イェンの回想
空が落ちた日
今の人々には、空が落ちるというのが、どんな光景だったか、想像すらできないだろう。そもそも、想像しようともしないだろうけど。
あれは、本当に魂が震えるくらい恐ろしくて……美しい光景だったんだ。
雲一つない青空に向かって、影王は手を伸ばして微笑んでいた。
「空よ、落ちろ」
天空の王の言葉の魔力は、ナージェなんかよりもずっと強力だ。だから、影王にはたったひと言でこと足りたんだ。
ピシッ
乾いた音を立てて、空にヒビが入っていく。
同時に崩壊し始める天空の街ユートピア。
激しい揺れに悲鳴を上げる人々。逃げ場所なんか、どこにもないというのに、右往左往する人々が、とても滑稽だった。
ピシピシピシ……
倒壊する聖宮の中で、影王はいつものように微笑みながらヒビが広がる空を見上げていた。
少し離れたところでペタリと座りこんでいたのは、ナージェだ。呆然と空を見上げることしか、あのときの彼女にはできなかったんだろうな。
――パリン
とうとう、全体に広がったヒビに耐えきれなくなった空が落ちてきた。
本当に、魂が震えるくらい恐ろしくて美しい光景だった。
ただ慌てふためいていた空人たちの悲鳴が聞こえなくなった。
ひとつながりの大地パンゲアが、ばらばらに解けて散ったように、天空の街ユートピアもばらばらになったんだ。
ナージェは、ユートピアの切れ端に取り残されていた。
磨き上げられた聖宮の床は、粉々になった柱のせいで汚れている。空の代わりに、ぼんやりとした灰色の闇が広がっている。
立ち込める粉塵に咳き込むことなく、ナージェは息をするのも忘れてただ頭上を見上げていた。
――ねぇ、ナージェ、聞こえる?
辛抱強く話しかけなければならなかった。
正直、その生気のない虚ろな表情をもっと眺めていたかった。けど、彼女に
――ナージェ。ナージェ。ねぇねぇ、聞こえているでしょ?
どのくらい話しかけていただろうか。
不意にピクリと肩を震わせたと思うと、彼女の金色の瞳に光が戻った。
「誰? 誰かいるの?」
自分の方を抱きしめて、彼女は恐る恐る立ち上がった。
――ここだよ。ここ。黒い棺があるでしょ。
「ひ、棺?」
彼女は怯えながら、柱の下敷きになっていた黒い棺を見つけ出した。
――そうそう、それだよ。ナージェ。
「君、誰なの? 棺の中に隠れているの?」
――違うよ。でも、この棺に縛られているのは正解。僕の名前は、イェン。ナージェ、君の魔力を分けてよ。力になるからさ。
目に涙を浮かべていたのは、きっと途方にくれていたからだ。
「魔力を分けるって、どうやって?」
――僕の名前を呼んでよ。それだけでいい。君は、聖女なんでしょ。
「まだ、正式に聖女と認められてないけど、やってみる」
コクリと頷くナージェに、早く触れたくてしかたない。
僕のことを、ナージェは知らない。でも、僕はナージェのことをよく知っている。
大好きなんだ。
「その名は、イェン」
ドロリと溢れ出した僕の体に、ナージェはヒッと悲鳴を上げて尻餅をついた。
手と足、それから頭を出して、柱をどける。
「はじめまして、ナージェ。僕はイェン。こんな姿だけど、君の力になりたいんだ」
「私の力?」
僕の一つ目に、彼女の震えた姿が映る。
傷つくけど、しかたがない。そんなことよりも、彼女に呪いをかけなければ。僕は影王ほど言葉の魔力を操れない。
「空が落ちたけど、僕もナージェも生きている。だから、まだ予言通り世界が滅んだわけじゃない」
予言と聞いて、彼女の肩が跳ねる。
「だから、きっと影王は生きている」
「影王は、生きている」
怯えていた彼女の瞳に、強い光が宿ろうとしている。
「影王を探し出して、倒すんだ。そうすれば、空は元に戻る」
「そんな、空を元に戻すなんて……」
「できるよ。僕を信じて。お願い、僕を信じて、影王を探そうよ」
彼女の瞳の光が、ふっと消えた。
「わかった。君を信じる」
うまくいった。
これで、彼女はしばらく僕の言うことを無条件で信じるはずだ。
「じゃあ、あらためて、よろしくね、ナージェ」
差し出した手を、おそるおそる彼女は握ってくれた。
「よろしく、イェン」
それからしばらくしてやってきた渡り鳥の乗って、僕らの旅は始まったんだ。
影王を探す旅ではなくて、ナージェの予言の罪深さを気づかせるための旅。
時間がたてば、僕の呪いはゆっくりと解ける。その頃に、ようやく彼女は思い知って、絶望する――はずだった。
ナージェは今、渡り鳥の中で眠っている。黒い棺にもたれかかるようにして、ぐっすり眠っている。
きっと素敵な夢を見ているんだろう。僕には向けてくれない素敵な顔をしている。
――ナージェは、もう気がついていたんだね。それでも、影王を探していたなんて……失望したよ。
本当に失望させられた。
もう、旅は終わりだ。世界も変容しているし、そろそろ限界だ。空が落ちても、たしかに世界は滅んでいない。けれども、いつか滅ぶ。いわゆる地球の延命措置だったんだよ、ナージェ。もしかしたら、それにも気がついていたかもしれないけど。
だからこそ、余計に許せない。大好きだから、余計に許せないんだ。
ドロリと棺からあふれ出した体で、ナージェを包みこむ。計画とは違うけど、こうするしかない。
――おやすみ、ナージェ。よい夢を。
包み込まれたナージェは、とても幸せそうに眠っていた。
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