第4話 「荒天の飛行甲板」
太平洋、日本海軍航空母艦《赤城》 2026年10月2日
南国の大海原の朝は荒れていた。太平洋は薄暗い雲に覆われ、海面は白く飛沫を上げてうねり、満載排水量十万トンの原子力空母も揺さぶられていた。
その航空母艦《赤城》の飛行甲板上で出撃準備を整える79式艦上戦闘機F-14Jのコックピット内に月島はいた。
月島の乗るF-14Jは翼と腹にはミサイルをずらりと抱え、エンジンを始動したまま給油を行うホットリフューエルでJP-5ジェット燃料を補給し、発艦の時を待っていた。
艦載機即時待機が発令され、
月島の目の前で、群青の洋上迷彩が施された04式艦上戦闘攻撃機F-2Aシルフが双発エンジンのアフターバーナーを全開にし、カタパルトから射出され次々に発艦する。第202戦闘飛行隊の機体だ。随伴する航空巡洋艦《日向》から発艦したF-35BライトニングⅡ戦闘攻撃機と合流し、先陣を切る。
カナードと変形後退翼の主翼に加え、外側に開いている双垂直尾翼の三つの翼面で機動性を高めるスリー・サーフィス配置のF-2は同世代のF-35等の第五世代戦闘機に比べるとステルス性は一歩譲るらしいが、双発の高出力エンジンは
F-2は米国が航空支配戦闘機と称するF-22に遅れて誕生した純国産の第五世代戦闘機であり、ステルス性を重視してはいるが、高機動性も重視した設計で、艦隊防空から対地・対艦攻撃、
しかし今回は翼下にもGBU-39滑空爆弾などを納めた
F-14も相当近代化されているが、可変翼機は構造上重量が増すなどデメリットを多く抱え、後付けの機能も目立ち、ステルス性も無いため時代遅れと言わざるを得ない。月島はF-2に羨望の眼差しを向け得なかった。
F-2が飛び立つ先の天気は青空が減ってきている。雲間に差し込む陽光が白波の立つ海面を照らしていたが、それも減りつつあった。雲はかなり早い流れで動いている。
「嫌な天気になってきたな……」
『初陣にはもってこいの舞台だろう』
耳元に聞こえた冷たい不敵な声に月島は思わず肩をびくりと震わせた。
「とんでもない初陣ですよ……ヘイズさん背負ってますし」
『貴様……どういう意味だ、それは』
「あっ、いえ!責任重大だということです」
麻木の低い声に、月島は慌てて釈明する。
『全く……』麻木は呆れたように溜め息をついた。『分かっているな?一蓮托生の身だが、私のことは気にするな。肩の力を抜け。訓練通りだ。教えてきた通りにやればいい』
「はい」
そうは言っても編隊長を背負う責任は重大だった。人の命を預かって初の実戦に臨む前にして月島は緊張によって飛ぶ前からだくだくと汗をかいている。
空軍では序列が上の者がパイロットを務めるのが基本的な運用だが、海軍では異なる。哨戒機等でも航空機運航上の機長である指揮操縦士(PIC:Pilot in command)よりも戦術航空士のほうが先任である場合、戦術面で命令優先権を有するため任務機長(Mission Commander)として作戦に関し指揮を統括する等、作戦に合わせて柔軟に運用されており、戦闘機の場合も状況に応じて編隊長が後席に就くこともあった。今回は全般を把握でき、指揮に専念できる後席に就くことを麻木が決めた。
といっても未熟な月島の後席に編隊の命である麻木が乗ることは反対意見も多かったが、発言力のある麻木の決定は飛行班長の住之江も曲げることが出来なかった。
お陰でとんだ貧乏くじだ。
麻木は素晴らしいパイロットであり軍人であることは認めるが、月島にとっては天敵で目をつけられていた。ロックオンされたら最後、撃墜するまで追い続けてくる麻木にはこれまでの訓練で何度も追い詰められた。
給油が完了し、紫の保護帽とジャケットを着た燃料系を担当する甲板要員が取り外したホースを掲げて見せた。
七千六百リットルのJP-5によってF-14Jの腹が満たされた。
「
