夢の空

 寝台の上で、目が覚めた。


 どうやら、輝王との会見中に気を失ってしまったらしい。なんたる失態。忌々しい。


「最悪」


 早くどうやってあの場をおさめたのかを、知らなければならない。

 それのに、手を上げるのも億劫なほど体が重い。


「よい夢を……か」


 まだ夢のせいで記憶が混濁している。

 空色の紗の、天蓋の向こうにある蝋燭の灯を幻想的に染め上げている。もう夜か。まだ夜だというべきか。

 薄暗い中で、右手を伸ばす。

 ほっそりとした腕と手の甲と、指。大人の女のものだ。見慣れた私の手だ。


「やっぱり、私の体じゃないみたい」


 上体を起こすと、ノアンが着替えさせてくれたのか、薄い夜着を着ていた。

 はらりと頬にかかる髪にも違和感がある。


 私の髪は、もっと短かったはず。

 私の手は、もっと小さかったはず。

 私は――


「……永遠の少女」


 私をそう呼んでくれたのは、奇妙な渡り鳥だった。もちろん、夢の中で。


 気だるい体で、静かにベッドを降りる。

 素足に薄い夜着では、夜の空気は肌寒い。そういえば、今は春だっただろうか、冬だっただろうか、記憶の混濁のせいで季節も思い出せない。


「ノアン?」


 蝋燭の灯りがあったから、ノアンがそばで控えていると思っていた。でも、誰もいない。

 月明かりが差し込む寝室は、がらんとして静まり返っている。


「きっとすぐに戻ってくるわ」


 私の声は、すぐに夜の静寂に吸い込まれるようにして消えてしまう。


「みんな、心配しているよね」


 輝王のゾッとする左目が、脳裏をよぎる。

 次に会ったときは、かなり嫌味を言われるに違いない。最悪だ。


 それでも彼は天空の王として、よく地球を治めている。


「だからこそ、歪んでいるのよね」


 そう、よき王だからこそ、弟への歪んだ想いが際立っている。


 本当に静かだ。

 静かすぎる。


 ノアンが戻ってくるのを待つべきか、このまま休むべきか。

 唇を指先でなぞる。


「輝王は歪んでいる。私の予言のせいで……」


 本当にそうだろうか。


 蝋燭の火を吹き消して、目を閉じる。

 心の声に耳をすませるには、この静けさはうってつけだ。


「私は誰?」


 頭で考えた言葉ではなく、胸の奥底から湧き上がる言葉を声に出していく。


「私はナージェ。聖女ナージェ。聖女になるべくして育てられた女。それだけ? 本当に?」


 自分で発した言葉に、驚いて目を開ける。

 月明かりがさしこむ寝室は、あいかわらず静まり返っている。


 本当に、私はどうかしている。

 聖女であることを、疑っているなんて。


「夢のせい?」


 おぼつかない足取りで、バルコニーに出る。まるで、月明かりに誘われたように。

 いつもよりも大きく見える満月が、夜の影を作り出す。頭上の月は、整然とした庭園を照らしている――はずだった。


「何も見えない?」


 ぼんやりとした闇が広がっている。


 不思議と恐ろしくなかった。

 むしろ、ホッとした。

 あれほどしつこかった記憶の混濁と違和感が、きれいに拭い去られた。


「これが、夢だったのね」


 たぶん、初めからわかっていた。

 ノアン以外の女官たちの名前が思い出せなかったのも、記憶が混濁していたのも、違和感があって当然だった。

 輝王子が死んで、影王が天空の王となって、空が落ちて大地がばらばらに解けて散ったのが、現実なんだ。

 棺を背負ってイェンと、長い旅をしていた。

 奇妙な渡り鳥に、時おり見る現実味のある不思議な夢。

 そう、それらこそが、目を背けてはいけない現実だ。


 見上げた夜空は、本物にしか見えない。


「あの夜空は、あんなにも美しいのに」


 これは夢なんだ。

 夢だからこそ、美しいのかもしれない。


「イェン、これはあなたが見せている夢なの?」


 本来、いるはずのない輝王は、あまりにもイェンに似ていた。隻眼であること。イェンが垣間みせた妄執のようなものが、彼にもあった。


 考えても見なかったけども、イェンは輝王子となんらかのつながりがあるのかもしれない。もちろん、影王にも。


「何がしたいのか、まるでわからないけど……まぁいいわ。おかげで考えて整理することができるもの」


 もう一度、白い満月の下で心の声に耳を傾ける。

 目を閉じると、夢とは思えないほど体の感覚がリアルだった。

 肌を撫でる心地よい夜風。

 長い髪の重さ。

 私の浅い呼吸。

 それから、少し早い鼓動。


「それでも、これは夢なの」


 もう一度、考えた言葉ではなく、胸の奥底から湧き上がった言葉をすくい上げていく。


「夢なの。本当に? 不自然なことなんて、少ししかない。それでも夢だというの? 夢よ。夢なの。都合がよすぎる。輝王の申し出も、都合がよすぎる。終わりの見えない旅を続けるよりも、自分のせいで不幸になった人と結婚するほうが、よほど楽な罰。同情と哀れみと、自己犠牲から生まれる偽りの愛情を、花婿に注げばいいだけだもの」


 声が幼くなっていく。けれども、まだ考えてはダメだ。


「それが、影王たちとつながっているイェンの望みだというなら、それもありなのかもしれない。けど、やっぱりおかしい。こんなこと」


 背を向けている寝室からかすかな物音が聞こえてきた。

 ノアンが戻ってきた。

 本当によくできた夢だ。


 どんなに彼女が気を配っても、私は彼女の気配を感じ取れる。

 私は、ノアンのことが大好きだから。


「ナージェさま? どちらにお隠れですか?」


 ほら、やっぱりノアンだ。

 空が落ちた日、ノアンは死んでしまったんだ。それはもう受け入れたこと。もしかしたら、あの夢のように人間とドラゴンの世界の女神さまをしているのかもしれない。そうだったらいいと、願う。

 ノアンは、すぐにバルコニーにいる私を見つけてくれた。


「そのような薄着で、夜風にあたっていては……」


「ごめんね、ノアン」


 小さくつぶやいて、まぶたを押し上げる。振り返らない。振り返ってはいけない。


 見上げた夢の空は、懐かしくて美しかった。


 私の予言のせいで、世界が滅びかけた。

 私は弱いから、いつも大人たちのせいだと言い訳しないと、罪に向き合えなかった。でも、それではダメなんだ。


 イェンと、それから彼がきっと居場所を知っているだろう影王と対峙しなくてはならない。


 本当に、ごめんね、ノアン。


「その名は、今、目覚める夢」


 ――パリン


 空が落ちたときと同じ音がして、すべてが真っ暗になった。

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