天空の王

 天空の王が、聖女を妃に迎えることはよくあることだ。

 先代の聖女も、私が生まれる前に先王に見初められて妃となった。つまり、あの双子は先代の聖女の息子たち。そう考えれば、近しい存在に感じられるはずなのに。

 一休みしたあと、身を清めて、夕刻の茜空を意識したシルクのドレスに着替えさせられている。

 光沢のある生地は綺麗に流れるドレープを作ってくれるけど、まとわりつくから嫌いだ。


「でも、私のことを憎んでいたんじゃないのかしら」


「陛下は立派な方だと聞いております。ナージェさまを憎むなど、ありえません」


 ノアンはより美しいドレープが床に広がるように、腰回りを整えてくれている。


「そう、かしら」


 彼は私を憎んでいたはずだ。げっそりコケた頬と張り付いた髪、金色の瞳は憎悪でギラついていた。


 ――嬉しいんだろ。もっと喜べよ。お前の予言通りに、僕は死ぬんだ。だから、笑えよ。笑えよ!


 ああ、あれは夢だったんだ。

 病の床で、憎悪をむき出しにしていた輝王子は、夢の中で見たんだった。

 違和感どころのはなしではない。まるで記憶が二つあるようではないか。夢の中でたどった記憶と、この現実の記憶が混濁している。寝ぼけていると、笑えない。


 これ以上ノアンに心配させれないように、顔を上げる。うつむいてしまったら、ため息をこらえきれない。

 西のテラスから、茜色に染まり始めた西日が差し込んでくる。

 冷たい石造りの聖宮にぬくもりをくれる日の光が、大好きだ。

 懐かしいと夢の記憶が訴えてかけてくる。

 夢にまで見て、求めた空がそこにあると、泣きそうなくらいの思いがこみ上げてくる。


 ドレスを整え終わったノアンは、立ち上がって私の肩に手を置いてくれた。


「そんな顔をされていては、陛下に愛想をつかされますわ」

 

「そうね。しっかりしなきゃ」


 目の前の姿見の私は、少し不自然な笑顔を浮かべている。大丈夫、それでも笑顔は笑顔だ。

 もともと輝王は、めったに聖宮に来ない男ではないか。


「大丈夫よ」


 だから、大丈夫。少しくらいぎこちなくても、記憶が混濁していても、大丈夫。短い時間なら、愛想をつかされるような失態はしない。


 姿見の中の私は、天空の王の妃にふさわしいくらい美しかった。

 まるで、自分じゃないような気がするくらいだ。それもこれも、夢の中でずっと少女のままだったからだろうか。


 いつの間にか、笑顔に不自然なところはなくなっていた。


「ナージェさま、輝王陛下が夕月ゆうづきの間にてお待ちです」


「わかったわ」


 天空の王の到着を告げてくれた若い女官は、なんて名前だっただろうか。思い出せない。毎日みている顔なのに。彼女だけではない。どうやら、多くのことを忘れてしまっている事に気がついた。

 心臓を鷲掴みにされた気分だった。

 私は、もしかしたらもっと大事なことを忘れているのではないだろうか。


 自分の顔が青ざめているのが、鏡がなくてもわかる。けれども、みんな私が緊張していると思っているようだ。

 そんなに遠くないはずの夕月の間までの道のりが、はてしなく感じる。


 輝王に会いたくない。

 どんな顔をして会えばいいというのだ。おそらく、いつも同行しているという影王子も一緒に来るだろう。


 宵闇の織物が壁を彩る夕月の間で、輝王は待っていた。

 蒼穹の色に染め上げたマントに、金の飾り紐の青灰色の瀟洒な服をまとっていた。つぶれた右目を隠すのは金銀細工の美しい眼帯。純白の髪は三つ編みにして右肩から、胸元に垂らしていた。

 誰の目から見ても、輝王は美しい青年だ。


「聖女ナージェ、急な訪問を歓迎いただき、感謝します」


 うやうやしく頭を下げた彼のかたわらに、影王子はいない。怪訝に思いながらも、壇上の椅子に座り、歓迎の言葉を口にする。


「天空の王がお越しになるとなれば、歓迎しないわけにもいかないでしょう」


「あいかわらず、冷たいお人だ」


 冷笑を浮かべた輝王のほうが、よほど冷たいのではないか。黒檀の肘掛けを握る手に力がこもる。

 嫌な男だ。私のことを恨んでいるなら、はっきりと態度で示せばいいのに。私の予言のせいで、彼らの人生を狂わせたのは間違いない。輝王と影王子には、私を恨み憎む権利がある。そして、私はそれらから逃げないことが罰だと考えている。誰も私を直接断罪してくれないから、罰というのも身勝手な自己満足なのかもしれないけれども。


