SCENE7-3≪再会≫
空っぽの研究室に飛び込んだ瞬間、思いがけない顔を目が合った。白衣を纏った少女と呼ぶことすら憚られる大人の女性。ナイン=セラフィーナ、見た目だけなら広兼よりも年下だが、彼女が自分よりもはるかに大人だと宗次郎は知っている。
「安心して話しなさい。木藤君。終わるまでは責任をもって彼を止めてあげる」
「うっす、姉さん。ありがとうございます」
本当は知らない相手、自分が知っている彼女もまた死んだのだ。けれど今は昔と同じ軽口をたたく。そんな返事に軽く笑って、彼女は白衣の裾を翻し宗次郎の横を通って研究室の外に出ていった。
彼女がああ言ったのなら信じられる。ここで裏切られれば背中から弾丸を受けることになるがその時はその時。どうせここまでぎりぎりの勝負を続けて来たのだから。
ならば最後の一勝負、手助けがあるだけ随分とありがたい。
改めて室内に目を向けると、砕けたガラスが散らばる研究棟の1フロア。その中央に据え付けられたオフィスチェア、そして部屋の奥に立つ、一人の少女を宗次郎の瞳がとらえる。
フリルが多用された少女らしいワンピースを、軍服の装飾で飾り立てた黒のドレス、言うなればミリタリーロリィタに身を固め。両手を白い手袋、そしてセミロングなスカートの奥まで伸びるハイソックスで隠した少女。
総じてモノクロな色彩、けれど現実離れしたショートカットの銀髪と、碧眼の周りに赤いセルフレームが彩を沿えている。そして青空の下で出会った時との一番の違いは彼女の表情。
不安と、そして期待。揺らめく心の狭間で、こちらが何を口にするか待っていた。
「ああ、くそ…… 俺のことは憶えてないんだよな?」
「うん、ボクはもう。貴方を知らない」
その言葉に、胸が張り裂けそうになり。その上で気が付く。彼女はあの青空の下、
彼女との距離は約10m。その隙間を一歩踏み込みながら言葉を探る。
「俺の名前は木藤宗次郎だ、好きに呼んでくれ」
「きふじ、そう… じろう、じゃあ、木藤君で」
その呼び方に胸が
あの駆け寄った時に呼ばれた、そー君という呼び名とは違う。失われた記憶の重さに叫びだしたくなったが。それでも一歩前に進む。残りは9m。
「どこから話せばいい。くそ、確かにそうだ。俺が記憶を失った時にユイもこんな気持ちだったのか」
「ねぇ、気安いんだけど。木藤君とボクはどんな関係だったの?」
困った顔、踏み込み過ぎたと理解し8mで足が止まる。水音が聞こえたが、それも意識から外す。もう半ば後ろにいるであろう外間准教授達の事も意識から消えている。ただ自分と彼女の関係性が何だったのかを理解しようと思考を回す。
「数日前の
「うん、誰かと戦ったのは憶えている。それが木藤君?」
もう一歩、足を進める。相対距離は7m。
「ああ、そうだ。いや嘘はついてないんだが。記憶は無いんだよな?」
「うん、ボクの誰かが隣にいた記憶はあるんだけど……」
困ったあるいは悲しみで彼女の眉が下がる。ああそう彼女はこういう顔をする。平気な時は緩い空気を纏う癖に、困った時にはこういう透明な苦悩を見せてくるのだ。
もう一歩、彼女に向かって踏み込む。相対距離は6m。
「俺は――」
思い出そうとする。思い出そうとする。彼女と何があったのかではなく、自分の中にある空白を。
記憶を遡る。大学生活にも幾つか記憶の穴があるが、これは予想できる。自分が広兼由依という少女と共に歩んだ記憶が消えているのだ。そもそもあのタワーマンションに
ならばその前はどうだったのだろうか?
彼女は幼馴染では無かった。そう断言できる。朧気であっても中学校までの記憶に大きな穴は無い。そして高校生活を思い出そうとして幾つかの空白を認識する。学生生活にもまた大きな穴はない。
少なくとも彼女と自分は同じ教室で学んではいないのだと認識する。
その上で、幾つかある明かな記憶の隙間に焦点を当てていく。
それは委員長としての面倒な仕事。顔も知らぬ誰かの家に学校からの配布物を届けに行く義務。タワーマンションのインターフォン越しに聞いたはずの声――
そこに気付けば、芋ずる式に記憶が再構築されていく。
失われたものは戻らない。それでも穿たれた穴を推測によって埋めていける。
「ユイのクラスメイトだった」
「ボクは殆ど、学校に行ったことはないよ? たぶん片手の数で収まる位」
もう一歩、踏み込む。相対距離は5m。あと少しで手が届く距離。不安で後ずさった彼女の為、大きくは踏み込まない。
「その、最後の記憶はあるか?」
「――誰かが、ボクの手を引いていた」
ああ、その記憶は宗次郎の中にもある。誰かの手を引いていた。桜舞う中、誰も居ない校舎の中で、見せたいものがあるとたた教室を目指す。そこにあった感情は最早あやふやだ、それは消えた記憶と共に失われてしまっている。
「教室で、何があったかは?」
「ごめん、ボクは憶えていない」
「そうか、俺もだ」
とてつもなくもどかしい。最早誰も知らぬ過去の中で何が起こったのかを知るものはどこにもいないのだ。それがたまらなく悔しい、そこで何かがあったはずなのだ。自分達がただのクラスメイトではなく、その先に進んだ大切な瞬間が。
「そして、木藤君がボクと共に
「ああ、そうだ。世界の果てを、ロードサイクルで見にいったりもした」
