イェンの回想

青い空と、太陽と、

 病の床についていた男から、僕は生じた。男の妄執、怨念、憎悪……そういったものから、僕は生じたんだ。男は僕を生じさせたことで、起き上がることすらままならないほどに衰弱した。


「イェン、ェン……」


 今でも覚えているんだ。

 傷んだ白い髪をげっそり痩けた頬にはりつかせて、金色を狂おしくギラつかせていた男の顔に、白く乾ききった唇から絞り出された願いを。


「お前は……そうか、僕の……」


「ェン、ェン」


 僕は言葉もしゃべれなかったけど、男の願いをかなえてあげることにしたんだ。

 だって、僕は男の願いが生み出した異形なんだから。



 僕はイェン。

 僕には友達がいる。


「おいで。怖がらないで。こっちにおいでよ。君も寂しいんだろう」


 暗がりから連れ出してくれた声は、今でも胸に刻まれたままだ。


「イェエン、ェン」


「まずは名前をつけてあげるよ。そうだなぁ、イェン。イェンはどうだい? 君の鳴き声によく似ている」


 君が、僕をイェンにしてくれたんだ。

 君は天空に浮かぶ街ユートピアで、いろいろなことを教えてくれた。


 この世界の名前、空を飛ぶ鳥たちの名前、地上のひとつながりの大地の名前、そこにいる生き物たちの名前、海を泳ぐ魚の名前も、全部、彼が教えてくれた。


 あの頃の僕は、まだとても小さくて非力だった。

 それでも友達のかわりに、二対の歪な翼で教えてもらった名前の生き物たちを一つの目で確かめてきた。それは、楽しかった。まだ知らないものを見つけては、彼に名前を教えてもらったり、時には名前がわからなくて、一緒に新しい名前を考えたりもした。

 けれども、大好きな友達は自分の名前を教えてくれなかった。もちろん、僕は彼がなんて呼ばれているのか、知っていた。彼がその名前を嫌っていたことも。でも、そんなことは、ささいなことだった。僕には、彼しかいなかったから、『君』と呼べばことたりたんだ。

 なにより、それが僕を生じさせた男の願いだったんだから。



 そう、あのころ、『君』といえば、僕の友達のことだったんだ。



 空は、天空の街ユートピアから手を伸ばしても届かないほど高かった。

 君は、空の青さを手に入れようとして青い海に落ちた愚かな画家の話をしてくれたね。僕は、あの話があまり好きになれなかった。だって、だって、空を飛べば君もわかったはずだ。どんなに高く飛んでも届かないとわかっていながら、空に焦がれる気持ちが、僕にはわかった。だから、辛くて悲しくて、その話は好きになれなかった。

 君のかわりに、僕は本当にたくさんのものを見てきた。


 朝焼け色に染まる、万年雪を冠した峻険なる山々。

 海鳥が飛び交う断崖絶壁に砕ける荒波。

 その姿だけでなく、轟音にも圧倒された七色の虹をかける大瀑布。


 君は、嬉しそうに僕の話を聞いてくれた。あの頃はまだ舌足らずで、もどかしいこともあったけど。


「いつか、イェンと見てみたいな」


 金色こんじきの瞳を輝かせてそう言ってくれたときは、本当に嬉しかった。



 それは、よく晴れた日のことだった。


「ねぇねぇ、太陽がおかしいの。とっても、おかしいの」


 決して開くことのない窓の側に、君を無理やり連れてきたあの日。

 眩しい太陽の周りに光の輪があったんだ。それがなんだか珍しくて、きっと君も喜ぶと思ったんだ。君が、外の空気すら通してくれない窓を嫌っていたことも忘れていたんだ。


ハロだね。あんなふうに、太陽や月の周りに光の輪が発生する現象があるんだ」


ハロ! ハロって言うんだね。きれいだね、ハロ


「…………うん、そうだね」


 君の声には、いつもの元気がなかった。右手を太陽にかざした君の顔は、とても悲しそうだったんだ。


「何しているの?」


「別に……ただ、太陽がなくなても、ハロの光の輪だけでも、地球には充分なんじゃないかなって……ううん、やっぱり、なんでもない」


 手を下ろした君が無理をして笑顔を作ったことくらい、僕にだってわかってたんだよ。

 なんでそんなことを言うのか、訊いちゃいけない気がしたんだ。



 きっと、君には太陽が眩しすぎたんだね。



 今、ナージェは棺にもたれかかるようにして、ぐっすり眠っている。きっと、素敵な夢を見ているんだ。まだ、渡り鳥が次の街にたどり着くまで、ゆっくり夢を見ていればいい。

 その規則正しい寝息こぼす半開きの唇に、いやらしさを感じてしまう。僕はナージェが大好きだ。

 でも――



 君も、素敵な夢を見ているだろうか。そうであってほしいと、ふとした時に、願わずにいられないんだ。

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