恐怖の正体

 大穴の底の宇宙にでもいいから、逃げ出したい。

 僕はナージェに解き放ってもらえないと、彼女にも姿が見えないはずだ。

 それなのに、それなのに、それなのに……


『君タチハ、誰ダ?』


 まるで僕がここにいるとわかっているような文章。

 今までで、僕はずっと認識してもらえないことが、不満だった。解き放ってもらって実体化しても、人間たちは醜い姿を恐れるだけだ。ナージェだって例外じゃない。

 それなのに、僕は恐れている。怯えている。


「君こそ誰? 先に名乗るのが、礼儀というものよ」


 ナージェの不機嫌そうな声で我にかえる。

 そうだ。ナージェの言うとおりだ。名乗りもしない礼儀知らずに、怯えるなんてどうかしてた。


 ――ナージェ、何か返事あった?


「ん」


 体を起こしたナージェは、自分で確認しろと金属板を持って窓辺にやってくる。

 もう怖くなかった。恐れることなんてない。

 金属板には新しい文章が浮かび上がっていた。


『吾輩ハ、…………』


 理解できない単語と数字の羅列。目で追うのもゲンナリする。


「長い名前ね」


『通称ハ、アルゴ』


 だったら、最初から通称を名乗ればいいのに。


 ――アルゴ……って、誰?


 僕がボヤいた途端、文字がスゥッと消えた。

 やっぱり、このアルゴって奴、僕が見えているのだろうか。


『強イ電磁波ノ乱レヲ検知。君タチハ、誰ダ? 吾輩ハ、旅人ハ一人ダト把握シテイル。ダガ、複数人イルト処理サレテシマウ』


 ナージェは、困ったように棺を見る。どうやら、彼女も理解できない文章のようだ。

 そして、再度浮かび上がる文字たち。


『君タチハ、誰ダ?』


 ――ナージェ、どうする?


 目的は理解できないけれども、アルゴという人物がこの金属板を介して、こちら側に語りかけてきている。おそらく、僕の声までは聞こえていないけど、僕の存在は認識している――といったところだろうか。


 唇をなぞったナージェは、慎重に答えた。


「私はナージェよ。もしかして、私が一人でいるこの部屋で語りかけているイェンの声が聞こえるの? 教えてちょうだい」


 答えは、『否』だった。

 よかった。声は聞こえていなかったようだ。


『ダガ、電磁波ノ乱ミダレカラ、不可視ナ生命体ガ存在シテイル可能性ハ、ゼロデハナイ。旅人ニハ、コノ街デハ考エラレナイ事ガデキル』


「そう。なんなら、イェンの声をきかせてあげようか?」


 ――え、それって、僕を解き放ってくれるってことだよね。やったぁ。


 僕の喜びの声に、ナージェは眉間にしわを寄せる。


 返事はなかった。

 それどころか、しばらく待っても文字は浮かび上がってこなかった。


 ――ねぇ、だんまり、かな。


「みたいね」


 サイドテーブルに金属板を戻して、ナージェは横になった。


 ――ナージェは、どう思う? 僕の存在がバレるなんて、今まで一度だってなかったよ。


「明日にしよう。もう、疲れた」


 あくび混じりの声も、愛らしい。本当にナージェほど、愛らしい少女はいない。


 ――おやすみ、ナージェ。よい夢を。


 返事はいつものようにない。


 アルゴと名乗ったやつは、どこで僕らを監視しているのだろう。もしかして、僕と同じように姿が見えない存在なのだろうか。

 やはり、得体が知れない。

 それでも、名前がわかったからか、恐ろしくはなかった。


『まずは名前をつけてあげるよ。そうだなぁ、イェン。イェンはどうだい? 君の鳴き声によく似ている』


 僕がイェンという名前をもらった時に、ようやく僕は僕になれたんだ。名前には、まじないにも負けない力があると、彼が教えてくれた。


 友達のことを思うだけで、僕は今でも寂しくない。


 宇宙を眺めていると、時間の流れすら飲みこんでしまうらしい。

 気がつけば、エルドラドで四日目の朝を迎えていた。もちろん、偽空らしい偽空すらないこの街では、外の自然の景色で朝を判別できない。

 朝だと告げてくれるのは、バカ女の侵入だ。


 ――ナージェ、起きて。お願いだから、起きて。


「ぅ、ん」


 今日はなんとかバカ女よりも先に、ナージェを起こすことに成功した。


「おはよ、ナージェちゃん。今日の寝顔もかわいいね」


「おはよございます、マナさん」


 初日に出会ったときのように、バカ女のだらしないおっぱいはタンプトップの脇からはみ出している。

 昨日一昨日は、一応髪にブラシを入れてから侵入していたはずなのに、今日はまるで寝起きのままのようじゃないか。まったく、だらしがないにもほどがある。

 ボサボサに広がった髪をガシガシかきながら、バカ女は困った顔をした。


「今日も、ナージェちゃんとお出かけするはずだったんだけどさ、ちょっとトラブルがあって……ごめんっ、今日も一人で過ごしてくれないかな。夜はまたあのレストランに連れて行ってあげるからさぁ」


