錫の月

 女の子の家は、食堂の隣の赤い屋根の家だった。横に長い二階建ての家は、食堂を挟んで反対にある青い屋根の家とよく似た外観だった。どうやら、赤い屋根が女の子の家で、青い屋根が男の子の家らしい。


 僕は今、ナージェに用意された部屋の窓から、ネバーランドの夜を眺めている。

 とはいえ、二階の窓から見えるのは、時計塔と藍色の偽空ぎそらに吊り下げられたすずの月と、広場の一部だけ。

 中心にある噴水の水が踊ることをやめた広場は、人っ子ひとりどころか、犬も猫も生き物がいない。

 街の灯りも、この女の子の家と食堂を挟んだ向こうにある男の子の家の窓からもれているだけだ。


 ナージェは今、女の子たちとお風呂に入っている。

 だから、僕は今ひとりぼっち。


 チカ、チカ、チカ、チカ……


 藍色に塗られたハリボテの偽空には、チカチカと明滅する星たち。規則正しい間隔で瞬く星は、間違いなくからくり仕掛けだ。

 冷たい光で夜の街を監視している錫の月と、からくり仕掛けの瞬く星。ネバーランドは、ハリボテの偽空で蓋をされた玩具箱みたいだ。やっぱり、この街は気に入らない。


 ――あの月は、満ち欠けしたり、昇ったり沈んだりしないんだろうな。


 時計塔のそばに吊り下げられた満月が、無慈悲な監視者のような気がした。


 無慈悲な王と呼ばれた影王の眼差しによく似ている。


 ――ナージェは、まだ気がついていないのかな。影王が空を落としたきっかけは、ナージェなのに。


 罪に気がついていないことも、罪だ。

 自分の罪深さを知ったとき、ナージェはどんな顔をするんだろう。

 絶望に染まった顔を想像するだけでゾクゾクする。僕は彼女を慰めてあげるんだ。優しい言葉だけじゃなくて、甘い言葉だって聞いてくれるに違いない。

 そして、そっと彼女を抱きしめてささやくんだ。


 ――もう、旅をする必要はないんだ。……だはぁ、もう最高じゃないかぁ。んふふふふっ。


 醜い異形の僕が美しいナージェをって考えるだけで、興奮する。


 チカ、チカ、チカ、チカ、チカ……


 規則正しく瞬く星明りが、興奮に水をさした。

 無慈悲で無機質な明かりは、目障りだ。冷たく見下してくる錫の月も明滅する星明りも、癪にさわる。

 錫の月に影王を重ねてしまった自分が、腹立たしくなってきた。


 ――こんなハリボテのまがい物の偽空に惑わされるなんて、僕としたことが……あー、この街、子どもしかいないとか、ふざけすぎぃ。


 誰にも届かない悪態をついたところで、虚しいだけだ。わかっているけど、悪態として吐き出さなきゃやっていられない。


 ――こういうときは、ナージェのことを考えよう。


 僕の大好きなナージェ。

 今は女の子たちとお風呂で、ゆっくり旅の疲れを癒やしているだろう。


 ナージェのきめ細かい肌に、膨らみ始めたまま時を止めたおっぱい、なだらかな腹に、真っ白な髪。きっと女の子にとっても賞賛の的になっているに違いない。もしかしたら、触れ合ったりなんか……。いやいや、ナージェのことだからそれはない。ひょっとしたら、背中を流してもらったりしてるかもしれないけど、さすがに薄桃色の唇とか……ないない、絶対にない。もし、そんなことあったら、僕が殺してあげる。ナージェを汚したことを後悔しながら苦しんで死ね。


 チカ、チカ、チカ、チカ……


 規則正しく瞬く星には、催眠効果でもあるのだろうか。

 目障りなまがい物の星明りは、精神を安定させるリズムを刻んでいるのだろうか。


 ――もしかして、計算されている……いや、さすがにそれは……あるかもしれない。


 思い起こされるのは、食堂で女の子が口にした影王の言葉だ。

『子どもは、好きなだけ遊んでいいんだよ』

 この街が、子どもたちのためだけにあるのだとしたら、星明かりもまた例外ではないはずだ。そう、子どもたちが夜更かししないように、精神を鎮静化させるリズムで瞬いているのも、ありえない話ではない。