月島は航空管制室の飛行長に機体の固有番号と総重量、パイロット名を申告する。当然、航空管制室ではすでに掌握されているが、必要な手順だ。
『燃料計の数値が実際より八十キロほど少なく表示されている。チェックリストを済ませよう』
麻木が機付長より申し送られている機体の不具合を伝えてきた。
麻木とのペアは長い。WSOとして後席から月島をサポートする上官というイレギュラーな関係には最初は戸惑ったが、今は慣れてきていた。
「了解。チェックを始めます」
『ブレーキ』
麻木がチェックリストに基づく点検項目を言い、月島が点検する。単座の戦闘機であればパイロット一人でチェックリストを読み、項目に従って点検や手順を進めるが、複座機は共同して行う。
「ブレーキよし」続いて月島はそのまま
かつてのアナログ式の計器類は再生改造の際のグラスコックピット化によって廃され、タッチパネルディスプレイに統合されたデジタル式のMFDにとって代わられていた。フライトグローブ越しでも操作できるタッチ画面になっており、表示したい項目だけを表示し、レーダーやセンサーのモニターを拡大して表示することも出来る自由度の高い操作が可能だ。今は機体の
非常時に必要な僅かな計器類だけ以前とは形を変えて残っているが、それも新しいデザインだ。
「アキュームレーター、圧力正常。
『
「七六・〇、供給ノーマル。燃料転送・
『実際の燃料計は七六・八、翼内に九〇〇と九〇〇、メーターは両方ともニ七〇〇。供給タンク、フル。ビンゴ、ニ〇・五にセット。ここまでよし』
「了解」
残りのチェックリストは射出位置で行う。
『
『クーガー
「クーガー0-5、ラジャー」
月島は管制所に応答し、息を呑んだ。遂に自分も空に上がり、空中戦を行うことになる。スクランブル発進等の実任務を抜きにすれば初の殺し合いの実戦だ。殺される恐怖よりも殺すことに対する忌諱感、そしてそれよりも麻木や仲間が死ぬかもしれないという恐怖が勝る。
死にたくはないし、殺したくもない。だが、仲間が死ぬのだけは嫌だ。古今東西、軍人とは仲間意識で敵と戦えたのだなと改めて思う。
対して後席の麻木はいつも通りだ。
麻木の経歴は僅かしか知らないが、数年前のイエメン内戦の非戦闘員退避作戦で空戦を経験しているらしい。
しかしながら戦闘機パイロットにとって実戦とは実弾を撃ち合うだけの世界ではなく、平素の対領空侵犯措置や警戒任務もまたすべて実戦であった。実弾を抱えた戦闘機同士がこの広い空で邂逅し、お互いがそれぞれの国を背負って飛ぶ。それは実戦以外の何物でもなく、それを経験してきた麻木達のような先輩はやはり実戦経験が豊富なのだ。
『ブレーキ』
訓練の時よりも落ち着いているのではないかという声で麻木が呼びかける。
「リリース、OK」
『ライトサイドクリア、レフトサイドクリア。タキシースタート、ゴーアヘッド』
「ラジャー、タキシースタート」
月島は機体の前に立った緑色の作業服を着た
普段は恐怖の象徴でしかない麻木だったが、実戦を前にして緊張する月島はその声を聞いて気持ちが落ち着いているような気がした。
エンジンが震え、自分の呼吸と麻木の呼吸がホットマイク状態で聞こえてくる。その間に馬と乗り手の鼓動が重なるように、マシンとパイロットは一体となる。月島の後席の教官は、機体を手足のように操れるよう、機体を理解し、信頼する、人馬一体という意識を常に心掛けるよう月島に指導していた。訓練の時よりも今ははっきりとその言葉の意味を実感できる。
ホットリフューエルを行う区画から出て機体を進めていくと、別の誘導員が誘導を引き継いだ。飛行甲板上では何機もの戦闘機が並び、燃料や兵装等が列線員と共に行き交う地雷原のように危険な場所であり、誘導員の誘導に従ってその合間を縫うように進んでいく。その先で艦載機を射出した電磁式
『前へー、前へー、もうチョイ……良し!』
誘導員の声を聞き、月島がブレーキを踏み込むと
『0-5、射出位置宜し』
