第2話
その日の目覚めは、何事もなく訪れた。
枕の側に置いてある携帯が震える。音は消してバイブレーションのみで時間を知らせるようにしていた知美は、その振動に目覚めて携帯を手に取った。時刻は六時四十分。いつも通りの時間だった。知美はベッドの中で体を伸ばしながら唸り声を上げてしばらく固まった後、勢いをつけて起きあがった。
「きちゃった。な」
知美は呟いて勢いよくパジャマを脱ぐ。今日は私服を着ることもないだろうと用意はせずに、ハーフパンツとスポーツ用のTシャツを着て階下へと向かった。何度か見ていた夢を昨日は見ていない。そのことを知美はプラスに受け取った。前日まで悩んでいたとしても、試合当日にはもう開き直ったのだと。
母親が作ってくれた食事を食べてから歯を磨き、髪の毛を整える。いつものように頭の後ろで二つに分けてゴムで止める。憧れた先輩を真似てポニーテールにして、すぐ似合わないからと止めて変えた髪形。この長さなら試合にも邪魔にはならない。少し洗面所を占領しながら今日の試合を乗り切るために気合いを入れた。
あっと言う間に時間が過ぎ、七時半になろうとしたところで知美はラケットバッグに昼食やユニフォームの予備を詰め込んで家を出た。空は曇り空。雨が降りそうな雲を見て知美は携帯電話で天気予報を検索する。降水確率は四十パーセントとあったが、午後からは晴れる予報となっている。このまま自転車で向かおうと決めて自転車にまたがり、こぎだそうとする。
その時、足を止めて少し先にある家に目をやった。
昔からの知り合いの家。
目当ての人の部屋は死角になっているために見えないが、その方が今は都合がいい。当人に会ってしまうと、今は余計なことを考えて毒になるかもしれない。
「行ってきます」
それだけ呟いて知美は自転車をこぎだした。
先輩達の後を追っていた自分の世代が、初めて後輩達の前に立って進み出す。どこまで行けるかという不安が再び浮かび上がってきたが、そこまで大きくならなかった。前日に家に帰った時の足の重さにどうなることかと知美は思ったが、自分の歩んできた道もけして軽くはない。何とかなると、今は思える。
二年女子では菊池と共に唯一、今年の三月に開催された全国バドミントン選手権大会の道内予選に出ているのだ。
つまり、知美と菊池はその時点では二年女子で最も強いダブルスだったのだ。それから六か月が過ぎて状況は確かに変わっているだろうが、過去が消えるわけではない。もう少し自分に自信を持てばいいのだ。
そう言い聞かせたところで、前方に見覚えのある姿が見えた。知美はこぎ足を素早くして近づき、驚かさない程度に声をかけた。
「おはよー、里香」
「あ、おはよー、トモ」
菊池が振り向いて知美に挨拶し返す。いつも練習に向かう時と同じ顔。同じ雰囲気。菊池はいつも自然体で動く。その様子が、知っている人間に似てきていると思い、口に出していた。
「なんか、田野に似てきたんじゃない? 付き合ってから」
「え、そ、そうかな?」
それまで体にまとっていた雰囲気がいきなり崩れる。他のことには冷静でも自分の恋愛ごとになると崩れるらしい。そんな表情を見せるのも、田野恭平と付き合い始めてからだった。
今年に入った頃に自分の友人同士が付き合うことになった。結果的にバドミントン部男女副部長カップルということで周りからも温かく見守られている。
スマッシュ主体というよりも、ほぼそれしかなかった菊池のプレイスタイルも田野のようにフェイントやドロップなど技巧が増えてきて、ダブルスの攻撃の幅が広がっていた。
その意味ではダブルスとして自分達も成長してきた。
しかし、前日までの自分はその成長よりもできないことへの劣等感が強かったのだ。それまでの自分を吹っ切るように菊池へと言う。
「今日は頑張ろうね!」
「うん。トモも吹っ切れたみたいね」
「心配おかけしました」
「桃華堂のイチゴパフェ一つね」
地元でもっとも人気が高いイチゴパフェを所望されて知美は苦笑いしつつ頷いた。相談に乗ってもらった竹内にも何かお礼をしないといけないなと考えながら自転車をスポーツセンターへ走らせる。
小学校四年で初めてバドミントンの大会に出てから何度となく使っていた場所だけに、特に意識しなくても辿り着けたが、そこでがらりと空気が変わったことに知美は気づいた。
