ナージェの夢

聖王と魔王

 全部、夢だったらいいのに。

 そうまぶたを押し上げる前に考えたのは、いったい何度目だろう。空が落ちて、旅を始めてからいったいどれだけの歳月が流れていたんだろうか。時を数えることをやめたのは、あてのない旅にくじけないようにするためだったはず。でも、違った。今ならわかる。わかるんだ。

 私は、旅を続けたかったんだ。


 イェンとの旅を、心のどこかで楽しんでいたんだ。

 もちろん、空を取り戻したかった。けれども、どこにいるかもわからない影王を探す執念なんて、長くは続かなかった。それは、後ろめたさがあったからだ。

 私の予言がきっかけで、こうなってしまったという罪悪感のほうが、影王の憎しみよりも勝っていた。


「……おい、何度も言うておるだろう。俺はロリコンではない。いいか、世界の裏側の創造主に誓っていい。俺は、この娘に咎められるようなことはしてない」


 誰かの声が聞こえてくる。そういえば、意識を失う前に、イェンと同じくらいうざったい聖王と名乗る青年の顔を見たような気がする。


「イシュ。お前、まさかとは思うが、白亜宮殿でもロリコンとか阿呆なことをぬかしているのではないだろうな」


「…………」


「黙るな、阿呆が。クソ、頭痛がする」


 うっすらと目を開けて様子をうかがうと、あぐらをかいた聖王の背中が見えた。


「阿呆なことではない。幼女を愛でるニホンの素晴らしい文化を広めただけだ」


「やはり黙れ。オタクが感染る」


「まあよい。そんなことよりも、この客人まれびとをどうするか、だ。……ん?」


 振り返った聖王と目があった。


「なんだ、起きておったのか」


 これ以上寝たふりするのをも気まずくて、いそいそと起き上がる。どうやら、大きなクッションの上で寝かせてもらっていたらしい。


「ベオールグ、じゃないの?」


 いつだったか、夢で出会った聖王によく似ていたけれども、別人だった。見覚えがあるようなきがするけれども、思い出せない。


 首を傾げた私に、聖王は自嘲じみた笑みを浮かべた。


「まさか、客人の娘から、父の名を聞くことになるとは」


「あ……」


 思い出した。マイペースな聖王が、幻影で見せてくれた双子の息子の片割れだ。

 人好きのする雰囲気がある彼は、おそらく弟のほうだ。

 青い水面の上で背筋を伸ばした彼は、軽く頭を下げた。


「客人の娘。余はベオールグ王の息子イシュナグ。父の跡を継いだ者。父と縁ある者とあれば、世界の外からのであろうとも、大切な客人だ」


 ベオールグは、やはり弟を選択したのだ。先ほどから、彼の背中をにらみつけている黒髪に角を生やした青年が気になっているけれども、怖くて尋ねられない。


「まずは、名を聞かせてもらってもよろしいか?」


「あ、ナージェ。ナージェです」


 なんだかあの父親とくらべると、とてもまともだった。誠実で、真面目で、真摯な心根が伝わってくる。

 私まで、クッションの上で居住まいを正してしまう。

 聖王の背後で、黒髪の角男が眼鏡の位置をなおした。


「ナージェとやらは、我らの世界を侵略するつもりか?」


「え?」


 青年の眼鏡の向こうの真紅の目で、見下ろしてくる。あからさまに、敵視されている。

 イシュナグは、慌てて青年を振り返った。


「ガラム、幼じ……ではなくて、ナージェ殿が怯えておるではないか。そう睨むな」


「……ガラム?」


 ガラムは、たしか双子の兄の名前ではなかっただろうか。

 空人の末裔かもしれない聖なる一族の象徴だと言っていた、純白の髪と金色の瞳はどうしたのだろうか。


 鼻を鳴らした兄にため息をついて、イシュナグは先ほどよりも深く頭を下げてきた。


「我が兄の魔王ガラムは、悪いやつではないのだが、頭が固くて、警戒しろとうるさくてな。気を悪くしないでほしい」


「あ、はぁ」


 間抜けな返事をしてしまった。


 頭上には、曇りのない青い空。そして、クッションの下に広がる青い水面。

 私は夢の中にいる。

 体はたぶん、ユートピアの切れ端にある。

 もう影王は目を覚ましただろうか。世界は、どうなってしまうのだろうか。鼻の奥がつんとする。


 わざとらしい咳払いをしたのは、イシュナグだった。


「ナージェ殿は、何故に、アワイで溺れかけておったのだ?」


「えっと……」


 溺れかけていたというのはどういうことなのだろうと困惑してしまう。

