時計塔へ
ガチガチに緊張しているオルグを安心させようと、ナージェは微笑みかけた。
「君のことは、他の子どもたちから聞いたわ。前は元気な明るい子だったそうね。大好きだった女の子が時計塔に呼ばれてから、別人のように暗くなったって……その女の子が、シャナなの?」
オルグは、こくりと頷く。膝の上の拳は、小刻みに震えている。
「シャナは、自分で料理を作るのが大好きで、俺もシャナの料理が好きだった。だから……」
「ちょっと待って。料理って、自分たちでもできるの?」
ナージェは、話をさえぎった。食事はすべて食堂に用意されているから、子どもが料理をするなんて、想像もできなかった。
驚くナージェに、オルグも驚いて顔を上げた。ナージェが驚いているのか理解できないといった感じで、数回まばたきを繰り返す。
「うん、できるよ」
どうやら、この町では一日三食の食事の時間と、起床と消灯の時間さえ守れば、大抵のことはやれるらしい。料理の他にも、工作や手芸を楽しんでいる子どもも少なからずいると、オルグは言う。
「シャナの料理、俺、大好きだったんだ。シャナが時計塔に呼ばれたとき、もう食べられないんだって寂しかったんだ。だけど、シャナが時計塔に呼ばれていって三日目くらいから、シャナの料理が毎晩食堂に出てくるんだ。それで俺、シャナがまだ生きているんじゃないかって、さ……こんなこと、誰にも言えないけど……だったら、今まで時計塔に呼ばれたやつらも、実はどこかで生きていると思うんだ」
またうつむきそうになったオルグは、ぐっとこらえるような表情を浮かべて、まっすぐナージェを見つめた。
「俺、疑ったことなかったんだ。この街じゃ、子どもしかいなくて、好きなだけ遊んでいいって。時計塔に呼ばれたら、すぐに子どもに戻ってまた一から遊び直せる。そういう街だって、ずっとずっと思ってた。なのに、もし、もしだよ。……時計塔に呼ばれても、子どもに戻らなかったら、俺、どうなるか、怖くて怖くて……」
「ねぇ、君たちは、誰かに教えてもらっているわけじゃないのよね。この街の仕組みを」
大きくうなずいたオルグの灰色の目には、不安や怖れがあった。当たり前が、当たり前ではないかもしれない不安。自分が時計塔に呼ばれたあとに何が起きるかわからない怖れ。ほかにも、彼をさいなんでいた混沌とした感情が、そこにはあった。
「子どもに戻ったときから、そういうものだって、俺たちはみんな思ってるよ」
「そう……」
もしかしたら、オルグだけではなく他の子どもたちも、子どもがどうやって生まれてくるのか、知らないのかもしれない。性交、妊娠出産といったことだけではなく、父や母というものを知らないのかもしれない。僕らにしてみれば当たり前を、子どもたちは知らないのかもしれない。もっとも空が落ちてから、かつての常識や考え方なんて通用しないことくらいわかっている。それにしたって、これは異常ではないのか。
ナージェもきっとそのことに気がついただろうけど、僕らの当たり前をあえて口にはしなかった。オルグを余計に混乱させるだけだと、わかっていたからだろう。
「ところで、君は時計塔に行ってみようとはしなかったの?」
「行けるわけがないよ。時計塔への道は、百日に一度しか現れないんだから」
ビクリと肩を震わせたオルグには、時計塔はもう恐怖の対象でしかないのかもしれない。けれども、すぐに顔を上げた彼は、でもと力をこめて続ける。
「でも、空人なら行けるんだよね。前に旅人さんから聞いたことがあるんだ。その昔、本物の空があった頃、天空の街ユートピアの空人は、魔法が使えるって。未来も教えてくれる聖女もいたって」
僕だけが、ナージェの顔がこわばったのがわかった。ほんの一瞬だけの、かすかではっきりとした動揺からは、彼女が自分の罪に気がついたのかまではわからない。
微笑んでいるナージェよりも、暗い顔を浮かべるナージェのほうが大好きなんだ。だから、そんな顔を一瞬でも見せてくれたオルグを、少しだけだけど見直してやった。
