだす。


「だめだよ! おじいちゃんを焼いちゃ、だめ!!」

「ちょ、ちょっと裕一!? 急にどうしたのよ? ちゃんと焼いてあげないと、おじいちゃんお墓に入れられないのよ。あ!? 駄目よ、扉に触っちゃ――」


 既に閉じられていた火炉の扉を開こうと、裕一が走り寄る。周囲の大人達は戸惑い、慌てふためきながらもそれを止めに入ったが、裕一は予想外の強さで「おじいちゃんを焼いちゃだめだよ!」と暴れ続けた――。


 そして数分後、大人達にもみくちゃにされ力尽きた裕一は、祖母に手を引かれ建物の外まで連れ出されていた。あのまま火炉の前に居させたら、またいつ扉に飛びつくか分かったものじゃないと、祖母が連れ出す役を買って出たのだ。


「……裕一、なんでおじいちゃんを焼いちゃ駄目だったんだい?」


 火葬場の外、煙突がよく見える場所まで来たところで、祖母がおもむろに口を開いた。周囲には僅かに森の薫りが――生と死の薫りが漂っている。


「だって……だって……」

「だってじゃよく分からないよ。はっきりお言い!」


 祖母は祖父と違い、裕一に厳しかった――より正確に言えば、誰に対しても厳しかった。

 裕一の父曰く、「ものを教える人間はあのくらいじゃないと」だそうで、父も幼い頃にはそれは厳しくしつけられたのだという。

 ――それにこの時は、長年連れ添った夫の火葬に立ち会えなかった苛立ちもあったのだろうと、裕一は後になってから気付いた。

 しかし、この時の祖母は厳しいだけではなかった。裕一の手を引く祖母の手は優しく温かだったし、それ以上叱りつけることもなく、裕一が落ち着くのを待ってくれてもいた。


 そうして数分が経った頃、ようやく裕一は落ち着きを取り戻し、おっかなびっくりしながらも口を開き始めた。


「……あのね、あのね。ぼくね……焼いたら、おじいちゃんがかわいそうだって思ったんだ」

「可哀想? そりゃあ、遺体を焼くのは可哀想に感じるかも知れないけど、焼いて骨にしなきゃお墓には入れないんだよ? そちらの方が可哀想じゃないかい?」

「なんでお墓に入れなきゃいけないの?」

「なんでって……死んだ人間はお墓に入れるものなんだよ。昔っから決まってることだ」


 祖母のその言葉に、裕一は心底不思議そうな表情を浮かべ首を傾げた。「この人は一体何を言ってるんだろう?」というような孫の表情に、一瞬、祖母の背中に正体不明の寒気が走る。

 そして続く裕一の言葉に、唖然とすることとなった。


「いきものが死んだら、土にかえって次の生き物のための『えいよう』になるんじゃないの? 焼いちゃったら、土にかえれないよね? おじいちゃんの命がめぐらないよね? おじいちゃん、どこにもいけないよね? そんなのかわいそう……」


 ――祖母は、裕一がまだ「死」をきちんと理解出来ていないのだと思っていた。だから、祖父の死を目撃しても平然としていたのだと。だが、違った。

 裕一は、生き物の死を理解している。生と死のサイクルを、連綿と続く命の循環を知っているのだ。

 そして、「他の生き物と人間の死の違い」を知らないのだ。


『生き物にとって、死は終わりじゃない。次に生まれてくる者達に、タスキを渡すということなんだよ』


 「そう言えばあの人が好きな言葉だったわねぇ」と、祖母は心の中で呟き、嘆息する。「まったくあの人は、孫に困った死生観を植え付けてくれたものだ」と。

 人間と他の生き物の死は、。生物学的には同じなのだろうが、それに伴う様々な感情が、習慣が、全てが違い過ぎる。


 人類は、石器時代の昔から埋葬を行ってきたという。

 そこには、様々な精神的、宗教的、文化的な理由があり歴史がある。とてもではないが、小学三年生の裕一に一言で理解させられるようなものではない。

 更に言えば、裕一は普段は素直なくせに、一度ぐずりだすと途端に頑固になる子供だった。生半可な言葉では、決して納得しないだろう。


 「頑固な所は自分に似てしまったのだろうか? さて、この子にどう説明したものか」と、考えあぐねた祖母は、思わず空を見上げた。――そうしてようやく、「それ」に気付いた。


「……裕一、空を御覧なさい」


 祖母の言葉に、裕一も空を見上げる。

 そこには、青い、あまりにも青い初夏の空が広がっていた。雲は殆どなく、文字通りの快晴。目に痛いくらいの一面の青だけが、裕一の目に映る全てだった。

 ――だがよく見れば、そんなどこまでも広がるような空の中に、淀みのようにゆらゆらと立ち昇る、一本の白い筋がある。

 「あれは一体なんだろう?」と、裕一がその白い筋を追って視線を下ろすと……それはどうやら、建物の高い煙突から立ち昇っているらしかった。

 そう、つまりは煙だ。


「お空に昇っていく煙が見えるだろう? あれは、おじいちゃんのご遺体が焼けて出た煙だ。おじいちゃんはああやって、天へと帰っていくのさ」

「天へ……帰る?」

「そうさ。人はたとえ土に還れなくても、こうやって天に帰ることが出来る。……だから安心して、一緒におじいちゃんをお見送りしないとね?」


 そう言って、裕一に不器用な笑みを向けると、祖母はまた昇り行く煙に目を移した。

 それにつられて、裕一も再び空を見上げる。


「……天に帰ったら、その後はどうなるの?」

「そうだねぇ……、そのまま天で――天国で暮らすか、全く別の生き物に生まれ変わるか。どうなるかは、神様だけが知ってるんだよ。きちんと生きた人なら、そのまま天国で暮らせるかもしれないねぇ……」