(え、これって……)
入り口には開放を待つ他校の生徒達も既にたむろっている。インターミドルの予選時以来会っていなかった面々。それまでは三年の姿がたくさんあったが、今は二年と一年しかいない。
その状況で知美は重たい圧力を感じていた。
それは試合の観戦中にたまに感じていたもの。
これまで、その圧力を向けられていたのは先輩達だった。
強いプレイヤーが放つプレッシャー。それがすでに入り口にたむろしている人の中から発せられている。
そのプレッシャーの出所はすぐに分かった。
知美は菊池と一緒に自転車置き場へと自転車を置いて、ひとまず自分達の学校の面々が集まっている場所へと駆け足で近づいた。
「おはようございますー」
「おはよー」
引率の庄司や多向を始め、二年と一年の一部はいたがまだ全員が集まっているわけではない。知美は朝比奈の姿を探すもやはり来ていなかった。それに軽く落胆しつつ、傍にいた他校の生徒に話しかけた。
竹内と田野と話している、プレッシャーの出所に。
「藤本君」
「あ、寺坂じゃん。おはよう」
藤本と呼ばれた男はさわやかに知美へと挨拶を返した。
市内にある中学校は四つ。
知美達がいる浅葉中のほかに、明光中、翠山中、清華中が存在する。
それぞれの中学に実力者がいたが、翠山中の現在のトップが、藤本明人だった。
今の時点で少なくても全道クラス。今後も考えれば全国も十分に狙える。インターミドルでも実力者が揃っていた一つ上の世代にダブルスでベスト4まで食い込んでいたプレイヤーである。
藤本と知美と菊池。そしてまだこの場にはいない他校の生徒一人。
当時の一年生ではその四人が三月の全道大会に出ており、知美の中では同じ空気を共有した仲間として、他校でも話しやすい人間に分類されていた。
「もしかして、気合い入ってる?」
先ほど感じたプレッシャーの元が藤本だったことで話しかけたのだが、藤本は笑って肯定した。今の時点ではそのプレッシャーは内に収まっているのか、特に圧迫感を知美は感じない。
「ああ。俺、今回からシングルスに変わったんだよ。だから初出場初優勝狙おうと思って」
「え、そうなの?」
今年のインターミドルまでは藤本はダブルスで出場していた。
男子部の先輩と激しい戦いを繰り広げていたことも記憶の中では新しい。そのままダブルスを続ければエスカレーター式に地区内でも一位。おそらくは全道で通用するダブルスになっているに違いなかった。
それが突然の方針転換ということで知美は単純に驚く。
「そう。俺自身は元々シングルスの方が好きだったからさ。先輩が引退してシングルスに穴が空いたからどうしようかってなって。自然に手を挙げてたってわけ。小笠原も納得してくれたしな」
ダブルスパートナーだった男の名前を出すと、少し離れた場所にいた小笠原が自分のことを言われたのだと気付いて手を振る。知美は挨拶をしつつも他の中学の体制の変化も感じ取り、また緊張が戻ってくる。
(他のところも、変わって行ってるんだよね……今まで知ってたことが違うようになって。様変わりする)
自分は変わっているのか。変わらないことはいけないのか。再び堂々巡りしそうになる思考を霧散させたのは、菊池が背中を軽く押したことだった。軽い衝撃に慌てて振り向いたところにある菊池の顔。
「まーた考え込んで。他は他。足下すくわれないよう頑張ろう!」
「うん」
一度立て直してもすぐに揺れてしまう自分にため息をつきつつ、知美は軽く頬を張って自分に活を入れた。その後すぐに入り口が開かれて各学校で固まって控え場所を兼ねている客席へと向かった。
* * *
客席に自分達の場所を確保して、男子が着替えている間に女子も更衣室で着替えに行っていた。寺坂や菊池など、何人かはすでにジャージ姿で来ているため更衣室に行く必要はないが、それでも男子が着替えている中にいるのは嫌だと一階に来ていた。
入り口から続いている通路。傍にまだ開いていない売店がある。いつも十時には開いていた。
「昨日さー、田野君と電話してたらいつの間にか二時間過ぎちゃってて……電話代さすがに怒られそう」
「彼氏できるって大変なんだね」
