姉と弟
マギに続いてナージェが車から降りるのを待ち構えていたようなタイミングで、勢いよく赤い髪の女が飛び出してきた。若い女は、眼鏡の奥で赤い目を輝かせてナージェを抱きしめた。
「きゃぁあああああ、かわぁいぃいいいいいい」
ブカブカのセーターを着たマギとは違って、その女は白のタンクトップに黒のホットパンツだけだ。タンクトップの脇からはみ出すおっぱいがだらしない。女は、よく揺れるおっぱいにナージェの顔を埋めて一人で悶ている。
「やだやだやだぁ、こんなにかわいい子だって知ってたら、マギに迎えに行かせなかったのにぃ。女の子っていいわぁ。あたしもこんな妹がいたら、毎日ちょーハッピーなのにぃいいい」
なにこの女、殺意しかわかないんだけど。
――ナージェ、ナージェ、早く僕を解き放ってよ。このバカ女ごと、十階層分更地にしてやるから!!
まだ車の中に置き去りにされている棺に、ナージェは目もくれない。というか、顔色を変えずにバカ女のいいようにさせている。
――ナージェ、ナージェ!! ねぇ、ナージェ!!
僕の思いが通じたわけじゃないだろうけど、マギが舌打ちをした。
「姉ちゃん、いい加減にしろよ。そんな格好に外に出てるのバレたら、どうするんだよ」
「えー、いいじゃん、ちょっとくらいぃ。ねぇ、そう思うでしょ、えーっと……名前、なんだっけ?」
ナージェは、やっとだらしないおっぱいから解放された。とはいえ、バカ女の手はまだナージェの背中に回されたままで、完全に解放されたわけじゃない。油断はできない状況だ。それでも、僕は何もできない。ナージェに実体化してもらわない限り、僕は文字通り手も足も出ないんだ。
「ナージェ。君は?」
「ナージェ!! しかも、君!! 超絶美少女に君って呼ばれた。あー、死ねる」
――死ね。
まだ興奮しているバカ女は、マナと名乗った。やはりマギの姉だったらしい。
呆れはてた弟のマギにうながされて、やっとナージェは家の中に入れてもらえた。あやうく棺を車の中に置き去りにされそうになったけど、ナージェに僕の存在を思い出してもらった。棺を外に出した途端に、車は勝手にどこかに行ってしまった。
顔が緩みっぱなしで、ナージェの背中に手を回したまま、マナは家の中を案内してくれるようだ。
「ささ、ナージェちゃん、我が家だと思って、遠慮しないでくつろいでね」
「いや、遠慮はしろよ」
マギはそれだけ言うと、さっさと自分の部屋かどこかに行ってしまった。いくら姉でも、このテンションにつきあいきれないらしい。
「バカ弟のことなんて、無視しちゃってねぇ。ナージェちゃん、可愛いからきっと気になってしかないだけだから」
ドカッと壁を蹴りつけたような音がしたけど、気のせいだろうか。
「えーっと、ここが、玄関」
「うん」
そのくらい誰だってわかる。内装は、外の緑よりも明るい緑の壁が、特徴的だった。あとは、なんだかよくわからない生物の置物とか、壁に飾られた絵がたくさんあった。
「申し訳ないけど、旅人さんだけで外出は禁止されているんだ。説明されたかもしれないけど」
「うん、聞いてるわ」
「そっかそっか、なら、外に出たいときは、あたしに声かけてね」
「うん」
玄関から伸びる短い廊下の向こうは、リビング。クッション性の高い茶色いカーペットと、緑の壁は、森でも意識しているんだろうか。そういえば、エルドラドは、植物がとても少なかった気がする。リビングにも置物がたくさん無造作に置かれていた。
リビングを囲む壁には、出入り口らしきものは一つもなかった。ナージェもそのことが気になったに違いない。キョロキョロとあたりを見渡している。そんな彼女の手を引いたマナは、右の壁に手を触れた。壁の一部が消えた。
「ナージェちゃんのお部屋はこちらでーすっ」
普段は使われていない部屋なのか、生活感がない部屋だった。
