Ⅲ
天空の街ユートピア
目覚めた夢
誰かが私を揺り起こそうとしている。
「起きてください、起きてください。ナージェさま」
もっと寝ていたい。夢を見ていたい。
「ナージェさま」
「わっ」
布団を引き剥がされた。
……え、布団って。
「しっかりしてください、ナージェさま」
見覚えのある天蓋。それから、のぞきこんでくる見覚えのある人。
「……ノアン?」
「ええ、ノアンですとも」
早く起きるように、ノアンはしつこくうながしてくる。
ノアンはもういないはずだ。きっちりとひっつめた白髪に、動きやすい青灰色のお仕着せを着ている。目尻の笑いジワが大好きなんだ。
「えーっと、私……」
「もうしっかりしてください」
「う、うん」
体を起こすだけで違和感がある。
「えっ……」
子どものまま時を止めてしまった体が、大人になってしまっている。強い違和感があった胸に手が伸びる。残念なことに、ノアンほどの重量感はない。
「ナージェさま、大丈夫ですか?」
心配そうなノアンに、なんて答えたらいいのかわからなかった。
「ごめんね。やけに現実味のある長い夢を見て、ちょっと記憶が混乱しているみたい」
「寝ぼけているということですね。では朝のおつとめをする頃には、いつものナージェさまに戻られるでしょう。さぁ、起きてください」
寝ぼけている。たぶん、そういうことなのだろう。
ノアンに急き立てられながら、私は朝の身支度をしていった。
いつもと変わらない朝だ。
身支度をして軽い朝食を食べて、朝のおつとめにのぞむ。
寝ぼけていたのかもしれない。
けれども、気持ちの悪い違和感はいつまでたってもまとわりついている。それに、記憶もなんだか曖昧だ。夢が鮮烈すぎたせいか、どうも現実が夢のように感じてしまっている。
「まずいわね」
夢の中では短く切りそろえられていた髪が、ひどく鬱陶しい。腰まであることに違和感を感じてしまう。
それでも、毎日同じようなことの繰り返しの生活を送っていたおかげで、なんとかなっている。
朝のおつとめだって、ただ聖宮の奥で両の手のひらを天に捧げて目を閉じていればいいだけだ。繰り返される毎日の習慣は、体がしっかり覚えている。その後は、磨き上げられた石造りの冷たい広間の玉座に座って、群衆を見下ろしていればいい。
私は聖女ナージェ。
天空の街ユートピアの聖宮の主。天空の王とともに、地球でもっとも尊い人間。
ユートピアだけでなくひとつながりの大地パンゲアからも、大勢の人間が救いを求めて目の前でひれ伏している。彼らは、私の言葉もなにも必要としていない。ただここに座っている私を拝んで崇めているだけで、救われると本気で信じているのだろうか。
馬鹿馬鹿しい。
私は人間だ。言葉の力を操る空人だけど、所詮は彼らと同じ人間。私の言葉も何も必要とせず、ただ崇めるだけでいいというなら、私でなくてもいいではないか。この座り心地の悪い冷たい玉座だけを拝んでいればいい。
くだらない。
けれども連綿と受け継がれてきた慣習を、拒むことなんてできない。聖女以外の生き方を私は知らない。――本当にそうだろうか。
今朝からの違和感は、少しも衰えることなくしつこくまとわりついている。
影王が空を落として、ばらばらに解けて散った大地の長い旅。奇妙な渡り鳥に、一つとして同じものがない偽りの空。黒い棺を背負って、醜い異形のイェンと空を取り戻そうとしていた。私の予言のせいでという罪に苛まれた。空を取り戻すことの意味を疑った。イェンのことも信じられなくなったこともあった。
全部夢だったというのか。
夢でよかったはずなのに、どうしても違和感が消えてくれない。
そもそも、目覚めてから随分たつのに、記憶が曖昧な部分がある。そのことが、さらに私を不安にさせる。
いつものように目を伏せて神妙な顔つきをしていたのに、ノアンは私の様子がおかしいと気がついてくれたようだ。
いつもよりも少し早めに昼食をいただけるのも、彼女が気をつかってくれたおかげだ。
「気分がすぐれないようですわね」
「ええ。長い夢を見すぎただけなんだけど……」
スープがやけに味気ない。腰のあたりまである髪が重くて鬱陶しい。体にまとわりつく滑らかな空色の装束が気に入らない。
「まだ夢を見ているみたい」
「何かおっしゃいましたか?」
首を横に振る。他に何ができるというのだろう。体が不調というわけではない。
あくまでも、長い夢を見ていつまでも寝ぼけているだけだ。わかってるだけに、不甲斐ない。
テラスから吹いてきた風が、ため息をさらってくれた。
心配なんてかけられない。
また昼からも玉座に座っていなければならないのだから、しっかり食べて置かなければ。
「今日は特別な日ですから、夕刻までゆっくりお休みください」
「特別な日?」
首を傾げると、ノアンは私の肩を軽く叩いてきた。しっかりしろということだ。
「陛下がいらっしゃるというのに、特別な日でなくてなんだというのですか」
心臓が大きく跳ね上がった。
「陛下って……影王、が来る」
夢のせいで、天空の王が恐ろしかった。
けれども、ノアンはこれでもかと目をまんまるにして驚きの声をあげた。
「何をおっしゃっているのですか! 輝王さまに決っているではありませんか。あの薄気味悪い弟殿下と間違えるなど……」
「輝王?」
しっかりしてくださいと心配されてしまった。
そう言われてみれば、そうだった。輝王は弟を塔から解放したんだった。私は輝王と二度と予言で誰かの運命を縛らないことを約束したんだった。
『輝王子は、王になることはありません。影王子は、無慈悲な王となり、この世界を滅ぼすでしょう』
あの予言は現実にならなかった。それでも、引き離された弟を救い出そうと入り口のない塔の外壁をよじ登って転落した。その際に、輝王は右目を潰してしまった。弟を求めた痛ましい結果に、多くの人が心を痛めた。多くの同情が影王子を解放した。
隻眼の天空の王は、弟を片時も離さない。それこそ寝室まで一緒だとか――さすがにそれは、聖宮の女たちの妄想だろうけども。
私は、こんなにも天空の王を恐れていたのだろうか。よくわからない。
まだ、長い夢にとらわれている。ぼやけてしまった現実が、気持ち悪い。
「私、本当にどうかしているわね」
ため息がこぼれる。
ふと見上げた空を、懐かしいと思ってしまうのも、本当にどうかしている。いつも変わらず、頭上にあるというのに。
違和感が消えない。
そんな私に追い打ちをかけるように、ノアンが嬉しそうに笑うのだ。
「陛下は、ナージェさまを妃にとおっしゃるに違いありませんわ」
「えっ、ちょっと待って……」
「ナージェさまは、二十歳になられたのです。遅いくらいですわ」
そう、私はもういい大人だ。早く結婚しなければ行き遅れてしまう。けれども、まったく心の準備ができていない。
「だから、ナージェさまは、時間が許すかぎりしっかりお休みください。そのようなご気分では、陛下の心をつかむことはできませんよ」
ノアンには悪いけど、そんなこと言われたら、しっかり休めるわけがない。
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