夜を切り裂く悲鳴

 時計塔への探索を諦めたその日の夜、僕はナージェからその名前を聞かされた。


「オルグ。彼、オルグって名前らしいわ」


 ――えっと、彼って誰?


 呆れたと言わんばかりのわざとらしいため息をついて、ナージェは清潔なベッドの上で膝を抱えた。ピンクのネグリジェの裾から、見えそうで見ない太ももが悩ましい。ではなくて、僕は本当にオルグというのが、誰だかわからなかった。


「イェンも気がついていたでしょう? ここの子どもたちの中で一人だけちっとも楽しそうじゃない男の子」


 ――あ、わかった。


 あの灰色の男の子だ。

 最初の日から、ナージェを警戒していたただ一人の男の子。今日も、噴水のふちに腰掛けて、ずっと彼女を観察していたではないか。

 よくよく考えてみれば、おかしな話だ。旅人が警戒されるのは、自然なこと。旅人というだけで、住人が襲ってくる街も珍しくない。けれども、この街の子どもたちは、旅人をまるで警戒していない。相手が大人だったら、僕らも裏があるのだと警戒できたというのに、遊ぶことしか頭にない子どもたちに、すっかり安心していた。


「オルグって子、もともとはやんちゃ子だったらしいのよ」


 ――へぇ、そうは見えなかったな。やんちゃどころか、根暗な感じだったよ。


「私も、そう感じたわ。あんな嫌な目で見られるのは、初めてではないけど」


 昨日と同じように呪いを唱えて服をきれいにしてから、ナージェは窓際の棺に目を向ける。


「オルグには、お姉さんのような女の子がいたの」


 ――お姉さんのような? その女の子と話をしたの?


 ナージェは首を横に振って、唇を指先でなぞる。


「イェン、彼が慕っていた女の子は、もう時計塔に呼ばれてここにはいないの。それからしばらくしてから、彼、笑わなくなったらしいのよ」


 ――それって、その女の子が好きだったりとかで、いなくなって寂しいってこと?


「そうかもしれないわね。でも、そうじゃないかもしれない」


 ――と、いうと?


 ベッドから腰を上げて、ナージェが窓際までやってくる。

 解き放ってもらっていない僕は、棺の横から外を眺めている彼女に、もどかしい思いだけが募る。

 今夜も規則正しくまたたく星と錫の月が、夜のネバーランドを監視するように見下ろしている。


 チカ、チカ、チカ、チカ……


 その朝日にきらめく露のような金色こんじきには、夜の偽空ぎそらはどう見えているのだろうか。


「子どもたちにとって、時計塔に呼ばれることは、名誉なことなのよ。百日に一度の子ども戻りの日は、それはもう盛大に呼ばれた子どもたちを祝福するんですって。オルグって子も、その女の子が呼ばれたことを心から喜んだそうよ。少なくとも、女の子がいなくなっても数日の間は、彼はやんちゃで元気にしていたって話」


 ふぅと息をついたナージェは、ようやく棺を横目で視界に入れてくれた。それだけで、僕の心は震える。


 ――でも、何日かしてから、ようやく寂しさが……ってこともあるじゃん。


「そうかもしれない。でも、それだけじゃないと思うわ。それだけでは、私をあんなに警戒しないと思うわ。寂しくて憂鬱だというなら、一人でふさぎこんで旅人には無関心……それが、自然な流れだと思うのだけど、ね」


 ――なるほどね。納得。


 ナージェの言うとおりだ。大好きな子がいなくなるなんて、他の子どもたちにもよくあることだろう。それだけでは、たしかに旅人のナージェを警戒して、観察することにはならない。


 ――だったら、僕は彼と接触した方がいいと思う。彼だけが、この無邪気なネバーランドで異質な存在だからね。


「ええ。もちろんそのつもりよ」


 話は終わりと、ナージェはベッドに体を投げ出した。そのネグリジェから、ほっそりとしたきれいな足が無防備に突き出ている。天井の電球の優しい橙色の光に浮かび上がるその足に、触れたい。そして、不快そうに顔を歪める彼女を愛でたい。