菊池の困っているように見せているノロケに知美は嘆息しつつ応じる。自分もまた、呆れているように見えて人の恋愛話を聞くのは楽しかった。自分にはしばらく縁がないものだと思っていることもあり、遠いもののように思える。
ぼーとしていた知美だったが、次の瞬間、目に飛び込んできた人影に息を止めた。菊池も知美の様子に気づいて視線を遠くに向ける。そこには見知った顔が二人。知美達を向こうもすぐには分からなかったようで、知美達が気付いてしばらくした後で気づいたかと思うと早足で近づいてきた。
「久しぶり」
「元気してたー?」
今北真美と今村幸華。
明光中の二年生にして、知美達の最大のライバルだ。一年次の学年別大会の決勝で争い、辛くも勝利できた相手。それでも、知美達のほうが運が良かったというほどにぎりぎりの戦いだった。
とろんとした目をした今村が緊張した面持ちの知美を見て、首を傾げながら尋ねる。
「どうしたのー? 別の中学同士だけど仲良くしよーよ」
「うん……そうだね」
知美はぎこちなく笑うがそれで今村は納得したのか、笑いかけて手をいきなり握る。それを何度か繰り返してから離した。
「今日は負けないよ。インターミドルでも結局当たらなかったし。学年別以来の対戦だよねー」
「お互いがんばろうね」
じゃねー、と軽い感じで声をかけながら今村が去っていく。その間に今北は一度も口を開かず、知美と菊池を見ていた。今の自分達を値踏みするかのように。
「あんな……キャラだっけ……」
「どんなキャラか分かるほどつきあい深いわけじゃないしね」
菊池の言葉に知美は頷く。
一番話したのも、全国バドミントン選手権大会道内予選のための選考を兼ねた合同練習。そこでレギュラーを争うライバルとして凌ぎを削りあったその時だ。そこでも知美と菊池が勝利してBチームとして出場できた。今のところ負けてはいない相手だ。
「知美はやっぱり焦りすぎだよ。油断はしないほうがいいけど、あの二人に一度も負けてないことは事実だし。気楽にしないと」
「分かってるんだけどね……」
知美の様子にため息をついて、菊池は歩きだした。どこに行くのかを尋ねた知美にトイレと告げて去る。一度頭をクールダウンさせた方が良いという判断だろうと思い、知美は心の中で感謝する。
ひとまず男子の着替えが終わったかと中に入って客席を確認する。ほとんどの男子が着替え終わっていて座って談笑していた。
(終わったなら言いに来なさいよね)
そう思い、歩きだそうとして知美は動きを止めた。
自分の行る場所の反対側。トイレの方向から朝比奈が歩いてきていた。まだ間に合う時間帯とはいえ遅刻だけに一言は言わなければと身構える。
「朝比奈さん」
「あ、寺坂先輩。おはようございます」
朝比奈の特に変わらない返事に知美も少しむっとした。少しだけ口調が荒くなる。
「今日八時集合って言われてたのに、遅刻したでしょ。気をつけてね」
「すみません。低血圧なんで朝は辛いんです」
平然と言ってから朝比奈は頭を下げて知美の傍をすり抜けた。何の変哲もないやりとり。謝罪も申し訳なさをちゃんと含んでいる。それでも、そこにある知美への「どうでもよさ」を感じ取れた。
(朝比奈さんは、私に何か言われても何とも思ってないんだ……)
去っていく朝比奈の背中を見ながら知美は考える。
自分は確かに朝比奈よりも一年年上で、先輩。しかし、だからといって何が偉いというわけでもなく。さらにはバドミントンの実力も相手の方が遙かに上。朝比奈が知美を軽んじても仕方がないのかもしれない。
(部長って、なんなんだろうな)
自分の存在意義は何なのか。どう考えたらいいのか。思考がまとまらない間に、準備が終わったフロアに人が集まり始める。早く準備しないと練習をする場所がとられてしまうだろう。
「トモ! ぼけっとしてないでいこうよ!」
トイレから戻ってきた菊池の声に我に返り、知美は頷いて自分のラケットバッグの置き場所へと戻る。そこには朝比奈も当然いて、一年に囲まれていた。今や一年の支持率は朝比奈が一番だろう。
(今は、試合に集中しないと)
部活の中での部長という役職。そこについている自分という前に、今はバドミントンプレイヤーとして頑張れるかどうかだ。それでも心がざわつくのを止められなかった。
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