被害妄想
あれはいったい何だったんだろうか。
実体化していない僕は、ナージェでも声しか認識できないはずなのに、あれはいったいなんだったんだ。
『君タチハ、誰ダ?』
まるで、僕がナージェと一緒にのぞき込んでいたのを、知っているような短い文章。
個室ということもあって、ナージェは声を出して僕に話しかけていた。だとしても、この部屋に複数人いるのを知っているというあの文章はなんなんだ。
こんなに、恐ろしい思いをしたことなんてなかった。僕は醜い異形で、誰かを震え上がらせることはよくあるけど、僕が震え上がることはなかった。
『君タチハ、誰ダ?』
これは、僕の勝手な被害妄想かもしれない。
でも、醜い僕がナージェの隣りにいるのはふさわしくないと責められているような気分だ。最悪だ。僕がナージェの隣にふさわしくないことくらい、わかっている。でも、大好きなんだ。大好きなんだよ。あの顔を絶望に染めてやりたいくらい、大好きなんだよ。こんなの被害妄想だとわかっている。でも、醜い僕が、歪んだ想いを抱えて美しいナージェの側にいることに、どうしても劣等感や罪悪感が消えないんだ。それは、ナージェと旅をし始めた頃から、消えることのない劣等感と罪悪感なんだ。
ナージェはあらからずっと一人で映像を眺めている。あのゾッとする文字が現れる前と同じように楽しんでいるようだ。ただ、あれから僕に声をかけてこなかった。
きっと、彼女はなんとも思っていないに違いないんだ。
僕だけが、きっとあの文章に怯えている。
気のせいだ。あれが、僕らのことを指しているとは限らない。だいたい、映像だって、僕らを認識しているわけじゃない。本に書かれた物語や、語り部が群衆に語る物語と同じで、不特定多数の誰かに見せるために作られた映像だ。
わかっているんだ。わかっているのに、僕は、僕は……
ガタンっ
――え、なになにっ?
ナージェが棺を強く蹴った音に、必要以上に驚いてしまった。
タタッタ、タタ、タッタタ……
今度はリズムを刻みながら、棺を蹴っている。
金属板に視線を落としたまま、ナージェはぶすっと頬を膨らませながら、繰り返し蹴り続けている。
すぐにわからなかったけど、それはナージェが声を出して僕に話しかけられない時の意思疎通の方法だった。
『返事しろ』って、僕に話しかけていたらしい。
――なになに? 何かあったの、ナージェ。
ナージェが蹴るパターンが変わる。
ベッドサイドテーブルには彼女が食事したプレートが置いてあった。まだそんなに時間がたっていないと思っていたけど、実際にはそうとうたっていたらしい。
『夕食は、外でって二人に誘われているけど、どうするの?』
――ついていく。
僕は迷わなかった。あんな文字がなかったら、一人でナージェの帰りを待っていた。でも、今の僕は、一人きりなんて耐えられない。
あのバカ女に腹を立てている方が、ずっとマシだ。
短い蹴る音が返ってきた。
『わかった』
もしかしたら、彼女もあの文字を見過ごせなかったのかもしれない。
ようやく、ナージェの手元にある金属板の映像の声が聞こえてきた。ずっと聞こえていたはずなのに、周りのことがまったくわからないくらい混乱していたのだと、思い知らされた。
『さぁて、今日のお勉強はここまで』
『はぁい! エルドちゃん、やっぱりこの街はすごいね。人口が増加しているのも、当たり前なことだったんだね』
『これからもぉっと、もぉっと、エルドラドは素敵な街になるように、みんなで頑張ろうね!!』
でも、あの陽気なコンビは、不気味な存在に変わっていた。僕の被害妄想のせいで、受け止め方が変わってしまっただけだってわかっている。でも、わかっていても、どうしようもないこともあるんだ。
ナージェが、黒い棺を持っていくと言ったときの、バカ女の顔をぶちのめしてやりたかった。
「大事な物ってのはわかるけどさぁ。ここにおいていったほうが、邪魔にならないし、セキュリティもしっかりしているから、安心なんだけどなぁ」
――お前が言うと、壊されそうで心配だよ!!
