天空の街ユートピア

覚悟と迷いの先へ

 私が目を覚ましたのは、瀟洒な寝椅子の上だった。

 倒壊していた聖宮の残骸は、かつての姿を取り戻している。

 重たい花嫁衣装ではなく、着古した空色のワンピースを着ていた。だから、一瞬また全部夢だったのではないかと思いそうになった。でも、そんな都合のいいことはないのだと、唇を引き結んで起き上がる。


「おはよう、ナージェ」


「影王……」


 正面にあった椅子で頬杖をついていたのは、私が探していた影王だった。彼の膝の上には、小さくなったイェンが丸くなっている。


「うん。やはりナージェは、あんな着飾った花嫁衣装よりも、素朴なワンピースのほうが似合う」


 穏やかな表情に、穏やかな声。機械人形のように、心がみえない伏し目がちな金色の目。

 恐ろしさと悲しさに、ぞっとしたのは初めてだった。そう、影王と正面から向き合ったのは、これが初めてだった。


「イェンが話してくれたはずだけど、決めてくれたかな」


「あなたを愛するかということ?」


 彼の膝の上からイェンが飛び降りて、子犬のようなの姿を取った。


「決めるも何も、ナージェ、他に選択肢はないんだよ。こうしている間にも、世界はどんどん崩壊しているんだ」


 悲痛なイェンの声にこたえるように、影王の背後で天井の一部が落ちてきた。

 寝椅子に倒れ込みそうな振動に、身をすくませてしまった。世界を作り直すために、死んでもいいと覚悟を決めたはずなのに、本能では生きたがっている。イェンたちの提案を受け入れてもいいと迷ってしまう。

 影王は、悲しいくらい穏やかな顔のままだ。


「ナージェにしてみれば、僕らは理不尽な大人たちよりも酷い仕打ちをしているだろうね。だから、ナージェが世界が滅んでもかまわないなら、僕はそれを受け入れるよ。もともと、無理強いできることじゃないしね」


「ミカゲ、だめだよ。そんなの!」


 イェンの悲痛な叫びも、穏やかな顔で影王は受け止める。そういうふうに、無慈悲な王という批難を受け止めてきたのだろうか。反論することも諦めてしまったのだろうか。

 そうしてしまったきっかけは、私の予言だ。

 哀れだと思う。同情や責任や罪悪感からの偽りの愛が、本物の愛に変わるなら、彼と夢をみるほうが正しいのではないか。


 私は、迷ってしまっている。


 影王自身が言ったとおり、理不尽な仕打ちに怒りを覚えている。でも同時に、彼に哀れみを感じている。私の覚悟は、自己満足ではないのか。


 迷ってしまう。


「私は、どうしたら、いいの?」


「ミカゲを愛してよ!」


 唇からこぼれ落ちた言葉を、イェンがすくい上げる。

 ギョロリとした一つ目は潤みすらしていないというのに、彼は泣いていた。異形だから涙がないと言っていたくせに、ちゃんと泣いているじゃないか。


「歪んでいたのは、ユートピアの大人たちだよ。奴らは、本当に最低だったんだ。僕らもナージェも、奴らの都合のいいように……」


「イェン、言わなくていい」


 影王の穏やかな声に、かすかだけど苛立ちを感じ取った。


「でも、ミカゲ、それじゃあ……」


「言わなくていい。僕らは歪んだ空人を排除した。もう、どこにもいない」


「なんのことを話して……っ!」


 私の背後の床の一部が、崩れた。時間がない。もう、崩壊はすぐそこまでせまっているんだ。

 それなのに、私は迷っている。


「ナージェ、こっちに来てよ。僕らまでなくなっちゃうよ」


「イェン」


 伸ばしてきた手を、私は取れなかった。


「僕らの理想郷ユートピアへ行こうよ。幸せになろうよ、ナージェ。お願いだよ、ナージェ!」


 イェンはどこまでもまっすぐだ。彼はたったひとつの目玉で、まっすぐ新しい理想郷を求めていたんだ。きっと彼が思い描く理想郷に、私は必要不可欠なんだ。


 私の気持ちなんて、きっとどうでもいいんだろうな。

 イェンらしくて、ちょっと笑ってしまいそうになる。


 また天井の一部が崩れ落ちて、立っていられないほどの振動が襲う。私は床に手をついてしまって、影王は穏やかな顔のまま椅子に座って頬杖をついている。影王にとっては、世界の崩壊などどうでもいいのだろう。たとえ、自分が死んでもかまわないのだろう。


