接触

 僕はナージェが大好きだ。ちょっとわがままなところも、もちろん大好きだ。

 だから好きになった弱みというやつで、僕は白服たちのことを話すしか選択肢はなかったんだ。


 ――わかったよ、ナージェ。僕が見たものを、全部話す。でも、本当にやばいから、おとなしく渡り鳥を待つことを、強くおすすめするよ。


 こうなったら、白服たちがどんなに不気味で異様な存在だったを、ことさら強調して話して聞かせたるしかなかった。


 ――ナージェ、わかってくれただろう? 白服に心が残っていなかったほうが、ずっとマシだったんじゃないかって思うよ。だから、渡り鳥が来るまで、何も気にせずにやり過ごすのが一番だよ。


 予想はしていたけれども、ナージェは首を縦に振ってくれなかった。


「イェンの話を聞いて、少しわかったわ。私もね、昨夜ゆうべの悲鳴のことを女の子たちに訊いてみたのよ」


 不気味な白服たちのせいで、昨夜の絹を裂くような悲鳴のことなんか、すっかり忘れていた。


「時々、悪夢を見るらしいの。この街の子どもたちの誰もが見る悪夢があるのよ。それが、昨夜の悲鳴の原因」


 ――悪夢にうなされて、あんな悲鳴を? どんな悪夢だよ。


「とにかく怖い夢としか覚えていないって、言ってたけど、本当かどうかまでは、わからないわね。みんな悪夢を怖がって、あまりこの話をしてくれなかったから」


 ふっと、ナージェが意地悪く笑った。


「気になっているのね、イェン。本当は君も、黙ってこの街を去れないんじゃないの?」


 ――うっ。ナージェ、それはぁ……


 痛いところをつかれた。


 ――わかったよ。わかってたよ。でも、白服たちは、本当にやばいからね。


「でも、イェンが守ってくれるでしょ? 私の守護者なんだから」


 ナージェに、微笑みかけられたら、これ以上嫌だなんて言えないじゃないか。卑怯だ。


「というわけで、明日、行くわよ」


 ――時計塔に?


 新しいネグリジェを抱えた彼女は、首を横に振る。


「オルグ。あの暗い男の子が先よ」


 ――了解。


 お風呂がそんなにいいのか、鼻歌を歌いながらいってしまった。


 今すぐにでも解き放ってくれるのかと、期待した僕が馬鹿だったよ。


 四日目。

 女の子の家を出たナージェは、今日も噴水の縁にいたオルグという男の子に話しかけるのかと思ったら、そうではなかった。

 彼女が向かったのは、食堂だった。ちょうど、朝食の鐘が鳴っていたからだろう。


「ナージェ、ごはん美味しい?」


「ええ。とても美味しいわ。こんなに美味しいごはんを食べられる街なんて、めったにないわ」


 サンドイッチを頬張るナージェは、嘘はついていない。

 まともに食事にありつけた街が、そもそも久しぶりだ。


「じゃあ、ナージェもネバーランドで一緒に暮らそうよ」


 誘ってきた男の子に、ナージェは首を横に振らず、小首をかしげてみせる。


「美味しいごはんだけじゃ、決められないわね」


「えー、ずっと遊んでいられるのに?」


「そう、ね。もうしばらく、考えさせてもらうわ」


 ナージェはすっかり人気者になっていた。

 子どもたちは、おねえさんのような彼女に相手をしてもらいたくてしかたないようだ。


 ナージェのことだから、子どもたちを疎ましく思っているに違いないと、はじめは考えていた。けれども、違ったみたいだ。

 少女の姿のまま時を止めてしまった彼女は、この街の子どもたちの何倍も、いいや何十倍も生きている。

 無数に解けて散った大地で、時の流れすら歪んでしまったとはいえ、彼女の心まで少女のままではない。そう、僕が思いこんでいただけかもしれない。そのくらい子どもたちに囲まれている彼女は、外見通りの少女らしく楽しそうだった。


「えー。こんなにいい街、他にはないのにぃ」


「ペインは、ネバーランドの外に行ったことがあるの?」


「もちろん、ないよ」


「なら、決めつけるのはよくないわ」


「でもぉ……」


「というわけで、この街に住むかどうかは保留、よ」


 子どもたちの抗議の声が一斉にあがったけど、ナージェは指についたパン屑をナプキンの代わりにテーブルクロスでぬぐうと席を立った。


「ナージェ、何して遊ぶ?」


「かくれんぼ! かくれんぼしよう!」


「おままごとしたい」


 子どもたちの切り替えの速さには驚かされる。

 お誘いを無視して棺を背負ったナージェは、浮かべていた笑顔をすっと消し去ってまじないを唱えた。


「その名は、見えざるそよ風」


 つかの間の静寂。

 当たり前だ。突然、いたはずのナージェの姿が見えなくなったのだから。


「ナージェが消えたぁああああ!!」


「消えちゃったぁああああ!!」


 すぐに、静寂は子どもたちの甲高い声で切り裂かれる。


 ――ナージェ、人前で呪いを使うのは、よくないと思うけど。


「別に、構わないわよ。私はこの街の住人になるつもりなんてないし、必要以上にあの子たちと仲良くなるつもりもないわ」


 実際には姿が見えなくなっただけで、ずっと食堂にいる彼女は、慌てふためきながら、食堂の外へ出ていく子どもたちを冷めた目で見ていた。


 ――でもナージェ。渡り鳥が来るのは明後日だよ。あとで、あの子たちにどう説明するのさ?