また、ナージェに後頭部で叩かれた。
――はいはい、黙りますよぉ。
本当に腹立つ。
外に出かけるからか、さすがにだらしない格好はしていなかった。体をピッチリと覆う赤いノースリーブのシャツは、だらしないおっぱいを、寄せてあげていやらしいおっぱいにしていた。袖口が広がっている黒い上着を羽織っているけど、前を閉めていないから、いやらしいおっぱいを見せつけているみたいだ。だらしないおっぱいに顔を埋めるナージェを見るのも嫌だったけど、いやらしいおっぱいも腹が立つ。いやらしいといえば、むっちりとした太ももを見せつけるような黒いホットパンツもだ。いやらしさの塊のようなバカ女が、ナージェとくっついているのが、本当に腹立つ。手も足も出ないのが、本当に悔しい。
そんな姉に比べて、弟のマギは昨日と同じ服だ。ブカブカのセーターを着て、眠そうな目で姉を見上げる。
「早く行くよ。僕、お腹空いているんだからさ」
「あ、ナージェちゃんもお腹空いているよね。ごめん、行こっか」
「うん」
いちいち手を繋がなくてもいいじゃないか。おい、弟、止めろよな。
玄関の前には、昨日の車が止まっていた。昨日と違ったのは、ナージェの隣にいやらしいバカ女がいたことだけだ。それだけなのに、本当に腹立つ。
見えない僕の気持ちなんか無視して、ナージェは姉弟と会話を弾ませている。しかたなく窓の外を見るけど、景色は昨日とまったく同じで退屈だ。
「ナージェちゃんのために、三日分の課題を片付けたら、これからは思いっきりナージェちゃんと自由を満喫するぞぉ」
「姉ちゃん、うるさい」
「可愛くない弟でごめんね。こいつ、ナージェちゃんが可愛いすぎて、声もかけれないやつだって、許してやって、ね」
「ちげーし」
「うん、わかった」
ナージェがニッコリ笑ったのは、本当に久しぶりだった。というか、今のわかったはどっちに対してのわかっただったんだろうか。
「ところで、ご両親は? 二人であの家に暮らしているの?」
「親なんていない」
彼女の素朴な疑問に答えたのは、意外にもマギの方だった。その声には、親がいない子どもの淋しさや悲しさといったものはなかった。ただ事実を言っただけで、強がりも何もない声だった。余計なことを聞いてしまったかもしれないと、ナージェは顔を曇らせた。そんな彼女に、バカ女は慌ててわざとらしく笑う。
「あたしたちの親は、マギが物心つく前に事故で死んだんだ。でも、この街では子どもを育てる施設に預ける親が多いから、気にしなくていいよ。そのほうが、効率がいいってことでさ。親のことなんて気にする子どもなんて、少ないから」
「そう、なの」
それは、とても奇妙なことに聞こえた。親が子どもを育てないことも、親を気にしないことも。
――親は、子どもを気にしないか、訊いてみてよ。
ナージェは小さく首を縦に振った。
「子どもを預けた親は? 自分が産んだ子どもに愛情はないの?」
「どうなんだろね。あたしはまだ適齢期じゃないから、わからないけど……子どもへの愛着とか、実感わかないなぁ。そもそも、結婚とかも、ねぇ。ナージェちゃんは、どうなの? 結婚とか、子どもとか、想像できる?」
マナの答えと問いに、ナージェは眉をひそめた。
「そう、ね。たしかに、そうかも」
「でしょでしょ。ま、とにかく、この街じゃ、親がいないのは常識なんだよ」
「そう……」
街が変われば、常識も変わる。それが、空が落ちて大地がばらばらに解けてからの常識だ。
ナージェは、親の愛情を与えられずに育った。だからこそ、彼女は親の愛情にこがれていることを知っている。彼女の口から聞かなくても、彼女が親子のほほえましい光景をうらやましそうに見ていた。
「ま、そんなことより、美味しいもの食べようよ。ナージェちゃんのワンピースで、決めたレストランなんだ。気に入ってくれると嬉しいなぁ」
「え?」
ムフッてナージェにいやらしいおっぱいを押しつけるなよ、バカ女。
外の景色は、車、車、車で、退屈だ。
車の中は中で、弟のマギがバカ女に好き勝手させているから、騒々しいし腹が立つ。
けれども、おかげで被害妄想から抜け出すことができた。
「ナージェちゃん、ほんと可愛いから、抱きしめたくなっちゃうのぉ」
バカ女さえいなければ、もっとマシなのに。
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