 そこは頭を下げるんだよ、バカ女。なんで抱きしめているんだよ、バカ女。だらしないおっぱいをナージェに押し当てるなよ。ナージェも、突き飛ばしちゃえよ。なんか、ちょっと嬉しそうな顔とかするなよ。

 だらしないおっぱいから解放されたナージェは、グシャグシャにかき回された髪を手ぐしで整える。


「わかった。あの、マナさん、一つだけ教えてほしいんだけど……」


「ん? なになに、ご飯食べながら答えるよ」


 そう言われてみれば、リビングから美味しそうな匂いがする。


「うん。アルゴって誰?」


 バカ女のだらしない笑顔がこわばった。

 激しい動揺を、必死になって冷静に処理しようとしているのが、しっかり伝わってくる。


「なんで、アルゴを知っているの?」


 バカ女の声までこわばっていた。

 金属板を手にとって、ナージェは昨夜の出来事を手短に伝えた。つまり、不可視な僕の存在もバカ女に教えたんだ。

 もう、バカ女は笑っていない。代わりにその顔に浮かんできたのは、険しさ。


「そう、だから……そう……」


 独り言のようにつぶやいたバカ女は、棺が置いてある窓辺の僕の方を見てくる。


「ナージェちゃん、そのイェンってお友達にも詳しく話を聞かせてもらいたんだけど、できるかな」


「イェンを解き放てば実体化できるから、話もできるけど……私が何を言っているのか教えてあげるほうがいいと思う」


 ナージェはおそらく、僕の醜い姿をバカ女に見せるのが嫌なのだろう。けれども、バカ女はだらしないおっぱいを揺らしながら、勢いよく頭を下げてきた。


「見えない存在をアルゴが認識したってことを、証明したいから、お願い。本当にお願いっ」


「イェン、どうする?」


 ――僕は別にいいよ。だって、ご褒美もらえるし。


 そんなに嫌そうな顔しないでよ。傷つくから。


「いいって言ってる。じゃあ……」


「あ、ちょっと待って」


 立ち上がったナージェを、バカ女が慌てて止める。


「朝ごはん食べてからにしよう。アルゴを見せるとなると、ちょっと準備がいるし、それに……うん、とにかく、お腹空いているでしょ、ごはんにしよう」


「うん、わかった」


 よしと首を縦に振ったバカ女は、あっと声を上げて僕の方を見てきた。


「イェン……くんは、何か食べるのかな?」


 ――お前の命を食べたい。


「大丈夫、イェンはな食事なんかしないから」


 その棘のある口調、傷つくなぁ。


 棺を運んだリビングでの朝食は、騒々しくなった。

 黙々とナージェが食事をする中、バカ女はまだ寝ていた弟とを叩き起こしたり、叩き起こされた弟が興奮して、食事中のナージェに詳しく話を求めたり……などなど、騒々しいにもほどがあった。

 アルゴってやつは、いったいどんなやつなんだろうか。騒々しくナージェに何度も昨夜のことを尋ねてくるけど、姉弟はなかなかアルゴのことを話そうとしなかった。ナージェが朝食のサンドイッチを食べ終わる頃に、ようやく姉弟は満足したようだ。


「ところで、イェンくんって人間じゃないんだよね」


「じゃないかな。私もよく知らない」


 ――ナージェ、そりゃないよぉ。


 マギの質問に答えるナージェの声が、やけに冷たく僕の心に響いた。もしかして、バカ女の命を食べるって冗談を、まだ怒っているのかな。

 何がともあれ、ナージェの食事は終わった。姉弟は、あのレストランの飲み物と同じようなものを飲んだだけだ。バカ女は準備してくると、さっきどこかへ行ってしまった。


「さて、ナージェちゃんもしっかり食べたことだし、アルゴを紹介するよ」


 いったい、いつから弟もナージェに馴れ馴れしくちゃん付けするようになったんだろう。


 ついてきてと言ったマギは、緑色の壁に手を触れた。姿を表した通路の向こうに、アルゴってやつがいるのか。


「先に言っておくけど、アルゴはすごいんだ」


 棺を背負って歩くナージェを何度か振り返りながら、マギは嬉しそうに鼻の頭をこする。


「アルゴが、この街は変わる。反体制派だって、機械を認めるさ。そのくらいアルゴはすごいんだ」


 というのは、奇妙な言い回しだ。それに、なんだかもったいつけるような言い方もしている。そういえば、昨日車の中で同じようなことを言っていたような気がする。

 案内されたのは、なんだかとてもゴチャゴチャした部屋だった。

 額の汗をぬぐったバカ女が笑顔で出迎える。


「おまたせ、ナージェちゃん」


 黒っぽい四角の機械が、無数の配線で繋がっている。床を埋め尽くすような配線のせいで、足の踏み場もないくらいだ。

 ゴチャゴチャした部屋にいたのは、バカ女だけだ。アルゴらしき人物は、どこにもいない。ナージェも不思議そうな顔でキョロキョロしている。

 得意げに腰に手を当てて、だらしないおっぱいを突き出す。もしかしたら、胸をそらしたつもりかもしれないけど。


「聞いて驚いてね。この部屋の機械がアルゴなの」


 ――は?


 意味がわからない。

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