潜入

 ナージェに触れられる。それだけで、僕は幸せだった。

 長細い触手のような両手を硬化させて、彼女を優しく抱きしめる。


「ナージェ、僕にしっかりつかまっててね」


 待ちに待った至福の行為に、声がうわずってしまった。恥ずかしいな。

 腕の中の彼女はこくりとうなずくのがやっとみたいだ。悲しいことに、異形の僕の姿は、人間たちにとって怖れと嫌悪感をもたらすらしい。ナージェも例外ではなくて、腕の中で震えている。


「よいしょ、と。じゃあ、行こうか、ナージェ」


 窓を溶かして開けた穴から身を乗り出して、背中からドロリと伸ばした翼を硬化させる。二対の歪な翼は、渡り鳥どころかどんな生き物の翼にも似ていない。


 僕は、異形のイェン。唯一無二の存在なんだ。


 歪な翼で、女の子の家の赤い屋根よりも高く飛び上がる。


「イェン、時計塔に行く前に、この街を上から見下ろしたいわ」


「了解」


 僕はナージェを抱きかかえて、ハリボテの偽空を目指して舞い上がる。

 錫の月は、あいかわらず冷たく街を見下ろしている。


「その名は、見えざるそよ風」


 腕の中のナージェが唱えたまじないは、夜のネバーランドに溶けて消える。


 上昇していくと、ネバーランドの全景が見えてくる。


 レンガ造りの街並みは、噴水のある広場周辺のごく一部しかなかった。

 ネバーランドのほとんどは、錫の月の冷たい光に照らされた真っ白な平べったい積み木のような建造物が、規則正しく並んでいるだけだ。


「ねぇ、ナージェ、どう思う?」


「不気味ね」


 まるで、無機質で無個性な白い建造物は白服のようだ。不気味で生理的な嫌悪感に気分が悪くなる。


「それにナージェ、人がいない」


「有毒なガスや、オニが襲ってくるわけでもないのに……。イェン、君が言っていた白服もみんな寝ているのかしら?」


「そうかもしれない。でも、僕は感じるよ、かなりの人が動いている気配をさ」


 グリグリグルリとたった一つしかない目玉を回して、白い建造物と時計塔を観察する。


「とりあえず、もっと時計塔に近づいてみようか」


「そうね」


 チカ、チカ、チカ、チカ、チカ、チカ……


 規則正しくまたたく星たちは、こうして偽空に近づくと、はっきりと電球の明かりだとわかる。


「時計塔に近づけば、この街の大掛かりなカラクリの動力源がわかるかな」


「そう、ね。影王の手がかりがあれば、いいんだけど」


「もし、影王本人がいたら?」


「わかっているでしょう、そんなこと」


 僕は、笑った。大きな赤く濁った口を開けて、いつもと変わらないナージェが愛おしくて、笑った。

 大好きなナージェは僕の腕の中にいる。

 冷たい錫の月の光を浴びて、白金プラチナのように輝く髪に、きめ細かい美しい肌。傷一つない肌の肌越しで感じる熱量。ほんの少し腕に力をこめてしまえば、折れてしまいそうな体は、僕の宝物だ。


 大好きなナージェ。

 残念だけど、この街に影王はいないよ。


 時計塔の文字盤の上を進む五本の針。間近で見ても、はやり規則性を見いだせそうにない。


「入り口が見当たらないわね」


「だね」


 歪な翼でグルリと時計塔を回ってみたけども、僕の大きな目にも入り口らしきものは見えなかった。奇妙な時計は、広場の正面に位置する面に一つだけ。あとは、赤茶けたレンガが積み上げられているだけだった。


