機械と人間
空の名前を冠するレストランから戻ってきても、ナージェは作り物の笑顔を続けていた。
仲のいい姉弟の会話に耳を傾けていたときも、思い出したように話を振られたときも、ナージェはずっと笑っていた。笑うしかなかったのだろう。
彼女は気がついてしまったのだから。偽りの空の天井の下で、同じテーブルを囲んでいた姉弟が、本物の空を必要としていないことに。
本当は、そうとう動揺しているはずだ。今まで、よく気がつかなかったと、僕は呆れてしまうよ。
そうだよ、ナージェ。もう、ずっとずっと前から、みんな本物の空なんて必要としていないんだよ。
いいねぇ、いいねぇ、必死で動揺を隠そうとしている、その顔。僕だけが、わかる。今、ものすごく目の前の二人に言いたいんだろう。空を取り戻したいんだって。言えるわけがないよね。だってナージェは、今まで一度も、空を取り戻すことがどういうことか、考えなかったんだから。考えられなかったのか、考えたくなかったのかは、このさいどうでもいいんだ。
元通りになると思ったら、大間違いだよ、ナージェ。
空を取り戻したら、当然存在しなかったこの街は消えてしまうよ。もちろん、あのバカ女だってさ。
――ダハハハハハァ。
思わずナージェにだけに聞こえる声で笑っていたら、棺に枕が飛んできた。
「……うるさい」
――ごめん、ナージェ。黙る。
ジトッとした目で、棺をにらんだ彼女はごろりと寝返りをうって背中を向ける。
危なかった。余計なことまで口にしていないかってヒヤヒヤしたけど、大丈夫だったみたい。
ナージェが、作り物の笑顔を浮かべて、テーブルの下で何度も拳を握りしめては開いていた姿を思い出すだけで興奮する。長い間、影王を殺して空を取り戻す目的に、彼女は根拠もすがりついていた。無理もない。僕が根拠なき目的を与えなかったら、彼女はとうに絶望の中で死んでいただろう。自分が犯した罪にも気づかないまま。そんなこと、僕は許さない。
大好きなナージェには、自分の罪に気がついてもらって、絶望の中で
ナージェはもう夢の中だろうか。それとも、今日の迷いのせいで、眠れなかったりするんだろうか。
眠ることを知らない僕には、わからない。けれども、大好きなナージェの苦悩を想像するだけで、ゾクゾクするよ。
もうすぐ、旅が終わる。地球の解けた大地も変容している。終わらせなきゃ。僕の大切な友達のために。
イデンシがなんなのか、僕にはわからない。空を知らない世代の人間たちが、懐かしいと感じるほど、空は大いなる存在だったのだ。大きなる空は、もう戻らない。
偽空の宇宙に通じる大穴の壁面に積み上げられた街でも、夜はある。どんな街でも、住人たちが寝静まる時間帯は、夜と呼ばれていた。よくよく考えれば、太陽が沈むことも夜の空も知らないのに、休息する時間を夜と呼ぶのは奇妙な話だ。あの姉弟が話をしていたとおり、空を知らない人間たちも、夜空の記憶が刻まれているのかもしれない。
大穴の底に見える宇宙は、僕すらも引きずりこみそうなほど深くて暗い。星の渦は綺麗だけど、どこか冷たい。
ぼんやりと宇宙を眺めているうちに、僕自身がナージェを絶望に引きずりこむ宇宙のようだと、なんだか変な気分になってきた。
そういえば、以前来たときに宇宙に魅入られた人間は気が狂うとか言われていたっけ。今はどうかしらないけど、あながち根も葉もない話ではなかったかもしれない。
夜の終わりの朝は、昨日と同じようにバカ女が侵入してきた。
――ナージェ、ナージェ、起きて。朝だよ。起きて!
バカ女の手がもうそこまでせまっているのに、ナージェはまだ夢の中だ。
「ナージェちゃんの寝顔、かわいいなぁ」
――死ね!