あのどこまでも続いているように見えた、青い空の下に伸びるアスファルトの道の上でユイは何を思っていたのか。その答えは世界のどこにも存在しない。残っているのは、確実なことは、夜の帰り道で宗次郎が感じた事だけで。
明日に進めたと微笑む彼女の顔に、木藤宗次郎はもう一度彼女に恋をした。
どこまでも、胸が痛い。悲しみで歪みそうになる顔を、それでも不敵に笑おうと努力する。出来ているのか自信はない。それでも更に一歩前に進んで相対距離は4m。
「ねぇ、木藤君はなんで
「ユイを助けたいと思ったからだ」
そこに偽りはない。あの青空の下で戦う事を決意した少女をどうしようもなく助けたいと思ってしまったのだから。忘れてしまった事はあっても、汚してしまった事はあっても、そうしたいと思った事実だけは間違いないのだから。
「それだけ?」
「いや、その上で共に明日に、明後日に、その先で笑っていたい」
ああそうだ、ユイを助けるだけで我慢できるものか。その先を目指すのだ。
どこまでもエゴイズムで共にあって共に笑って、何かを残して、最後は老夫婦になってどちらかが先に死んで別れるだろうというのはあまりにも気が早い。けれど最後に別れる時が来たとしても、笑っていたいし、そしてそれは今この時ではない。
「重いよね、木藤君って」
「記憶を失っても、もう一度恋が出来るからって言い切ったユイ程じゃない」
一気に歩を進める、残り1m。手を伸ばせば互いに届く距離。赤いセルフレームの向こう側に見える彼女の碧眼が潤んでいるのが見えて、ドキリと心臓が跳ねる。嘘みたいな銀糸の髪も、薄紅色に染まった頬も、そのどれもが愛おしく、そして怖い。
今自分は彼女と同じ気持ちなのだろうか、一方通行な思いで傷つけてしまっていないだろうか? 失った数年間に匹敵する何かを、たったこれだけの時間で手に入れられるのだろうか?
そこまで考えて理解する、そんな事は不可能だと。
どれだけ足掻いても、代価として支払ったものは戻ってこない。だが、それでも。
「そしてそれでも俺は、ユイと一緒に明日に進みたい…… 進んで、くれないか?」
どこかで言った気がする台詞を口にした。暗い研究室の最奥で、思いを言葉で切り取って形にして、目の前の少女に向けて投げかける。
「うん、まだ木藤君の事は何も知らないけれど――」
最後の一歩は、彼女の方から踏み込んできた。ふわりと宗次郎を抱きしめた両手はどこまでも冷たく、けれど触れ合う体から熱と鼓動が伝わって、心臓が高く跳ねた。
「ボクも、明日に進みたい」
強く、強く抱きしめたい。その思いを押し殺し、優しく彼女を抱きしめた。気持ちは同じでもそこに込められた強さは違う。そこを勘違いしてしまえば、押し付けた感情で彼女を傷つけてしまうと思ったからだ。
もどかしくも、温かい時間。けれどそれは――
「……ふざ、けるな。ふざっ! けるなよっ!」
二度響いた銃声によってかき消された。ユイを庇って宗次郎は体を広げるが、こちらには飛んできていない。振り返った視界の中で、扉の向こう側からナイン=セラフィーナが鮮やかな赤を胸から靡かせながらこちらに向かって倒れて――
軽い音を立てて、もう彼女は動かない。
「外間准教授…… 貴方はっ!」
「うるさい、情はあった。弁えているのならそばにおいても良かった。お前達を庇わなければ、どこにでも消えれば撃たなかったっ!」
未だ硝煙の上がる銃口が宗次郎の額に向けられる。
「ああくそ! お前は何なんだ! 世界を滅ぼして、その癖お前のユイは生きていて! そして代価として差し出した記憶すら、そうも簡単に埋め合わせるっ! どこまで俺馬鹿にすれば気が済むんだ! 貴様はなんの権利があって――」
「権利なんて、知った事か」
「何……っ!」
後ろから注がれるユイの視線を感じつつ。
「義務に関しちゃ少しある。俺は爺さんとの約束の為に元の世界に戻るし。名前を忘れた友達に惚気なきゃならないし。そしてユイと一緒に進む為、明日を手に入れる」
背負わなければならない義務なんてそんなものだ。自分がやると言ったことをどうにかする。やれなかった時はその結果を受け止めればそれでいい。
「だが、
「なんだって、出来る」
ああそうだ奇跡はあった。人に頼った。けれど
「黙れぇっ!」
激昂と共に引き金が引かれ弾丸は放たれて、狙いは正確、だからどうした。一度やれたのだから、二度目も出来る。当然の如く宗次郎は高い音と共に放たれた弾丸を切り払った。外間の顔が驚愕に歪み、それに対して宗次郎は不敵な笑みを返した。
「それに、そもそもあんたは勘違いをしている」
「お前、まさか……っ!」
そのの態度で、ようやく
この大学に降り立った時点で、彼はもう機体との接続を取り戻していたと。
理屈を超えた事実、あるいは歩んだ道筋そのもの。誇りと共にあり、だから確かに魂に刻まれた言葉。夜の全てを終わらせるもの。黄昏の先を超え、冷たき夜を貫き、暖かな朝日と共に明日を運ぶ隻眼の王。即ち――
「「来い、ザナクト!!」」
【木藤宗次郎が / 外間春夫が】その名を叫ぶ。
宗次郎達の背後から蒼い手が伸びて、床に倒れたナインを掴む。外間の後ろから黒い手が伸びて培養槽に入った広兼由依を握りしめる。そうして辛うじて形を保っていた研究室は、そして研究棟は崩れ去り――
曇り空の下に広がる廃墟の上で、王として拡張された蒼と黒が対峙した。
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