誘導員はそう言うと主翼動作を行うよう手信号を送ってく
『両サイドクリア』
月島はスロットルレバー側面に備わる主翼角スイッチを自動にして主翼の後退角を七十五度から二十度へと前へ出した。折り畳んでいた翼を広げるように主翼が開く。MFDに表示された機体のスターテスモニターにも主翼の動作と角度が表示された。約四秒かけて後退翼が前に出ると、フラップとスラットを下げ、チェックを再開する。
『主翼』
「二十度、
さらにラダーペダルを踏み、操縦桿をぐるりと回し、フラップ、エアブレーキ、方向舵の動きを点検、列線員も確認した。
「
『了解』
赤色の作業服を着用した
主兵装たる長射程の81式空対空
続いて月島は麻木と共に機体のチェックを再開する。
月島は二番射出機の位置についた僚機のパイロットからの準備よしの合図を確認して合図を返す。
『
流れるような流暢な声で麻木が無線に吹き込む。操縦席に月島は収まっていてもその手綱を握っているのは、後席でスキッパーを務める麻木だった。
『デッキコントロール、
飛行甲板管制と麻木のやり取りを聞きながら月島は発艦後の任務を頭の中で思い描いていた。
グアム島の各飛行場には先制攻撃が為され、航空機がこれ以上離陸できないようになる。敵の空中哨戒を行う戦闘機は八機と少なくはないが、敵も戦力を分散せざるを得ない状況になる。さらに米軍も到着する予定で、本土からも空挺部隊を乗せた輸送機を護衛しながら制空隊が来る。
問題は敵の空母艦隊だ。味方の潜水艦や早期警戒機が探しているが、いつ現れてもおかしくはない。
『クーガー
『クーガー
「クーガー編隊、
『コックピット、フライトデッキ。ケーブルを取り外します』
「
緑色の作業服を着た甲板要員が飛行甲板の列線員と交信するインターコムの有線ケーブルを取り外し、それを掲げ、月島は親指を立てて見せる。
発艦要員を統率する黄色い作業服を着た
『アテンション・シューター』
「了解」
中尉は機体の後方でジェットブラストディフレクターの防護板が起き上がったことを確認すると、指差し確認で機体周辺の安全を確認し、バイザーダウンのサインを送ってくる。
『バックチェック、クリア。オン・バイザー』
「了解、オン・バイザー」
ヘルメットのHMDバイザーは射出直前まで列線員とのアイコンタクトの為上げておかなければならないので、ここで初めてHMDバイザーを下げる。
その中尉が右手を差し上げ、二本指を立てた。エンジンを最大出力まで上げろ、という指示だ。
『パワー・
「バスター、ホールド」
月島はエンジンの回転数を確認しながら左手に握るスロットルレバーをエンジンの最大回転数である
緑色の作業服を着た兵曹が駆け抜け、
機体の正面に立っていた中尉は飛行甲板の端へ移動した。
月島はMFDに表示した燃料流量計、エンジン回転計、排気温度計などをチェックした。どの確認項目にも問題はない。月島は深く呼吸した。
端へ移動した中尉が右手を高々と挙げ、次いで前方を指差し、前方注視のサインと共にその場に屈む。同時に射出信号灯が赤から青に変わる。
月島は喉を鳴らした。発艦の衝撃を覚悟して緊張を覚える。
『CAT1クリア、エジェクション』
中尉は膝を折って、腰を屈めながら二本の指で甲板に触れた。
首を前に乗り出すような格好をして月島は衝撃に備える。カタパルト、射出。その瞬間、シャトルに繋がれた月島の乗る79式艦戦F-14J 798号機を《赤城》の電磁式射出機が打ち出す。
一気に三百キロ近い発艦速度まで加速させるときに生じる慣性が月島の身体を締め付けた。
飛行甲板を
強烈な加速によるGが解かれ、もう視界にはいっぱいの空が広がり、それまでの喧騒は過ぎ去り、ただ自機の腸を震わすようなエンジン音だけが無線の他には聞こえてくるのみだ。月島は空中の人となった。
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