そのだらしなく揺れるおっぱいで、ナージェに近づくな。
「ぅん……あ、マナさん、おはよ」
「おはよっ、ナージェちゃんは今日もかわいいなぁ」
「ありがとうございます」
――ナージェ、そこはお礼なんか必要ないって。
わかっていたけど、ナージェは僕の訴えを無視する。
朝食が冷めないうちにとリビングへと、ナージェは連れて行かれてしまった。
部屋くらい僕もついていけるけど、待つことにした。バカ女と一緒に過ごす時間は、少ないほうがいい。
サイドテーブルの上には、昨日の金属板がそのまま置いてある。
『君タチハ、誰ダ?』
あれはなんだったんだろう。
もしかしたら、映像の一部だったかもしれない。一晩たって振り返ると、被害妄想に陥ってた自分が滑稽でしかたない。ただの機械に、僕のなにがわかるというのだろう。
――ふん、バカバカしいや。
真っ黒な光沢は、なぜか宇宙の闇を思い出す。まったく似ても似つかないというのに。
まだこの金属板を恐れているのだと、思い知った。無機質な機械だと、わかっているのに。だからこそ、不気味で得体の知れない恐ろしさがある。
そういえば、この街では機械にも権利と義務を与えているんだっけか。機械人形を傷つければ、人間を傷つけたのも同然ってやつ。変な話だと思ったけど、今は得体の知れない不気味さがある。機械は道具だ。使い手次第で、大抵のもので誰かを傷つけられる。命すら簡単に奪える。そう、使い手に権利や義務があるのが普通ではないか。
考えてもしかたないかもしれないけど、考え続けないと、得体の知れない恐怖からまた被害妄想におちいりそうだった。
ナージェが戻ってきたとき、バカ女は一緒にいなかった。それだけでも、ほっと一安心だ。僕の神経がもたない。
「戻ったわよ、イェン」
――おかえ……どうしたの、ナージェ?
「ん?」
首を傾げるナージェの真っ白な髪に、ワンピースの空色によく似た色の髪飾りがあった。
――いや、だから、その髪飾り!
「ああ、カチューシャって名前らしいわ。マナさんにもらったの」
前髪を後ろになでつける髪飾りに手をやりながら、ナージェははにかむ。かわいいじゃないか。美しいナージェに、余計な飾りなど必要ないと思っていたけど、考えを改めるべきかも。バカ女が与えたというのが、気に入らないけど。
僕が悶ているうちに、ナージェは棺を背負った。
「行くよ」
――どこに?
「さぁ? マナさんたちが、私を連れていきたい場所があるんだって」
ナージェは、もう昨日の得体の知れない文字のことを忘れているようだ。それは別にいのだけど、昨日の作り笑いはなくなっていた。おかしいな、昨夜の彼女はたしかに目的を見失いかけていたはずなのに。
まぁいいや、一度生じた迷いはそう簡単に消えやしない。消える前に、僕が揺さぶってあげればいい。
また今日も、あの車に乗りこんで、没個性的な車の奔流にのった。
バカ女は、今日もあいかわらずいやらしいおっぱいを見せつけてくる。
そういえばと、向かいに座っているマギが鼻の頭をこすった。
「そういえば、車に慣れたみたいだな。最初は、まじで焦ったんだぜ、真っ青になってたからな」
「……すっかり忘れていたわ」
ナージェらしい。身体的に辛いことや苦しいことは、すぐに忘れてしまう。そうでもしなければ、旅を続けられないというのもあるだろうけど。
他愛もない会話が続く。夕べのように、姉弟だけで会話に花を咲かせることもなかった。この街の住人にしか伝わらない話はやめようと決めたのかもしれない。
姉弟は、ナージェが旅をしてきた他の街のことも知りたがっていた。当たり障りのない言葉を選んで、彼女なりに面白おかしく旅の話をした。今までなら、どんなに親しくなった人にも旅の話はしないはずだったのに。やはり、昨日の迷いの影響があるのかもしれない。
僕は、他愛もない会話ならと耳をかたむけながら、外を眺めていた。車、車、車、車ばかりでつまらない景色だけど、つまらない景色には慣れている。
流れているのか、流されているのか、流されているのは車か、乗っている人間か……。
この街は、宇宙のように得体が知れない。
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