 私はたぶん、イェンに突きつけられた現実から夢の中に逃げてきただけだと思う。だから、溺れた覚えはない。

 困惑を、彼は別の意味でとらえたようで、安心させるように笑って手をひらひらと振った。


「答えづらいのなら、無理に尋ねるつもりはない。……ただ、どうしても確かめたいことがあってな……」


 イシュナグは言いづらそうに、私の顔を覗きこむ。


「ナージェ殿は、我が聖なる一族なのか?」


「……ベオールグにも同じことを言われたわ」


 ゲンナリしてしまう。


「私は、たぶんあなたたちの世界の創造主に近い存在よ」


 首を傾げたイシュナグに、私はベオールグとの会話を思い出しながら、ばらばらになった地球の話を聞かせた。

 話をしていれば、少しは楽になるような気がした。ベオールグや、街で部外者の旅人の私に悩みを打ち明けてくれたように、私は今、彼らにすべてを打ち明けたかった。それで、世界の崩壊を止められるとは、考えなかったけれども、心を整理したかった。ベオールグには話さなかったことも全部話してしまった。止められなかった。イシュナグもガラムも、黙って耳を傾けてくれているから、甘えてしまった。


「世界なんて滅んでしまえばいいって、思ったけど、やっぱり私は諦めたくない」


 諦めたくない。そう自然と声に出せて、ようやく本心に気がついた。

 何度めかわからないけど、浮かび上がった涙をぬぐって腕を組んでたたずむガラムを見上げた。


「あの、ガラムさんが世界を作り直す方法を知っているって、ベオールグが……」


「父が?」


 困惑するガラムは、けれども否定はしなかった。

 まだ、諦めなくてすむかもしれない。彼らの祖先が、空人ならきっと私も同じことができると、信じなくては。


「教えてください。私の世界を救うにはもう……」


「その影王とやらと受け入れればいいだろうが」


 ガラムはどこまでも冷静だった。

 彼の言うとおりだ。

 でもそれでは、ダメなんだ。


「私は、たぶん影王を愛する資格なんてないから……というか、正直、愛するとか、よくわかってないし……だから、たぶん、そんなに豊かな世界にはならないと思うから……だったら世界を……」


「わかった。もういい」


 ガラムはため息をついて眼鏡を外した。そんな彼をイシュナグが不安そうに振り返る。


「よいのか、兄上? のろいのことだろう」


 気難しそうなガラムの口元がふっと緩んだ。眼鏡があったはずの右手には、黒い禍々しい大剣があった。

 ため息をついて立ち上がったイシュナグは、見守ることに決めたようだ。


「ナージェ殿、自分の命と引換えだとしても、まだその方法を知りたいか?」


 大剣の切っ先が、私の胸元に突きつけられた。

 冷や汗が背筋をつたう。ゴクリと生唾を飲み込む音が聞こえる。この期におよんでも、私は生きたいと思っている。でも、それはきっと私だけじゃない。


「知りたい、です。世界が滅んだら、みんな死んでしまうもの。私だって例外じゃない」


「そうか」


 黒い大剣が、煙のようにかき消える。


「世界を作り直せるかどうかは、ナージェ殿の想いの力にかかっている」


 世界を作り直す方法は、とても単純で、だからこそ困難なことだった。

 しらずしらずのうちに、空色のワンピースの裾を握りしめていた。

 たとえ、どんなに困難だろうとも、やらなければならない。


「わかった。ありがとう、ガラムさん」


 覚悟のせいか、声が硬い。


「ナージェ殿に会えて、よかった。父の言葉を聞かせてくれて、ありがとう。俺はずっと父に認められなかったとばかり……」


 含みのある言葉と、憂いのある表情に、戸惑わずにはいられなかった。


「父もはっきりそう言ってくれればよかったのにな」


 見守ってくれているくイシュナグも、目を伏せている。


 ベオールグと、彼らの間に何かあったのだろう。悲しいことが、きっとあったんだ。でも、きっと彼らは乗り越えたのだと思う。

 ガラムは憂いを振り払うように軽く頭を振って微笑む。


「もう目覚めるか?」


 私は首を縦に振る。今度は、自分で目覚めなくては。


 もう一度彼らに感謝の言葉を告げて、私は目覚めるためのまじないを唱えた。


「その名は、決意の目覚め」

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