子どものための街

 ナージェは、管理者との約束を守った。

 翌日の五日目は、彼女は子どもたちに囲まれて過ごした。とても平和的に、とても楽しそうに。

 広場で遊ぶ彼女を、僕は女の子の家の窓際から眺めていた。置き去りにされる不安よりも、苦手な子どもたちのそばにいなくていい心の平穏を選択した結果だった。掃除にやってくる白服たちは、正体を知ってしまえば少しも不気味じゃない。むしろ、子どもに戻るために自分の感情を殺して仕事をこなしていると思うと、どこか滑稽で哀れだった。


 とにかく、一人で考える時間が持て余すくらいあった。


 影王が空を落とした日から、いったいどれだけの歳月が過ぎ去ったのか。少しずつ、時の流れすら街ごとにズレが生じていることに気がついて、もうどのくらいたつのだろうか。もしかしたら、そのズレは百年くらい生じているかもしれない。


 ――意思を持つ街まであるし。もしかしたら、街の数も増えている可能性もあったんだよね。


 やれやれだ。これでは、キリがない。

 影王を探すなんて、無駄なことだ。大好きなナージェが自分の罪に気がつくまで、僕は気長に付き合うつもり。けれども、地球が変容しているのは、さすがにまずい。

 空が落ちてばらばらに解けた大地は、もう二度ともとには戻らない。たとえ、影王を殺して、空を取り戻したとしても。けれども、地球の変容は困る。僕の友達も変容してしまうかもしれない。世界すら変容しているんだら、僕を含めた住人たちが変容しないなんて、ありえないとは言い切れない。もしかしたら、気がつかないうちに――いや、まだ大丈夫。まだ大丈夫なはずだ。まだ、僕の目的は達成できる。目的のためなら、多少の変容くらい大丈夫だ。


 ――でも、さすがにナージェは、変わらないでほしいな。大好きなんだもん。


 実体化されていない頭を抱えてもしょうがない。なんなら、強制的に旅を終わらせてもいいんだ。あくまで、最終手段だけど。


 ――早く、ナージェが絶望する顔が見たいなぁ。


 でも、それは旅の終わりを意味している。




 五日に一度の渡り鳥の日、朝食を食べて戻ってきたナージェは、姿見の前で軽く髪を整える。そういうところは、実に女の子らしい。


 ――ようやく、この街ともお別れだね。


「そうね。ようやく、子どもたちから解放されるわ」


 オルグから預かったネックレスは、彼女のポケットに入ったままだ。


 ――オルグくんとは、まだ話していないの?


「これから、会う約束をしているわ」


 棺を背負ったナージェは、姿を消す呪いを唱えて快適な部屋を出て行く。


 彼女がオルグと待ち合わせていたのは、図書館の閲覧室だった。

 そこに行き着くまでに、彼女を探す子どもたちとすれ違ったのは、一度や二度ではなかった。

 彼女は街を出ていくことを、子どもたちに伝えていないようだ。


 狭い閲覧室で今か今かと待っていたオルグに、姿を表したナージェは頭を下げた。


「ごめんなさい。結局、時計塔にたどり着けなかったわ」


「そう、なんだ」


 肩を落としたオルグに、ナージェは木の実のネックレスを返す。


「いろいろ探ってみたんだけど、ね」


 戻ってきたネックレスをもてあそぶ彼は、ポツリと慕っていた女の子の名前をつぶやいた。

 彼が時計塔に呼ばれても、思いを寄せる女の子とはもう親しくできないだろう。


「空人の私が手をつくしても駄目だったんだから、うじうじ悩まずに時計塔に呼ばれるまで、子どもらしく遊んで暮らしなさいよ」


「……うん、そうだね。ありがとう」


 ぎこちなかったけど、初めてオルグが笑った。


「ナージェは、街を出ていくんだよね?」


「ええ。今日来る渡り鳥で出ていくわ。さようなら。


 オルグは息をのんで、閲覧室を出ていこうとしたナージェを慌てて呼び止める。


「待って! 待って、ナージェ。これ、持っていって」


「これを?」


 木の実のネックレスを押し付けられたナージェは、困惑している。


「うん。僕とシャナのかわりに旅をしてきてよ。それから……僕は、シャナの得意料理がポトフだなんて言っていないよ」


「あっ」


 失言に気がつかなかったのは、口を抑えたナージェだけじゃない。僕もだ。

 けど、オルグの顔は希望に輝いていた。


「なんで嘘をついたのか、なんでシャナがネックレスを受け取ってくれなかったのか、わからない。けど、僕はシャナにまた会える可能性があるなら、それでいいよ。うん、時計塔に呼ばれる日まで、精いっぱい遊んでやる」


「そ、そう。なら、よかった」


 じゃあねと、オルグは笑顔で閲覧室から送り出してくれた。

 時計塔に呼ばれた大人が、自分の感情を殺して、心を壊してしまっていることを、隠したままのナージェは、さぞかし後ろめたかっただろう。


「その名は、見えざるそよ風」


 ――なんだか、悪いことしちゃったみたいだね。


 ナージェはうつむいたまま誰にも気づかれずに、賑やかな図書館をあとにする。

 まだ、渡り鳥の翼の音は聞こえてこない。

 軌道から外れることのない真鍮の太陽が見下ろす広場を横切った彼女は、身体強化のまじないで食堂の屋根の上に飛び乗る。


「影王から空を取り戻せば、こんな歪んだ仕組みの街もなくなるのよ」


 ――そう、だね。


「私が、取り戻さなきゃいけない」


 もし、オルグとシャナがネバーランドの住人じゃなかったら、恋をして結ばれることもあったかもしれない。

 彼に笑顔を与えた希望は、ネバーランドでは絶望に変わるだけだ。


「イェン、どこに影王はいるの?」


 ――案外、近くにいるかもしれないよ。


「気休めにもならないわね。でも、ありがとう。渡り鳥も来たみたいよ」


 突如現れた渡り鳥に、ナージェは指笛を鳴らす。


 広場では、指笛と下降してくる渡り鳥の巨体に気がついた子どもたちが騒いでいる。


 ナージェは、嘴を大きく開いた渡り鳥とタイミングを合わせて、屋根を勢い良く蹴りつける。


 あれほど慕ってくれた子どもたちに別れを告げずにナージェは、渡り鳥の嘴の奥に飲み込まれた。

 数え切れないほどの街を旅してきた彼女も、やはり別れを告げるのが辛いときもあるのだろう。

 僕は、そう思った。

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