 淀んだ光を宿す彼の左目に、私は少しだけ安堵していた。彼が私を妃に迎えるなど、ありえないとはっきりした。


 輝王が軽く手を上げると、背後に控えていた男たちが大きな白い箱を持ってきた。


「聖女ナージェ、まずはこれをお納めください」


 二人がかりで蓋を開けられた箱の中には、美しい絹織物が納められていた。白に金糸銀糸をふんだんに織り込まれた絹織物が意味することに、私は唇を噛んだ。


「まさか、陛下からそのような物を贈られるとは……」


「夢にも思わなかった、ですか?」


「……っ!」


 本当に嫌な男だ。前髪がかかる左目に冷たい光を宿して、輝王は冷笑を浮かべている。

 そんな男が求婚してくるなどとは、考えたくなかった。


 私は、ただ大人に言われるがままに予言をしただけだ。もちろん、そのせいで双子が引き離されてしまったのは、わかっている。けれども、それをしたのは大人たちだ。きっかけを作った自分の罪は、認めている。双子たちの憎しみから逃げてはならないと心に決めている。

 それなのに、どうして求婚などするのだろう。


「ええ。夢にも思いませんでした」


 壁際に控えているノアンたちが、動揺しているのがわかる。

 けれども、はっきりしておかなければならない。


「だって、陛下は私が嫌いではありませんか」


 輝王はすぐに答えなかった。驚いたように左目を見開いて、ククッと喉を鳴らした。


「聖女ナージェ、あなたは誤解していらっしゃるようだ」


「誤解?」


「ええ、二つほど」


 愉快でたまらないと、彼は笑って肩をすくめる。私には、そんな彼がたまらなく不愉快だった。


「僕にとって、あなたは嫌いのひと言で表せるような単純な女性ではないのですよ。あのようなことがなければ、僕らはあなたと仲良くなれたはずですからね」


 嫌いという感情を否定しないのが、薄気味悪い。


「それが、一つ目のあなたの誤解。ええ、ええ、むしろ僕はあなたのことが大好きですよ」


「……そう」


 左目に冷たい光を宿しておいて、信じられるわけがない。


「二つ目の誤解は、この度の訪問は、あなたに弟の妻に迎えようと来たのですよ」


「なっ」


 驚きの声を上げたのは、私だけではなかった。

 壁際に控えているノアンたちも、彼の背後に控えている男たちも、どよめかずにいられなかった。


「驚くようなことではないでしょう。弟は、僕と違って孤独をという責め苦を味わった。いわれのない責め苦だったことは、今さら語るまでもないでしょう」


 また冷笑。


「本来ならば、弟を連れてくるべきだったのですが、用意した織物を突き返されたらと、駄々をこねられましてね」


 弟と形の良い唇を動かすたびに、彼の瞳にほの暗い愉悦が浮かぶ。


「聖女ナージェ、あなたは弟を愛する責任がある。三年、三年もの間、弟は出口のない塔で孤独に苛まれ続けた。あなたに――この場にいる者に、どれほどの絶望があったか、想像すらできまい。もちろん、僕にもだ」


 狂おしい熱がこもり始めた彼の言葉を止められるものなど、ここにはいない。

 壁際の女たちも、彼に付き従ってきた男たちも、私も、加害者だ。私の予言に絶望した双子たちにとって、私たちは加害者だ。


「孤独という絶望の中で、弟は愛されるということを忘れてしまった。心無いと、無慈悲だと弟を責める者ばかりだが、僕に言わせれば当然のこと。誰も弟を愛しはしなかったのだから。弟が他者を愛せるわけがない。僕だけだ。僕だけが弟に寄り添える。だが、それだけではだめだ」


 狂っている。

 そして彼を狂わせたのは、私たちユートピアの空人だ。


「聖女ナージェ、あなたには弟を愛する責任がある」


 いつの間にか、夕月の間に夕闇が忍び込んでいた。

 もう日が沈んでいたのだろうか。

 華奢なシャンデリアの灯りは、輝王の周りだけを浮かび上がらせている。壁際の女たちも、彼の背後の男たちも、影に覆われて顔が見えない。まるで、影そのものだ。


「すっかり暗くなってしまったね」


 輝王も暗くなっていたことに気がついたらしい。クスリと笑って、居住まいを正した。


「明日にでも、弟を連れてきましょう。……よもや、拒もうなどとは考えていないでしょう」


「ええ、そうね。その通りよ」


 悔しい。

 こんな男にいいように言われて、私は何一つままならないとは。


 私だって、被害者だ。

 そう割り切れれば、こんなにも肘掛けをつかむことはなかったのに。


 満足そうに輝王は頭を下げる。



 夢の中で何度も聞いた言葉に、目の前が真っ暗になった。

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