「…………それは、なんとかなるわよ」


 ナージェはたまに後先考えずに行動するから、怖い。


 食堂に最後まで残っていたのは、あのオルグという男の子だった。しっかり子どもたちが全員出ていくのを待ってから、彼は席を立った。


「君、待って」


「えっ」


 突然姿を消したナージェの声に呼び止められて、驚かないわけがない。


 振り返ったオルグは、消えたはずのナージェが変わらずに立っているのを見て、まばたきを繰り返す。


「君と話がしたいの」


 ナージェの声が凛と食堂に響き渡る。

 ぽかんと大きく開いていた口を閉じて、オルグは首を縦に振った。


「……いいよ。俺も、あんたと話がしたかった。でも、ここじゃ駄目だ」


 強い警戒心を取り戻した目で、オルグはボソボソと図書館の閲覧室で二人きりで話がしたいと言った。


「図書館、わかるだろ?」


「ええ。黒い屋根の一番小さな家、よね」


 彼は無言で頷くと、食堂を出ていった。


 ――図書館なんてあるんだね。


「図書館と言っても、絵本や子どものための本ばかりで、ほとんど屋内遊戯のための家よ」


 ――へ、へぇ。


 この街に馴染んでいる気がするとは、言わなかった。


 ナージェはもう一度、呪いを唱えてオルグのあとを追うように、図書館へ向かう。


 図書館は広場の角にあった。ちょうど女の子の家の対角線上に位置していた。

 なるほど、ナージェが言ったとおりだ。おままごとやボードゲームなどの屋内遊戯をしている子どもたちばかりで、本を読んでいる子どもなんて見当たらない。

 適当に壁にそって歩いていけば、閲覧室はすぐに見つかった。


 ノックもせずに静かに入りこんだ閲覧室は、二人がけの長椅子と、机が奥にあるだけの部屋だった。先にいたオルグは、呪いを解いて姿を現したナージェに、軽く目を見張ったもののすぐに警戒の色が戻ってきた。


「お前、やっぱり伝説のユートピアの空人そらびとなのか?」


 狭い閲覧室で棺をおろしたナージェの顔が、空人と聞いてこわばる。


「ええ、そうよ。私は空人の生き残りよ。それがどうしたの?」


 何か文句でもあるのかと棘があるナージェの物言いに、オルグは気まずそうに目をそらした。


「空人なら、魔法が使えるって、前に旅人から聞いたことがあったから……」


「だから?」


 ――ナージェ、その子に悪気はないんだから、ね。


 鋭い舌打ちをしたナージェに、空人であることは、軽々しく触れていいことではない。

 舌打ちにすくみあがったオルグは、次の瞬間、勢いよく頭を下げた。


「空人なら、時計塔に呼ばれた奴らがどうなったのか、確かめてきてくれよ! 子ども戻りなんて、デタラメかもしれないんだ」


 泣きそうなほど昂ぶったオルグの声は、震えていた。いや、声だけではなかった。体が、震えていた。


「どう、いうこと?」


 あれほど刺々しい警戒心をむき出しにしていた男の子の豹変ぶりに、ナージェも困惑して首を傾げている。


「シャナの料理が、毎晩食卓に並んでいるんだよ。おかしいだろ? シャナはもう時計塔に呼ばれて、戻ってきた別の子どもになっているはずなのに」


 ――シャナってのが、この子が慕っていたっていうお姉さん的な人のこと、かな。


 ナージェは横目で棺をにらむと、息をつきながら椅子に座った。


「君も座りなさいよ。そして、落ち着いて」


「あ、うん」


 オルグは、もう一つの椅子に座る。まばたきを繰り返しているのは、涙が溢れないように努力しているのだろうか。膝の上の拳を握ったり開いたりして、彼はどう説明しようか悩んでいるようだった。

 電球のおかげで、充分すぎるくらい明るい閲覧室に、扉と壁の向こうから、おままごとやボードゲームを楽しんでいる子どもたちの声が聞こえる。


 しばらく黙ってオルグを見守っていたナージェは、軽く息をついた。


「そんなに説明が難しいなら、私の質問に答えて。それでいいかしら?」


「わかった」


 ことさら膝の上の拳を強く握りしめたオルグは、こくりと頷いた。

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