君タチハ、誰ダ?

 エルドラドは、昼と夜がわかりづらい。偽空によっては、一日中真っ暗という街もあるから、そんなに珍しいことじゃない。そういう街は、時計とかを使って、どうにか時間を計って昼と夜を作っている。人間には、起きている時間と寝ている時間がはっきりしていたほうが、健やかに生きられるようだ。そうでない街は、それだけで最悪だった。


 エルドラドの二日目の朝は、息を潜めてきた人影から始まった。


 ――あんのバカ女!!


 昨日と同じだらしないかっこうのバカ女が、すやすやと眠るナージェに忍び寄る。


 ――そんないやらしい顔やめろよ! ナージェ、ナージェ、起きて! 起きてぇええええええ!!


 ナージェが汚される。あのバカ女に汚される。


 ――ナージェ、ねぇナージェ!! ナージェったらぁあああああ!!


「むふふふ、可愛い寝顔。食べちゃいたいなぁ」


 ――今、よだれ飲みこんだだろ! いやらしい目で見るなよ、バカ女。


 僕の声は、バカ女に届かない。わかっているけど、叫ばずにはいられない。


「ぅ……ん」


「あ、おはよう、ナージェちゃん」


 ――あ、おはよう、じゃないよ!! あ、ナージェ、聞いて聞いて、このバカ女が……


 ナージェは、枕を棺に投げつけてきた。


「おはようございます、マナさん」


「きゃーっ!! 眠そうな声も、きゃわいい! 抱きしめていい? いいよね、ね」


 ムギュって音が聞こえてきそうなほど、バカ女はがっしりとナージェを抱きしめる。


「もう、抱きしめてるじゃない」


「だってぇ、かわいいんだもぉん」


 ――ナージェ、そこは抵抗しようよ。おとなしくしていることないから。


 ナージェは僕の声が聞こえているはずなのに、聞いてくれない。バカ女の気がすむまで、抱きしめられる必要なんてないのに。


「朝ごはん、できてるから着替えてきてね。あ、ナージェちゃんがよかったら、あたしがお着替え手伝ってあげるぅ」


 ――死ね!!


 だらしないおっぱいから解放したと思ったら、図々しいにもほどがある。ナージェは乱れた髪を押さえながら、バカ女に笑いかけた。


「うん、一人で着替えたいから、ごめん、マナさん」


 ――そこは、ごめんとか必要ないから!


 バカ女が出ていった途端、ナージェはベッドから降りてきて棺をドカドカと蹴りつけてきた。


「イェン、うるさい」


 ――うるさいって、ナージェ。あのバカ女が……


「君は嫌いかもしれないけど、私はマナさん、嫌いじゃないから」


 ――蹴らないでよ。棺は大事にしてって。え、嫌いじゃないって……


「フン。このくらいにしておいてあげるから、静かにしてよね。もし、また騒いだら、別の部屋の物入れに棺を放りこむから」


 ――わかりました、静かにします。


 手も足も出ない僕は、ナージェを怒らせないように理不尽な要求ものまなきゃいけない。

 いつもの水色のワンピースに着替えるナージェを眺めながら、まだ信じられないでいる。あんなバカ女のどこがいいんだよ。うざいし、おっぱいがだらしないし、うるさいし、馴れ馴れしいし、どこがいいんだよ。人として終わってるよ。

 着替えたナージェは、やれやれと肩をすくめた。


「私も最初は馴れ馴れしいと思ったけど、マナさんに抱きしめてもらうと、思い出すの。ユートピアで私のことをよく抱きしめてくれた人のことをね」


 ――ナージェ、それ卑怯だよ。そんなこと言われたら、怒れないじゃないか。


 いたずらっぽく唇を吊り上げたナージェは、ひらひら手を振りながら、出ていった。


 ナージェは、聖女として育てられたのだから、母親はいても人並みに愛情は与えられなかった。彼女にとって、母親代わりになっていた人がいたのだろうか。まさか、あんなだらしないやつじゃなかったと思いたいけど、わからない。


 ――しかたない、か。


 しかたないから、僕は我慢するしかない。楽しそうな笑い声がリビングから聞こえてきても、怒りや嫉妬をぐっとこらえるしかないんだ。

 なんて不自由なんだろう。この気持すら、思うようにならない。


 ――でも、ナージェが自分の罪に気がつくまでは、不自由なままのほうがいいんだ。


 宇宙を眺めて、極力リビングの方を気にしないようにする。僕にできるのは、そのくらいだ。

 ナージェが戻ってくるまで、それほど時間はかからなかった。


「戻ったわ」


 思わず身構えてしまったけど、戻ってきたのはナージェ一人だった。


 ――バカ女は?