 今この瞬間も、多くの命が失われているというのに、私は何を迷っているのだろうか。

 迷ってしまったことが、悔しくて悔しくて悔しくて……


「……馬鹿みたい」


 小さく吐き捨てて、自分の足で立ち上がる。イェンの手は借りない。


 なんで私がこんな目に合わなければならないのか。もう、罪の意識なんてどこにもない。

 こんな理不尽に対する怒りを抱えた私が、どうして平和で豊かな理想郷を夢見ることができるというのだろうか。


 結局のところ、私は子どもだ。

 きっと影王とイェンにとって、私が子どもだったからという理由だけで残したんだろう。

 そうやって、他の大人たちみたいに理不尽な選択を強いようをしている。


「影王、決めたわ」


 まっすぐ影王を見据えると、それだけで彼のガラス玉のような瞳は揺れ動いた。こんなにも、彼はもろかったのか。そうしてしまったのは、私だ。でもだからといって彼がしたことを許すわけにはいかない。


「世界を崩壊させやしない」


「ナージェ!」


 イェンが喜びの声をあげて、私に道を譲る。


「私たち空人は、たしかに思い上がっていた。地上の人々と同じ存在なのに、ユートピアで見下ろしているうちに、神様にでもなった気になっていただけ。私の予言だって、そんなたいしたものじゃなかった。きっと、今までの聖女たちの予言だって、みんながその通りの未来を選択しただったかもしれない。そうやって、進むべき道を見出してきた先人の人たちを否定しない。私にはそんな資格はない」


「ナージェ?」


 進み出た私の言葉に、イェンが困惑している。本当にイェンはまっすぐだ。


「でも、私は私の予言を否定する」


「いいのか? ナージェ」


 不安と困惑と、期待に揺れる影王の瞳。

 これが、彼の望んだことだろうに、恐れている。諦めてしまうほうが、彼には楽なことだっただろう。全部諦めて世界を滅ぼしてしまえばよかったのに、彼は愛されることを諦めきれなかった。

 影王も子どもだった。

 彼は、きっとどうしたらいいのかわからなかったんだ。感情を、どこに向ければいいのかわからなかったんだ。怒りも、悲しみも、愛されたという欲求も、すべて不吉な予言に阻まれて届かなかったんだ。

 どうしたらいいのかわからないまま、彼は世界を壊して理想郷を夢見ることにしたんだ。そうすることしか、できなかったんだ。


 穏やかな顔の仮面が剥がれ落ちた影王の頬を、両手で包みこむ。


「震えている」


「愛してくれるんだよ、ね」


 怯えて震えている。

 なんて哀れな王なのだろう。あと数年耐えれば、別の幼い王子が天空の王になって、彼は解放されたというのに。耐え難い孤独があったのだとしても、私はやっぱり彼を許せない。私の大切なものを奪ったのだから。


 それでも、私は微笑んでみせなくては。

 微笑んで、目を閉じて、震える彼と唇を重ねる。


 胸の奥からこみ上げるのは、自己嫌悪。こんな欺瞞で、彼を許し許されようとする自分の浅ましさに、嫌気がさす。こんな私は、誰かを愛する資格なんてないんだ。私は、影王と同じくらいひどい女だ。わがままで、誰かを傷つけて、正当化して、一人では何もできないくせに大人たちに怒りを覚えて――子どもなんだ。

