夢見る王

 棺の中の影王は、とても穏やかな寝顔を浮かべていた。

 背中まで伸ばした白髪を、太い三つ編みにして左肩から胸元に流している。男とは思えないほど、きれいな肌の細面の優男。

 いつも浮かべていた穏やかな笑みが、よく似合う美しい青年。それが、影王だ。


 イェンがこの場所で出会ったときに言ったことが正しいなら、今この場で影王を殺さなくてはならない。

 けれども、もうイェンは信用できない。唇を噛んだ痛みに、初めて彼を信じたかったのだと気づかされた。


「影王を殺せというのは、嘘だったんでしょうね」


「大正解! もうすぐ、ミカゲが目を覚ましちゃうから、大事なことを話すよ。もう、ナージェに嘘は通用しないから、安心して聞いてよね」


 飛び跳ねながら、得意気に笑っている。

 大丈夫、もうやつの呪いは解けている。もう嘘は見抜ける。心を強く持てばいい。


「今まで世界が滅びなかったのは、ミカゲがずっと眠っていたからなんだ。僕らが旅をしてきたのは、ミカゲが夢で繋ぎ止めていた世界なんだ」


「影王の夢の中をさまよっていたというの?」


「違う。ぜんぜん違うよ、ナージェ」


 イェンの声は弾んでいる。それなのに、先ほど爆発させた怒りに、目をギラギラさせている。


「みんな生きている。ナージェも人間も、奇妙な渡り鳥たちだってね。たしかに、ミカゲの夢がばらばらに解けた街の形成に影響を与えているんだ。だから、生きのびるのもやっとな街ばかりだったんだよ」


「影王の夢が豊かだったら、飢えるような街は減るということ?」


「正解! ナージェは頭がいいね。大好きだよ」


 どんなに歪んでいようと、イェンの話は支離滅裂というほど、ありえないわけではない。


「ミカゲは、無慈悲な王とか、もっとひどいこと言われてたけど、地球は平和だったじゃないか」


 イェンはギョロリと目玉を床に向ける。寂しそうに、柔らかい足で瓦礫をもてあそぶ。途方にくれた子どものようだ。


「いい王さまだったじゃないか。ミカゲは頑張ったんだ。世界を滅ぼしたりなんかしないって、認めてもらおうって」


 そんなこと、知らない。


「でも誰もわかってくれなかった。子どものためだったとかわめきながら涙を流した人殺しに、情けをかけなかったから、無慈悲な王? はっ、ふざけるなよ。誰もミカゲに情けをかけなかったくせに」


「そんなの……」


「逆恨みなんかじゃない。三年、三年もミカゲは塔に閉じこめられていたんだ。話し相手は僕だけ。外の景色を見せつけるだけで、何も通してくれない窓が、どんなに残酷か想像もできないでしょ」


 耳をふさぎたい。

 そうだ。私は想像もしたことがなかった。夜に人知れず涙を流した罪悪感だって、双子を引き離して兄王子を死に追いやった上っ面しか感じていなかった。

 私の予言をきっかけに、何が起きたのかようやく思い知る。


「コウキの他の誰からも愛されたことなかったミカゲに、愛を求めるなんて、おかしいじゃないか。本当に頑張ったんだよ」


 イェンが足で積み上げた瓦礫から、カツンと小さな欠片が落ちる。


「でも気がついちゃったんだ。ミカゲが王さまである以上、世界を滅ぼす予言はつきまとうんだって。本当にふざけるなよ。だって、ミカゲがどんなに頑張ったって無駄じゃないか」