「たしかに、私は魔法と呼ばる力を持っているわ。私はこの街の仕組みに興味がある。君が魔法と呼ぶ力を使ってでも、知りたいと思っている」
「俺も、知りたい。この街が本当はどうなっているのか、とか。シャナは元気にしているのかな、とか」
唇を噛んだオルグは、なんとなくと悔しそうに続ける。
「なんとなく、みんな、わかっているんだ。きっと、時計塔には悪夢みたいなことが待っているって」
「悪夢? 悪夢って、君たちが誰もが見る悪夢?」
「そう、それ」
力なくうなずいたオルグは、詳しいことは目が覚めたら忘れているけど、なんとなくそう感じるのだと言う。
時計塔のことは、これ以上、彼から聞き出せないだろう。
「お願い、ナージェ。時計塔で何が待っているのか、見てきてほしいんだ」
「わかったわ。今夜にでも時計塔に行ってみるわ。そして、私は私のまま戻ってくる」
「ありがとう。頼んだよ、ナージェ。絶対にすぐに戻ってきてよ」
シャナとかいう女の子の特徴を尋ねられたオルグは、少しだけ元気を取り戻したようだった。
「シャナは、明るい鳶色の髪に榛色の目で……それから右目の下に、二つ並んだホクロがある。これで、いいかな?」
「明るい鳶色の髪に、榛色の目、それから右目の下に二つ並んだホクロ。わかったわ、大丈夫よ」
じゃあと立ち上がったナージェを、オルグが慌てて呼び止める。
「待って。これ、シャナの忘れ物、なんだ」
棺を背負ったナージェに、オルグはポケットの中から取り出した木の実を連ねたネックレスを押し付けた。
「わかったわ。見つけたら、渡すわね」
――ナージェ、ナージェ。余計な約束しないでよ。
フンと小さく鼻を鳴らしたナージェは、僕が思っていたよりもずっと子どもたちのことを気にいてるのかもしれない。非常に面白くない。
「あ、ナージェだ」
「本当だ、ナージェだ」
「どこ行ってたのぉ」
「げっ」
閲覧室を一歩外に出ただけで、ナージェは子どもたちに囲まれる。
――ナージェ、だから、むやみに呪いを使わないほうがいいって言ったじゃないか。
「うるさいわね」
結局、夜までナージェは子どもたちの相手をすることとなった。まんざらでもない様子で。
そして、いよいよ消灯の時間を迎える。
――ナージェ、今度こそ、僕を解き放つべきだと思うんだけど、さ。
「ええ、私もそう思うわ」
――そして、ご褒美も期待していいよね。
ナージェは不快感を隠そうともせずに、顔を歪めただけだった。
一度お風呂上がりに着ていたネグリジェから、彼女が呪いで清潔にした空色のワンピースに着替えて、窓際の棺に両手をかざす。
「その名は、イェン」
ゾクリと僕の魂が震えて、ドロリと僕の体が棺の表面から溢れていく。
「あ、あ、あぁ……」
気持ちがいい。体を得る快感に、つい声が漏れてしまう。
ナージェは、いつも僕の醜い姿に怯えている。
ドロリとした黒い僕の体は、どんどん棺から溢れ出てくる。棺よりもふた回りほど膨張した体から、手と足を伸ばしていく。
「ナージェ、この部屋、ちょっと狭すぎるよ」
久々に耳にした子どもっぽい自分の声が、醜い姿に不釣合いで笑いそうになる。
細すぎる手足で四つん這いになった僕は、最後に頭を伸ばす。
一つだけの金色の目に、大きく裂けた口。口を開けると、赤く濁った奈落が見えるだけだ。
ナージェは震える金色の瞳に、醜い僕の姿を全部映していた。
「さっさと、外に行けばいいでしょ」
僕に怯えるナージェも大好きなんだけど、すぐに彼女は自分を取り戻してしまう。
「それもそうだね、そのほうがご褒美も早くもらえるし」
僕が手を伸ばして窓に触れると、ドロリと窓が溶けていく。
「消灯の時間だ。時計塔に連れて行ってあげるよ、ナージェ」
電球の明かりが消える。
消灯の時間を迎えたネバーランドの子どもたちの一日が終わった。
解き放たれた僕が活躍する時間の始まりだ。
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