 何やら両手で抱えているナージェは、呆れたように息をつく。


「嫌いなのに、気になるの?」


 ――そりゃあ、ナージェと二人きりのほうがいいに決まってるよ。ただ確認しただけ。


「そう。なら安心したら。あの二人、学生で今日は私の相手をしている時間がないそうよ」


 ――へぇ。で、それはなに? さっきから、なにしているの?


 昨日、車の中でマギの指が踊っていた金属板の大きなもので、彼女も同じように指先を踊らせていた。椅子を窓際の棺のそばまで引いて腰を下ろした。


「二人とも、私の相手ができないから、これを貸してくれたの。イェンも一緒に見ましょう。これで、知りたいことがわかるらしいから」


 ――一緒に……むふふふふ


 実は、もうナージェの隣からのぞき込んでいるんだけど、一緒にと言われて嬉しくないわけがない。興奮する。

 ナージェは、あらかじめ使い方を教えてもらったらしい。


「えっと、たしか、これを……あ、始まったわ」


 ――え、なにが始まるの?


 ナージェが答えるよりも先に、金属板の左右から変な帽子をかぶった女の子のイラストがピョコッと現れた。


『はいはーい! 階層都市エルドラドのマスコットキャラクターのエルドちゃんと……』


『ラドちゃんです』


 赤い帽子がエルドちゃんで、緑の帽子がラドちゃん、ってことらしい。


『さて、今日は、エルドラドの仕組みについて、お勉強するよ』


『わーい』


 エルドちゃんが先生役で、ラドちゃんが生徒役、ってことらしい。それはなんとなくわかったけど、戸惑いは消えない。


 ――なにこれ?


「教育プログラムって、言ってた気がする。とにかく、これでこの街の仕組みがわかるって、マナさんが言っていたの」


 なんだか不安になってきた。


『じゃあ、まずは階層について。階層ってなんだか、知っているよね? ラドちゃん』


『かいそう? うん、知ってるよ。は、お店の中とかを作り変えるやつです』


『そうそう……って、ちが~う』


 バカバカしいくらいテンション高い映像が、だんだん癖になってきた。特に、ラドちゃん、かわいい。おバカだけど、なんだかそれがいい。


 不安なんて、いつか忘れていた。


 移民の増加とともに、増えてきた居住可能な階層の数。最下層は資源を取り尽くせば、廃棄階層と呼ばれ廃墟となる。現在は、第1756階層から第1876階層までが居住可能で、さらに2階層を同時に開拓中などなど……。

 面白おかしく、コミカルなコンビが教えてくれた。めずらしく、ナージェは声に出して笑ったりしてくれたから、少しだけならバカ女に感謝してもいいかもしれない。


『ラドちゃん、ラドちゃん、だからそれ……』


 なんの前触れもなく、金属板から映像が消えて、黒一色に塗りつぶされた。


 ――壊れたの?


「……かもしれない」


 首をかしげたナージェが裏返したらり、何度も指を踊らせたりしたけど、真っ黒になったままだ。


「叩けば、動くかしら」


 ――ダメ! さすがにダメだよ。下手したら、割れちゃうかもしれない。薄っぺらいからね。


 危なかった。僕が止めなかったら、ナージェは金属板を床に叩きつけていたに違いない。


 ――貸してくれたバカ女に、相談してみたら?


「マナさん、ね。そうね、そうするしか……なに、これ?」


 ナージェが戸惑うのも無理はなかった。真っ黒だった金属板の表面には、白い文字が浮かび上がっていた。


『君タチハ、誰ダ?』


 たったそれだけの短い文章に、僕は恐怖を覚えた。


 実体化していない僕に、誰か気がついたのだろうか。いったいこれは、どういう意味なんだ。どうして、なんだ。


 ゾッとする文字は、突然消えた。


『……それは、違うって、さっきから言っているでしょ』


 何事もなかったかのように、コミカルなコンビの映像の続きが始まった。


 けれども、僕はしっかりとさっきの文章が刻みこまれてしまった。

 なんで、なんで、なんだ。

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