 その通りだ。

 影王が王であるうちは、ずっと世界を滅ぼす可能性はなくならない。よき王と呼ばれることは、決してなかったのだ。


「あの日、ナージェが予言をやり直せば、空を落とすことなんてなかったんだ。ミカゲは限界だったんだ」


 ガシャと、イェンは積み上げた瓦礫の山を崩す。


「ミカゲは世界を滅ぼしてない。でも、彼が目覚めたら崩壊を始める。だって、夢で繋ぎとめているんだもん」


 イェンは、ギョロリと目玉をあげた。大きな一つ目は、途方に暮れているようだった。


「元通りにはならないけど、ばらばらになった大地を一つに戻して、新しい空を与えることならできる」


「元通りには……そう」


 もう誰も本物の空を知らない。それどころか、必要とされていない。

 でもと、両手を握りしめる力が強くなる。


「でも、大地を一つに戻す方法はあるのね」


「もちろん、あるよ。ナージェが、ミカゲを愛してあげればいいんだ」


 ゾワリと悪寒が走る。

 夢の中の隻眼の天空の王と同じ狂気が、イェンの一つ目に宿っている。


「僕らが旅をしてきた街は、とても貧しかったよね。それはミカゲが、豊かな夢を見られないからなんだ。ナージェが、昔の平和で豊かなパンゲアを教えてあげればいいんだ」


「……無理よ」


 首を横に振る。


「私は、影王を憎んでいる」


「知ってるよ。でも、僕と旅をしてきて、気がついていたんでしょ。歪んだ街が増えてきている。世界が変容してるんだ。たぶん、ミカゲは夢も限界なんだ」


 イェンは、ズルリと私に腕を伸ばした。後ずさろうとして椅子に腰を落としてしまう。

 けれども、彼の不定形な腕は私に触れることなく、懇願するように低い位置で止まった。


「ナージェには、ミカゲを愛さなきゃいけないんだ。愛する責任がある。だから、ミカゲと一緒に眠ってよ」


 それは、夢で見た存在しない輝王の望みそのままだった。


「イェン、そんなの同情と哀れみにしかならない」


「でも、そうしないとナージェの予言通り、世界は滅びるよ。長い旅で出会ってきた人間も、渡り鳥たちも、僕らもみんな死んじゃうんだよ」


「だから、影王を愛せって言うの?」


「そう言っているじゃないか」


 無理だ。そんなの、絶対に無理だ。それに、あまりにも理不尽じゃないか。


「どうして、私なの。私じゃなくても、いいじゃない。私なんかよりも、優しい人はたくさんいるし、孤独を知っている人もいる。影王に寄り添える人がいる」


「ナージェじゃなきゃ、駄目なんだ」


 イェンの言葉に、嘘はなかった。

 世界が滅びるのを防ぐには、本当に他に選択肢は残されていないのか。


「どうして自分がって考えたことあるでしょ? ナージェ、コウキもミカゲも同じことを考えていたんだ。どうして自分がってさ。何も悪いことをしていなかったのに、どうしてこんな目にあわなきゃいけないんだって。ナージェは、大人たちに逆らえなくて悔しかったんでしょ」


「それは……」


「そんな理不尽な世界を作り変えてしまえばいいんだ。ナージェも、解放されるんだよ。言うことをきかなきゃいけない大人たちは、もうどこにもいないんだ。だからナージェ、ミカゲを愛してあげてよ」


 違う。そうじゃない。でも何が違うのか、うまく言葉にならない。


「私はっ……!」


 やっぱり、言葉にならない。首を横に振るだけで精いっぱい。


「じゃあ、世界が滅んでもいいの? ナージェは予言通りになるからいいかもしれないけど、巻きこまれる人たちはどうなの? 僕との旅で出会ってきた人たちを見殺しにするの?」


「卑怯者!」


 世界を人質にするなんて、なんてやつだ。


「そうだよ、僕は卑怯者だよ。大切な人を救うためなら、卑怯者にだって、嘘つきにだって、なんだってなれる。誰も悲しんだりしなくていい、理想郷を作るには、ナージェが必要なんだ」


 悔しい。イェンの言うとおりにするしかないのか。他に、方法はないのか。

 考えれば考えるほど、胸が苦しくなる。


「ミカゲもちゃんとナージェの思いに応えてくれるから、そんなに怯えることはないよ。大丈夫だから」


「怯えてなんか……」


 声が震えていて、言葉にならない。声だけじゃない。全身がガタガタと震えている。

 激しい呼吸音が、まるで他人事のようだ。


 私は怯えている。


 ヒューヒューと喉が鳴っている。手足がしびれて感覚がなくなったと思ったら、頭までしびれてきた。

 呼吸音は他人事のようだけど、全身が悲鳴を上げている。

 苦しい。痛い。涙が、鼻水が、よだれがあふれる。助けて。苦しい。苦しい。苦しい。


「大丈夫、ナージェ。深呼吸して」


 イェンの声が遠のく。目の前が真っ暗になって、ぐらりと体が傾くのがわかった。


 苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい……悔しい。


 溺れてしまったみたいだ。

 初めから、私は溺れていたのかもしれない。逆らえない大人たちの思惑や、イェンと影王の恐ろしい思惑に、溺れていたのかもしれない。

 もがく力ももうない。


 もういいや。疲れた。

 世界なんて、どうでもいい。

 滅んでしまえばいいんだ。

 私は、頑張ったんだ。

 誰も、もう空を必要としていないんだ。

 なんだったんだろう、私って。

 聖女になるべくして選ばれて、育てられて、大人の言うとおりにしてきただけなのに、地球はばらばらになっちゃうし。

 馬鹿みたいだ。

 空を取り戻して、世界を元通りにしようって、頑張ってたのはなんだったんだろう。


 もう疲れた。

 このまま、世界が滅びるなら、それはそれで……


 体の感覚ももうない。

 このまま、私は死ぬんだろうな。


 影王を愛するなんて、私には無理だったから。


「……っ!」


 突然、大きな手に腕を掴まれた。イェンではない。人間の手に。


 驚く暇もなく、その手に引き上げられる。

 抱きかかえたのは、誰だろう。影王だろうか。

 死にたいと拒絶の言葉を口にしようと、力を振り絞ってまぶたを押し上げる。


「おい、しっかりしろ! おい……」


 私の顔を覗き込んでいた青年は、影王ではなかった。

 純白の髪に黄金の瞳の青年は、影王しかいないけど、違う。美しい顔の額には、をあしらった入れ墨がある。そうだ、私は彼を知っている。


「……ベオールグ?」


 彼の金色の目が驚きに見開かれる。

 私は意識を手放した。それが安堵からだったのか、諦めだったのか、どうでもいいことだ。

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