最終話

「丞相、恐れながら申し上げます」

「楊儀か」

 現在、この蜀軍の中での文官の筆頭であり、諸葛亮の片腕として政務に励んでいるのがこの楊儀だ。他人の小さな落ち度まで指摘する癖がある為に武将との仲は悪いが、文官としての能力は頭一つ抜き出ていると言っても良い。

「確かに今回の大敗は馬謖に非がございましょう。しかし、殺すには余りにも惜しい能力を持っているのもまた事実。生きていれば必ず成果を出してくれる貴重な人材でございます。何卒、寛大な処置をお願い申し上げます」

 諸葛亮は僅かに口を開くが、声が出ない。再び口を閉じ眉間に深い溝を作った。

「丞相、都督の立場から異議を申し上げます。確かに、今回の北伐、馬謖の軽率な行動によって全軍が退却せざるを得ない状況となってしまいました。しかしながら、丞相の指令を待たずして、何よりもまず我が軍が街亭への救援に向かったか、お分かりでございますか?ただただ、馬謖の命を救わんが為でございます。今回が初陣、万を超える兵を託され、最初から重すぎる任であったことは誰の目から見ても明らか。この大敗は必ずヤツの大きな糧となります。命を削るような経験さえ積めば、馬謖はこの蜀を支える大きな柱となりましょうぞ」

 野太く通った声ではない。細く、消え入るような懇願の声だ。

 仲間の死を、自らの死以上に悼む。だからこそ魏延の兵も、魏延の為に死ねるのだ。粗暴で傲慢な質だが、魏延の魏延たる本質はそこであった。王平は、このとき初めてそれが良く分かった。

「一兵卒にまで落とし、この魏延に預けて下さいませぬか?必ず、この大敗をも超える勝利をもたらす将軍として、育て上げて見せます」

「……王平将軍、副将であった立場として、この処断をどう思う」

「私、でございますか?」

 諸葛亮に名を呼ばれ、王平の声は僅かに上ずる。

 全員の視線が集まった。地面に目を落とす馬謖以外の、全員の視線。王平はその場で膝をつき、額を下げる。声は震えていた。

「丞相は、間違っておられぬと思います」

「何故だ」

「私は軍人であり、馬謖殿もまた軍人であるから、としか申し上げようがございません。しかし馬謖殿はあの時、軍人ではなく丞相になろうとしておりました故」

 床につくまで下げた額。突如、頭上が騒がしくなる。喧騒。王平は額を上げる。

 目を真赤に腫らした魏延が、剣の柄に手をかけており、老齢の趙雲が魏延の腕を抑え込んでいた。自分は斬られそうになっていたのか。それを理解したとき、体が一気に冷え、汗が噴き出した。

「魏延!落ち着かんか!!」

「趙雲殿っ、仲間を殺したくないという、ただそれだけの願いなのだ!それを何故止めるのですっ!王平、貴様は今、馬謖に死ねといったのだぞ!?」

「魏延!!今お前が斬ろうとしているのもまた、仲間ではないのか!?」

 ようやく魏延の抵抗は収まった。ただ息が荒く、額に浮き出る血管は今にも破裂しそうだ。

 趙雲は魏延を放した。趙雲子龍、蜀で最も古い臣下である。その武名は中華全土に轟き、槍を使わせたら右に出る者はいないとまで言われる天下無双の豪傑であった。髪は白く、肌も乾いているが、一騎打ちなら未だに魏延にも勝る力を持っている。

「王平は何も間違ったことは言ってはおらん。国と国との戦じゃ、誰か一人の過ちで全てが覆る事もある。今回、馬謖が許されたとしよう。しかしまた今度、違う誰かが過ちを起こすかもしれん。軍の流れとはそういうものだ、だからこそ断ち切らねばならん。未来に繋がる仲間を殺さない為に、過ちを断つのだ」

 軍議は、これで終わりだった。魏延は最後まで助命を請うていたが、恐らく、難しいだろう。

 孔明は馬謖だけを残し、全員に退出するよう命じた。


「馬謖、痩せたな。この数日で、格段に」

「食べ物も、水も喉を通りませんでしたので……」

「そうか」

「先生もお痩せになられております」

「実感は無い、自分では気づきにくいのだな」

「左様ですか」

「馬謖」

「はい」

「苦労を掛けた」

 二人の間に流れる空気は、まるで親子のそれと同じであった。流れるように、どこか暖かい。

 気づけば涙が出ていた。しかし馬謖はそれを隠すでもなく、孔明に視線を向け続ける。

「私は先生の期待に応えることが出来ませんでした。苦労を掛けたなど、仰られないで下さい」

「……道ではなく山を取った、その訳を話してみよ」

「はい」

 死を覚悟して、馬謖は開き直ったかのように自分の考えを語りだす。山に陣を張れば、敵を引き付けることが出来ること。自らを囮の死兵とすることで、長安奇襲を十分に助けることが出来ること。そして何より、諸葛亮孔明に天下を取ってほしかったこと。普段の様に理路整然と言葉を並べる。

「この戦況で最も困る敵の動きが、街亭に攻め込まずに退却することだと思いました。だからこそ布陣で愚を選び、敵を引き付け、山の利を生かす戦法で戦い抜くことを決めました。街亭が落ちるものだと分かれば、先生の本隊は兵力をそのままに長安へ進軍出来たはずなので」