 ――子どもの街、子どもだけの街、子どもためだけの街。誰かが、子どもたちのために、街を機能させていなければならない。となると、どう考えても、あれは影王の言葉だ。


 そう考えれば、おのずとこの街を機能させているのかわかる。


『子どもは、好きなだけ遊ぶがいい。大人になったら、次の子どもたちが好きなだけ遊べるように、子どものために働け』


 それが、影王の言葉。

 おそらく、この街にはもう一つの顔がある。時計塔に呼ばれたという大人たちが、子どもたちのためだけに働いているはずだ。あのできたてのご馳走も、この部屋を用意したのも、姿は見えないけれども、大人たちがやったことだろう。


 ――まったく、嫌になるよ。


 ばらばらに解け散った大地の中には、かつて存在しなかったはずの大地もある。そんな場所にできた街は、だいたい影王が思い描いた理想郷だったりするから、厄介だ。

 自分の罪に気がついていないナージェにはまだ教えるつもりはないけど、影王の痕跡を探すなら、そういった存在しなかったはずの街に意識を向けたほうがいい。


 ――ほんと、嫌になるよ。影王だって、さすがに大人と子どもを切り離して生活させようなんて、考えていなかったはずだしねぇ。


 嫌になるといえば、規則正しく明滅する星たち。それから、苦手な子どもたちだ。


 チカ、チカ、チカ……


 廊下のほうが賑やかになったと思ったら、暗かった部屋に天井の電球の灯りがつく。


 ――おかえり、ナージェ。


 ナージェが戻ってきた。


 ――お風呂はどうだった?


「まずまずね。一人でゆっくりできれば、最高だったわ」


 残念よとぼやきながらも、彼女はまんざらでもないようだ。ピンクのネグリジェが、よく似合っている。まだほんのり上気している肌が濡れていないのが、残念。白い髪まで、乾いている。濡れたナージェは、少女にはふさわしくない匂い立つような色気があるんだ。

 ドレッサーのスツールの上に、空色のワンピースや肌着を無造作に置いて、彼女は清潔なベッドに体を投げ出す。


「その名は、清潔」


 ポツリと呟いた途端、汚れてクタクタだった服が宙に浮かび、くるりと回って綺麗になって折りたたまれてスツールの上に積み重なる。

 うつ伏せのナージェが横目で自分のまじないの成果を、ぼんやりととらえている。


「ねぇ、イェン。この街、どう思う?」


 寝返りをうったナージェは天井の電球を眺めている。


 ――そうだねぇ。変な街だけど、からくりの原動力さえ見つけられれば、たいしたことない街だったりするかもね。


 窓際の棺から動けないでいる僕は、天井を眺めている彼女に軽いいらだちを覚えた。僕のほうを、ちっとも見てくれない。


「やっぱり、時計塔が怪しいわね」


 ――ナージェが僕を解き放ってくれたら、今すぐにでも時計塔に連れて行ってあげるよ。


「まだよ」


 むりくと上体を起こして振り返った彼女の目は、とても冷ややかだ。


「この街のことを、もっと知らなくてはいけない。子どもたちは、みんないい子よ。気になることを全部彼らに尋ねる。それが先」


 ――ナージェがそう言うなら、しかたないね。もしかしてだけど、子どもたちとずっとこの街で遊んで暮らしたいとか?


「馬鹿なこと言わないで」


 この街を見下ろしている錫の月よりも冷たい金色こんじきの瞳で、姿形のない僕を見据える。

 それは彼女の意志の強さに、僕の心は震える。

 ナージェ、大好きだよ。ナージェ。


「私は、空を取り戻さなくてはいけないの。影王を殺さなくては」


 ――ごめんね、ナージェ。僕が悪かった。ナージェがあまりにも楽しそうに夕食を食べていたから、つい、ね。


 これは、僕の本心だ。

 ナージェも思い当たる節があったようで、不機嫌そうに顔をしかめると横になって目を閉じた。


「イェン。もうすぐ、消灯の時間よ」


 ――消灯の時間?


 その意味は、すぐにわかった。


 ふつっと電球の灯りが消える。

 窓際の僕は、広場の石畳を照らしていた子どもたちのための灯りが全て消えたことを知った。


 時計塔の緑の針が真上にある。


 ――子どもの街、だね。


「そういうことよ」


 チカ、チカ、チカ、チカ…………


 消灯の時間を迎えても、星はあいかわらず規則正しく明滅している。


 月明かりと星明りが窓際だけに差し込む部屋で、ナージェが寝返りを打つ音が聞こえた。


 ――おやすみ、ナージェ。よい夢を。


 返事は、いつものようにない。


 チカ、チカ、チカ、チカ…………


 影王が夢を見ているなら、どんな夢を見ているのだろうか。


 眠りを必要としない僕は、夢を見られる人々が、どうしようもなくうらやましい。

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