「この街に子どもたちしかいないなら、とか、不自然な言動が多すぎるわ」


 ――僕は、大人がいるんじゃないかって考えているよ。


「そうね。でも、子どもたちは嘘をついていないわ。本当に子どもしかいないと、疑ってもいない。大人はたまにやってくる旅人だけだってね」


 ナージェのきれいな足が、ブランケットの中に消える。


「そろそろ消灯の時間ね。イェン、明日にしましょう」


 ――おやすみ、ナージェ。よい夢を。


 返事はいつものようにない。

 けれども、それでいい。

 消灯の時間までどれほどの時間があるのかわからないけども、電球の光の中でナージェを眺めていられる。


 ナージェ。大好きだよ。

 君が僕を好きになってくれないことは、わかっているけど、そんな頑ななところも大好きだ。


 おやすみ、大好きなナージェ。


 すっと静かに電球の灯りが消えて、消灯の時間をむかえた。


 ナージェは、どんな夢を見ているんだろうか。

 眠れない僕は、いつものようにナージェの夢に思いを馳せながら、朝を待つはずだった。


 それは、まさに絹を裂くような悲鳴だった。


 つかの間の眠りを破られたナージェは、勢いよく上体を起こした。


「イェン、今のはっ?」


 ――悲鳴。それも複数。ナージェ、どうするの?


「決まっているわ」


 扉に駆け寄る彼女には、愚問でしかなかったことくらい、わかりきったことだった。


 絹を裂くような悲鳴の数は、どんどん増えている。


「あぁ、もぉ! なんで鍵がかかっているのよ」


 ガチャガチャと音を立てるだけのドアノブから離した手で、ナージェは勢いよく扉を叩く。

 もちろん、彼女は鍵なんてかけていない。そもそも、扉の内側にも外側にも鍵穴なんてない。


 ――ねぇ、ナージェ。僕を……


「却下」


 解き放ってくれよと言い終える前に、ナージェは短く拒絶の言葉を口にした。


「でも、棺は役に立ちそうね」


 ――へ? ちょ、ナージェ、まさか!


 黒い棺に手をかざしたナージェは、まじないを唱える。


「その名は、頑丈な破城槌」


 棺が中に浮かび上がり、押し開けようと扉に突進した。


 ――ナージェ、やめて。乱暴にしないで! いつも言っているじゃないか、ナージェぇえええ!


「うるさいわね」


 ナージェだけは重さを感じない黒い棺だけど、実際には少女が軽々しく背負えないだろう重さはある。その上、気が遠くなるような長い旅でも傷一つないほどの頑丈だった。棺に負けないくらい扉も頑丈なようで、なかなか開かない。ドスドスと棺が扉を打ちつけていると、蝶番が悲鳴を上げ始めた。


 ――ねぇ、ナージェ! お願いだよ。やめてってば。やめてよぉ。


 僕の抗議を無視して、大事な棺は扉に打ちつけられている。

 扉を打ちつける棺の音に、女の子の家の子どもたちも叩き起こされているのではないか。けれども、それにしては奇妙な感じがする。――などと考えているうちに、扉がとうとう敗北した。

 バタンと音を立てて、扉は廊下に倒れた。傷だらけの扉に、僕は複雑な気分になった。


 ――本当に扉を叩き壊しちゃうなんて、もう、なんか……。


 ナージェは、たまに何も考えていないんじゃないかってくらい突拍子もないことをする。そして、だいたい突拍子もないことができてしまうから、文句が非常に言いづらい。


「行くわよ。イェン」


 廊下に出たナージェは棺を背負って、悲鳴の主を探そうとして気がついた。


 ――悲鳴がやんでいる。


「……最悪」


 静まり返った女の子の家の廊下に並ぶたくさんの扉。

 その扉の向こうに、あの悲鳴の主がいるのだろうか。

 隣の扉にも鍵がかかっていることを確認したナージェは、扉を叩こうと作った拳を力なく開いた。


「戻るわ、イェン」


 ――しかないね。って、ナージェ、顔に怪我しているじゃないか!!


「かすり傷よ」


 おそらく扉を打ちつけていたときに、飛んできた扉の破片で傷つけたのだろう。きれいなナージェの顔に傷がついただけでも、僕は耐えられない。


 ――駄目だよ、ナージェ。ナージェの顔に傷なんて。今すぐ治して。できないなら、僕を解き放って!


「ごちゃごちゃ、うるさい!」


 小さく僕を一喝したナージェは、部屋に戻った。


「その名は、傷なき頬。……これでいいでしょう、イェン」


 ――もちろん。……って、乱暴しないで。


 ドスンと窓際に棺を立てたナージェは、僕の声に耳も貸さずに、ベッドに倒れこんだ。


 ――……おやすみ、ナージェ。今度こそ、よい夢を。


 二度目の眠りについたナージェは、朝まで一度も起きなかった。

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