「長安への奇襲。勿論、お前がそれを考えていることは分かっていた。大胆だが、戦略も理に適っている。しかしお前は決定的な見落としをしていた」

「と、言いますと」

「魏の皇帝の曹叡の力量、そして、司馬懿の才知。この二つだ。曹叡は若く、即位して間もない。だから皆が勝手に曹叡をただの若造だと思っているが、決して若いだけの皇帝ではないと私は見ている。政争に敗れ、ただの資産家となり下がった司馬懿を再び抜擢したのは間違いなく曹叡なのだ。さらに戦に自信があるからこそ、敢えて長安の傍に大軍を置いていない。長安奇襲は一瞬で落とさないと包囲を受ける危険な賭けであると私は言った。それは曹叡が暗愚であるという前提でもっての策なのだ、もし多少でも抵抗が出来るような器であれば全てが崩れる。だから私は奇襲を良しとしなかった」

「司馬懿の才知の方は、どういうことでございましょう?」

「私は、お前にだけ一度こう漏らしたな。軍略では司馬懿の方が私より上手だと。だからこそ、私は安全策を取り続けてきた。奇襲は読まれたら最後、大きな損害を生むからだ。馬謖よ、街亭でお前が戦っているとき、司馬懿がどこに居たか知っているか?」

「司馬懿軍は、私が対峙していたはずです」

「見せかけ上はな。しかし後の情報で分かったが、あの司馬懿軍を率いていたのは、奴の息子の司馬師と司馬昭の二人だけだった。司馬懿はひっそりとビ城へ入っていたらしい」

「な……」

「これでも奇襲は成功しただろうか、馬謖」

 恐らく、成功しなかったであろう。

 奇襲で本隊が長安へ向かったとしても、ビ城より数万の守兵が行く手を阻む。その数は少ないとしても、司馬懿が指揮を行えば、行く手を阻む程度の事は難なくやり遂げてしまうだろう。そして、奇襲の報を聞きつけた張コウ軍や曹真軍が追撃してくるまで耐えれば、蜀軍は退路を断たれ大打撃を被る。

 だからこそ諸葛亮は、足場を固めながらの総力戦へ持ち込もうとしたのだろう。勝利を重ね、流れを掴む。しかしそれを、自分の軽率な行動で崩してしまった。

「全て、私は司馬懿の手のひらで踊っていたと、そういうことですね」

「それは私も同じなのだ。しかし、お前は経験が足りなかった、その一点だけだった。趙雲将軍に言われた、馬謖に任せるには早すぎたのだと。魏延の言う通り、お前はこの敗北を糧に良き指揮官になる。本当に死ぬべきなのは私だ。お前のその才能を愛して、勝手に期待を押し付け、そしてお前を知らぬ間に縛ってしまっていた、私に全ての責任があるのだ。楊儀が抗議を立ててきたとき、思わず礼を言いたくなった。魏延が王平に対して剣を抜こうとした時、心底、私を斬ってくれと叫びたかった。どこに、息子の様に愛した人間を斬りたいと思う親が居るのだ。それでも私は丞相として、私の代わりに、お前を斬らねばならない」

「違います先生。私は、私の力量が足りず大敗してしまった為に死ぬのです。何一つ先生は関係ありません」

 諸葛亮の目から涙が落ちる。もう、馬謖は目を合わせることが出来なくなっていた。これ以上目を合わせていれば、きっと、もっと傍で学びたかったと言ってしまいそうだった。

 この北伐は国の総力を挙げての戦いだった。だから、失敗の責任は誰かが取らなければならない。必ずだ。そうして、文官武将や民達の国への不満を払拭する。国とは、そういうものだ。

「……最後に、何か望みはあるか?」

「先生、どうかお体をご自愛ください。私の望みはそれだけにございます」

「分かった……お前の死は、この蜀の為に役に立つだろう」

「ならばこれ以上の喜びはありません。先生、今まで本当に有難うございました」

 もう、声を出せなかった。諸葛亮は目を伏せ、声を押し殺し、手を払った。

 馬謖の足音が遠ざかり、静寂が体を苦しいほどに締め付ける。嗚咽を漏らしながら、歯を食いしばり叫ぶ。立ち上がって何度も文机を蹴とばし、何事かと慌てて入ってきた数人の従者に両腕を抑えつけられた。

 既に、心を許せる者の殆どが死んでしまった。そしてまた、馬謖も死ぬ。諸葛亮は大きく泣き叫んだ。


 数日後、馬謖は国の広場で、戦犯の汚名を被り首を斬られた。

 天気は生憎の雨であった。罪人の首を斬るのは獄卒の仕事なのだが、魏延の申し出によって、馬謖の首を斬るのは魏延となった。

 その時、諸葛亮はその場には居合わせてはいなかった。蜀の丞相としての仕事は山のようにある。敗戦によって受けた大きな損害を補う為、例え一瞬でも立ち止まることが出来ないのだ。しかしそれはやはり建前で、どうしても、目の当たりにしたくはなかったのかもしれない。

 夕刻を過ぎ、雨と血に濡れた魏延が面会に来た。

「馬謖は、最後まで何一つ恨み言を述べず、蜀の軍人として死を受け入れました」

 簡潔にそう報告し、退室する。

 魏延の表情は、明らかに不満の色が見て取れる。自分の方がお前より辛いのだと、諸葛亮はそう激怒したい気持ちをぐっと抑えなければならなかった。

 雨はまだ、しきりに降っている。いつも傍にいたはずの話し相手を失ったのだと、今更になって実感を帯び始めた。

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泣いて馬謖を斬る 久保カズヤ@試験に出る三国志 @bokukubo_0123

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