正面の壁に埋め込まれたベッドの他には、テーブルと椅子。それから、洋服ダンスが一つ。ほとんど緑の家の中で、洋服ダンスだけが黒かった。
「ま、もし居心地悪かったら、あたしの部屋で寝泊まりしてもらってもかまわないよ。というか、あたしはナージェちゃんと一緒に寝たいけどねー。あ、いやらしい意味じゃないよ。あたし、レズじゃないから。ただ、添い寝したいだけ」
――死ね。
窓際に棺をおろしたナージェに、なぜか棺を蹴られてしまった。
「ありがとう。あの、食事とかは?」
「まだディナーの時間には早いけど、お腹空いているの?」
「そうじゃないわ。ただ、どう過ごしたらいいのか、知りたいだけ」
だらしないおっぱいを見せつけるように、マナは身をかがめてナージェの顔をのぞき込んできた。
「ナージェちゃん、さすが。一人で旅をしているって、情報もらっていたけど、しっかりしているわぁ。大好きっ」
また抱きしめてきた。
どうして、ナージェは嫌がらないのだろうか。気のせいだろうけど、ナージェの口元が緩んでいるように見える。気のせいに決まっているけど。
それからまたリビングに連れて行かれたナージェは、マナからいろいろなことを教えてもらった。僕はバカ女の言動に耐えられなくて、部屋で待つことにした。神経が持たない。あの弟、よく耐えられるよな。
――あんなのと暮らしていたら、大変だろうなぁ。
ちょっとだけだけど、無愛想すぎて気に入らなかったマギに、同情してしまう。
小さな部屋には、窓があった。カーテンで閉ざされているけど、僕にはないも同然だ。窓は、大穴に面していた。見下ろせば、すぐに星が渦巻く闇に飲まれて底が見えない。見上げても宇宙しかない。
大穴の壁面にぐるりと積み重ねてきた街。積み重ねてきたのは、街だけでなく、移民のような重労働で酷使された命や、エルドラドの歴史もだ。
空が落ちてから、街ごとに時の流れにズレが生じていることに気がついたのは、いつのことだっただろうか。そう考えると、五日に一度必ず現れる渡り鳥は、いよいよ謎が深まる。
エルドラドにどれだけの時間が過ぎ去ったのだろうか。前回訪れたときよりも、進んだ機械文明には驚かされた。おそらく、百年では足りないだろう。そういや、四世代とかなんとか言ってたっけ。
――下の層がひどいのは、あいかわらずみたいだしなぁ。
変わらない部分もあるというのが、どこか滑稽だった。階層は、そこに住む人々のヒエラルキーそのもの。上に行けば行くほど、贅沢な暮らしができる。
窓の外を眺めていると、宇宙の闇に飲み込まれそうな気分になってきた。
部屋の外から、まだバカ女の声が聞こえてくる。ナージェが戻ってくるのは、もう少しあとのようだ。
――なんでナージェまで楽しそうなんだよ。
なんだか、憂鬱だった。
ナージェが戻ってきたのは、ずいぶん経ってからだった。話したいことはたくさんあったのに、彼女は疲れたとつぶやいてベッドに潜り込んでしまった。
おそらく、あのバカ女のせいで疲れてしまったのだろう。
――なんなんだよ、あのバカ女。ナージェも、もっと抵抗すればいいのに。
それこそ、
わからない。ナージェが何を考えていたのか、まったくわからない。もっと、ナージェのことを知りたい。知りたくてしかたがない。だって、僕はナージェが大好きなんだから。
大好きなナージェは、まだ自分の罪に気がついていない。
今夜も、気持ちよさそうに眠っている。
――夢って、どんなふうに見えるんだろう。
一人の時間は、嫌じゃない。僕は、友達に名前をつけてもらうまで、ずっと一人だったんだから。
待つことは嫌いじゃない。ナージェが自分の罪に気がつくその時を、ずっと一人で想像できる。
大好きなんだよ、ナージェ。
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