「ねぇ、ナージェ。そういえば、鐘も見当たらないね」


「鐘? そういわれてみれば、変ね」


 ナージェは唇をなぞって、軽く首を横に振る。


「鐘も気になるけど、今は入り口よ、イェン。一度下に降りてみましょう。時計塔に呼ばれた子どもたちが、空を飛べるわけがないし、ね」


「了解」


 もっと、ナージェを抱えて飛んでいたかった。でも、彼女に従うしかない。僕は彼女の魔力を借りなければ、こうして実体化できないのだから。


 ゆっくり降りようにも、限界がある。

 ナージェが地面に足をつけたら、名残惜しくも腕を解かなければならない。


「やっぱり、入り口、見当たらないね」


「そうね」


 何もないレンガの壁を、ナージェはしげしげと見つめる。


「イェン、壊せるわよね?」


「え? いきなりそんな乱暴なこと……」


「壊せるわよね?」


「そ、そりゃあ……でも……」


「壊せるわよね?」


「はい」


 三回繰り返す頃には、ナージェの声は凍えそうなほど冷たかった。


 絶対に、穏便にすませたい。

 切実に、穏便にすませたい。


 しかたなく右腕をナージェの腰回りよりも太く硬化したけど、やっぱり気が進まない。


「やっぱり、ナージェ。……あっ」


「何よ。さっさと壊し……」


「しーっ。誰か来る」


「っ!」


 ナージャの呪いのおかげで、姿を見られることはないだろう。

 けど、姿と声を消していても、気配だけは消せない。


 時計塔の前で息を潜めながら、グルグルと目玉を動かすと、近くの白い建造物の影から、四人の白服が現れた。

 四人とも昼間見た白服と同じように、髪の毛が一本も生えていなかったけど、無機質な無表情ではない。

 二人の大柄な白服に引きずられるようにしてきた一人の顔は、アザだらけで腫れ上がっていた。


「まったく、余計な仕事増やしやがって」


 先頭を行く細身の白服が、低い男の声でしゃべった。


「白服が、しゃべった?」


「しっ!」


 驚きを声に出すと、ナージェににらまれた。

 まさか、白服がしゃべるとは思わなかった。

 昨日見た時には、想像もできなかったくらい、人間らしい。


「戻りたい、子どもに戻りたい……う゛っ」


 引きずられていた白服を、大柄な白服の一人が容赦なく殴りつける。


「子どもに戻りたかったら、逃げずに働くんだな」


「嫌だ、嫌だぁ」


 それでもまだ、呻くアザだらけの白服を大柄な白服が殴りつける。


「やりすぎるなよ。使い物にならなくなったら、減点だぞ」


 細身の白服が形だけの制止の言葉を投げる。

 白服たちが時計塔の前に並ぶのを、僕らはじっと息をひそめて見守っていた。


 どうやら、白服たちは四人とも男のようだ。

 彼らが時計塔の前に並ぶと、レンガの壁の一部が音を立てて内側に開いた。


「ついているわ」


「本当にそれだよ、ナージェ」


 白服たちを出迎える者はいなかった。

 僕とナージェは白服たちの後を追うようにして、息をひそめながら時計塔の中に足を踏み入る。


 四人の白服たちは、細身の男に二人の大柄な男がボロボロの男を引きずりながら後に続く。

 なんの変哲もない、レンガの通路が続いている。天井には、等間隔に並んだ電球がある。橙色の光が不安定に明滅するのは、電力が不安定だからだろうか。そういえば、この街の電力は、どこでまかなわれているのだろう。

 大人四人くらい並んでも余裕がある通路でも、僕は体を細長く伸ばさなくてはならなかった。両腕を前足に変えて、ナージェの後に続く。


「ったくよ、子どもに戻りたかったら、脱走なんかしないで、働けってんだ」


「余計な仕事増やして……もし、俺の大人の時間が伸びたらどうしてくれるんだよ」


 ぐったりとしているボロボロの男を殴る代わりに、大型の男たちは罵り続けている。

 細身の男のため息が通路に響く。


「いい加減にしておけよ。余計な仕事といえば、旅人の話聞いたか?」


「ああ、扉を壊したりとか、なんとかか」


「けど、かわいい女の子って聞いたけどな、俺は」


「まじかよ。子どもの皮を被った化物じゃねぇか」


 間違いない。ナージェのことを話しているのだろう。

 そして、化物は言いすぎだ。


「ねぇ、ナージェ。あいつら、ナージェのこと化物呼ばわりしたから、殺しちゃってもいい?」


「だめよ」


 僕の意見をナージェがきっぱりと却下すると、細身の男が足を止め振り返った。


「ん?」


「どうかしたのか?」


「いや、なんでもない」


 細身の男は首を横に振って、また歩きだす。


 危なかった。

 ナージェの呪いは、姿と声を消せても、気配までは消せない。勘のいい奴なら、僕らの存在に気がつく。そんな失敗も、一度や二度ではない。その度に、僕は勘のいい奴を殺したり驚かしてきた。

 だから、正直なところ、残念だ。僕らに気がついてくれたほうが、ナージェに暴言を吐いた彼らを殺せたのに。

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