 似ていたから、影王は私なんかに愛されたいと、すべてを諦められなかったのだろう。


 影王の涙が、私の頬を濡らす。


「…………ごめんなさい」


 唇を離すと、自然と謝罪の言葉がこぼれ出た。ずっと、謝りたかったんだ。病の床で、憎しみをぶつけてきた輝王子にも、彼にもずっと謝りたかった。何ができるわけでもなかったけど、罪悪感があることくらい知ってほしかった。そうしていれば、彼は耐えられたのかもしれない。感情を、ぶつけられたのかもしれない。彼が世界へと、すべてをぶつけることはなかったかもしれない。

 頬を包み込んでいた右手を首筋、胸と滑らせて、腹で止める。彼の浅い呼吸が、不安と期待が、喜びが伝わってくる。

 震える声で、しっかりと呪いを唱えた。


「その名は、見えざる短剣」


 戸惑っていた彼の目が、ゆっくりと見開かれていく。私にすがりつこうとした手を、振り払って後ろに下がる。


「ミカゲ!」


 血が滲む腹を押さえた影王にすがりつくイェンの体は、手のひらよりも小さかった。

 やはりイェンは輝王子だけでなく、影王とも繋がていたのだ。


「大丈夫。そんな傷じゃ死なないから」


「なぁああああああじぇえええええええええええええええええ!」


 飛びかかってくるイェンは、怒りに体が膨れ上がる。その魔力は、影王の治癒に使うべきだというのに。


「その名は、聖なる光」


 イェンの目の前に光の球体を生じさせれば、彼は声もなく落ちて床をのたうち回る。目玉が大きいぶん、目くらましに光は有効だった。


「私は世界を作り直す。あなた達の都合のいい理想郷ではなくて、新しい世界を作る。その世界で、イェンたちは幸せになればいい。私なんかよりも、あなた達にふさわしい人が、きっといるはずだから」


 のたうち回るイェンと、苦痛の表情を浮かべて椅子から崩れ落ちた影王に、私は宣言した。


 もう、迷っていない。


 また床と天井が崩落して、が顔をのぞかせる。

 もう、時間がない。


「その名は、ゲイン!」


 渡り鳥の名前を呼ぶ。きっと、彼らのことだから、この状況でも腹の中に旅人を収めているに違いない。


 呼び声にこたえるようにして、渡り鳥の羽ばたく音がした。それも、ゲインだけじゃない。次から次へと、たくさんの渡り鳥たちがから飛びこんできた。


「永遠の少女よ。いったい何が起きているというのだ? 街が次から次へと……」


「詳しいことは説明している時間はないわ」


 猛禽類の大きな鳥たちの中から、ゲインを見分けるのはできない。

 だけど、私は渡り鳥を信じる。


「あなたたちと、お腹の中の旅人だけでも、新しい世界に連れて行く」


「新しい世界?」


 首を傾げたのは、ゲインとは別の鳥だったようなきがするけど、そんなことにかまっている暇はない。


「そう、みんなで新しい世界で、生きてほしいの」


 両膝をついて、私は両の手のひらを上に向けて目を閉じる。


 自分よりも他者を思う気持ちが、世界を作り変える力を与えると、ガラムが教えてくれた。

 とても単純なことで、とても難しいことだった。


 でも、私にしかできない。

 もう、死にたくないと体が震えることはなかった。


 平和で豊かな新しい世界。

 第二の影王たちが生まれない世界。

 理不尽に怒りを露わにできる世界。


 求める世界を思い浮かべていくにつれて、気が遠くなっていく。音もまぶたの向こうにあった光も消える。

 冷たい石造りの床の感触も、渡り鳥たちの気配も感じられなくなっていく。

 しっかり世界は作り直されているだろうか。遠のく意識を奮い立たせて、私は最期まで新しい世界を思い浮かべなくてはならない。


 うまくいく。

 そう、薄れ行く意識の中で思った瞬間――


「時よ、止まれ」


 イェンの声が、私の意識を引き上げた。

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