「おじいちゃんは、天国でくらせるかなぁ?」

「どうだろうねぇ? まあ、あの人は馬鹿が付くくらい正直者だったし、曲がったことは大嫌いだったし、長生きもしたしで、大丈夫じゃないかねぇ」

「ふぅーん。……じゃあ、天国へ行けば、またおじいちゃんに会える?」

「会えるかもしれないねぇ――でも、天国へ行くのは大変だよ? きちんと学校に行って、きちんと勉強して、きちんと大人になって……最後はきちんとおじいさんになって、それから死なないとね。そのくらいしないと、天国には行けないのさ。

 ……だからね、裕一。一生懸命に生きなさい」


 そう言って、祖母は今度は、裕一の手を強く握った。

 そのまま二人は、森の薫りに抱かれながら、煙突から立ち昇る煙を眺めていたのだった――。


 ――それから数年が経ち、今度はその祖母が亡くなった。

 ある朝、部屋から出てこなかったので裕一が様子を見に行ったところ、眠るように息を引き取っていたのだ。

 齢九十を超える大往生だった。


 祖父の時と同じ斎場で葬式を済ませると、祖母の遺体はやはり祖父の時と同じ火葬場へと運ばれた。

 数年ぶりに訪れるそこは、裕一の記憶の中のそれよりも小奇麗に見えたが、相変わらず森の薫りに――生と死の薫りに抱かれており、確かに同じ場所なのだと裕一に感じさせた。


「裕一、大丈夫?」


 火葬の準備が進む中、母がそんな言葉をかけてきた。裕一には「前科」があるのでそれを心配したのだろうが、一体何年前の話をしているのだ、と裕一は呆れ返ってしまった。

 ――が、すぐに思い直した。母は祖母と非常に仲が良かった。血の繋がった間柄でもああはならないのではないか、という程に「親子」に見えたくらいだ。

 その祖母が亡くなって、母も少なからず気が動転しているのだろう。


「大丈夫だよ、母さん。……うん、でもそうだね。後で少し、外の空気を吸ってくるよ」


 ――祖母の遺体が火炉の中に消えて少ししてから、裕一は待合室を一人抜け出し、火葬場の外へとやって来ていた。

 煙突のよく見える、かつて祖母に手を引かれてやって来た辺りまで。


 季節は秋。森の木々の一部が色付き、鮮やかな紅に染まろうとする時期だ。

 秋の空は夏のそれよりも高く青い。あの時――祖父が荼毘に付された時の空よりも、青い。

 そして今日は雲一つ無い快晴だ。きっと、祖母の遺体が焼かれて出た煙はよく見えることだろう。そう思い、裕一は煙突の先に目を向けたのだが――。


「……あ、れ?」


 煙突から立ち昇る白い煙は、どこにも見えなかった。そこには、僅かに陽炎のような無色のモヤが立ち昇ってるだけだ。


 ――そう言えば、と裕一はふと思い出す。以前、最近の火炉や煙突は改良が進み、火葬の際の煙や匂いを殆ど漏らさないものが多くなったという話を聞いたことがあった。

 この火葬場が記憶の中よりも小奇麗なのは、最近になって改修されたからなのかもしれない。そしてその際に、火炉や煙突も改良されたのではないか――。


 そんな、至極現実的な思考を進めながらも、裕一の胸の中にはなんともモヤモヤした気持ちが湧いていた。

 裕一ももう子供ではない。「遺体を焼いた煙が空に昇ることで故人が天に帰る」等という話を信じている訳ではない。

 でも、それでも、彼の心にはなんとも言えぬわだかまりのような気持ちが湧いてきてしまうのだ。

 それだけ、あの日の祖母との思い出は、裕一にとって大切なものだった。


「ばあちゃん、ちゃんと天国に行けたかな……」


 誰にともなく呟いてみるが、当然その答えを裕一に教えてくれる者はいない。

 祖母は果たして天国に行けたのか? ――そもそも天国なんてものが本当にあるのか? そんな益体もない思考が裕一の中でグルグルと回る。


『――でも、天国へ行くのは大変だよ? きちんと学校に行って、きちんと勉強して、きちんと大人になって……最後はアンタもきちんとおじいさんになって、それから死なないとね。そのくらいしないと、天国には行けないのさ。

 ……だからね、裕一。一生懸命に生きなさい』


 在りし日の祖母の言葉が蘇る。

 幼い頃の裕一は、祖母が言ってくれた言葉の数々を額面通りにしか受け取れなかった。

 だが、実際には違うのだろう、と今の裕一は思う。殆どの言葉は、ぐずる裕一をなだめて共に祖父を見送らせる為の方便だった。

 だからこそ、最後にあんな言葉を告げたのだろう。きちんと大人になって――自分の頭で考えられる人間になって、自分なりの答えを見付けなさい、と。


 自分は、少しは大人になれただろうか? 祖父や祖母のように、大往生と言える歳まで生きられるだろうか? 裕一は自問してみたが、答えはまだよく分からない。

 祖父母の年齢に裕一が追いつくまで、あと六十年以上もある。まだまだ、果てしなく先は長い。

 裕一は独り苦笑いしながら、しばらくの間、淀み一つ無い深く青い秋空を眺め続けたのだった。


(了)

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