エピローグ
朝起きて、制服を着て、学校に通う。
こんな日常の動作の中でも、生活の中にぽつんと空いてしまった空白を気にしてしまう。
私はいま、兄が消えてはじめての春を体験している。
兄は変わりものだった。周囲と馴染もうとせず、孤独も苦痛も表情に出すようなことはなく、妹である私を支えることにだけ情熱を傾けるような、変わった人。
私はそんな兄が大好きだった。兄がいれば、他はすべて要らないほど。
でも、兄は消えた。自分がやりたいことを見つけ、自己を手に入れ、姿を消した兄の行方は誰も知らない。音信不通で消息不明。それが両親を含む、私の家族全員のステータス。
何も知らない世間からみれば、私は社会的には幸せなのだろう。
一度ドロップアウトしたにも関わらず、再び社会に受け入れてもらえた薄幸少女。
私だって同じ境遇の人間をみたら、そう思うのかもしれない。そうあるべき、と判を押されたステレオタイプの人間性をその人に求めてしまうのかもしれない。
ところが実際になってみれば、こんなステータスは窮屈でしかない。
折衝を起こさないようにつまらない期待通りの人間を演じてはいるものの、こんな生活は窮屈で退屈ですぐに飽きがくる。そのくせ、世間ってやつは一時的に大きく話題にする割に飽きたらすぐに捨てる。こちらだけがレッテルを一生抱え込まなければならない不条理。
正直、今すぐにでも暴れてやりたかった。
クラスの中心人物が考えていることを読み取って晒し上げるSNSの捨てアカウントを作ろうか。先生の監督不行き届きを露呈させれば勝手に噛みついてくれる保護者はいるだろうし、政治家や官僚の裏の考えなんて鯉に餌を与えるように食いつくだろう。
パーッと暴れて、パーッと消えて。
そうすれば、私もようやく家族の一員になれるかもしれない。
そう考えたことがないといったら嘘になる。
それでも、まだ実行に移したことはない。同級生のつまらない女生徒が陰口を叩いていようと、男性教師にセクハラ紛いの目で見られようと我慢している。
子犬のようにきゃんきゃんと喚く同級生も。猿のように騒がしい教師も。
無視していればいい。眼中に入れなければいい。私ならきっと苦悩すらも隠し通せる。
そう思っていたのだけれど、正直我慢の限界は近い。
兄がいれば。兄がいればすべて報われたのに。兄がいれば不幸も一瞬で忘れられたのに。
兄がいれば兄がいれば兄がいれば兄が兄が兄が。
そんな兄は、もういない。不在のまま春を迎えて、私は三年生になってしまった。
「ん」
制服は変わらないけど兄に一番に見てもらいたかった、そんなことを考えていた時。
始業式の日に、美里叔母さんから便箋を差し出された。
手紙に書かれている内容を読んで――私は学校をサボろうと決意した。
短い言葉とともに便箋を差し出したこの女性の尽力あってこそ、私は三年生に進級することが出来たし、彼女が定めたルールのおかげで私は暴れずにいられているのだから、感謝こそすれ適当に扱っていいはずはないのだけれど。
こんなものを見せられた以上、叔母さんのことを気にかけている余裕はなかった。幸い、叔母さんも私がどうなるか予想はついていたようで、驚いた様子すらない。
ドタバタと速攻で準備を進める様子は、映像データの早送りのように。急ぎながらも、衣服を整え朝食を摂り「いただきます」と手を合わせ「ごちそうさま」と再び手を合わせて食器を下げる。どれだけ急いでいようと、身体に染み付いた習慣は崩れない。
歯を磨いて、身嗜みをチェックすれば準備完了。あと出かけるのに必要なのは一工程。
「叔母さん、行ってきますねっ!」
「いってら~」
「今日はご飯は?」
「外で食べる~」
今日はやけにゆっくりと、もぐもぐと咀嚼しながら叔母さんが答える。
これも当たり前の日常のワンシーン。そこにあることが当たり前の幸せ。
さあ今度こそ準備は完了だ。徒競走のランナーのようにスタートを切る。扉を開けて、全速力で走り始める。階段を何段か飛ばしながら駆け降りる。
本当はこんなにスピードを出す必要はないのだ。でも止まらない。
兄からの手紙だ。
足は止まらず回り続けて。それ以上に心臓の鼓動が収まらない。この興奮を全身で発散しなければ、体内で留まっているエネルギーで身体が爆発してしまいそう。
そんな感動を抑えるすべを私は知らない。抑える必要なんて、きっとない。
駆け出したはいいものの体力が続かず、目的地まで歩いて向かうことに予定変更した。突発的な行動に予定も何もないけれど。ペースが変わっても興奮は変わらず、心臓は早鐘を打ち続けている。
叔母さんから受け取り、離すことなく握りしめていた手紙に目を落とす。
兄からの手紙には、数枚の写真と、一枚の便箋に短い文章が書いてあった。
写真には、知らない老人や子供と笑顔で一緒に写っている兄の姿があった。かつては自分にのみ向けられていたその笑顔が見ず知らずの人間に向いていることに心が痛んだ。
これは、嫉妬だ。蛇が教えてくれた、最初の感情。
しかしそれを抱き続けることが無意味であることは分かっている。既に兄は私から離れ、私達の縁は薄くうすく引き伸ばされているに過ぎず。どんな感情も届かない。
私が兄の信頼を失わない限りは、絶対に。
あまりにも距離が離れすぎているのか、兄の心の声は聴こえない。
聴こえたとしても、どんな感情が生まれるのか、どんな表情になるのか予想もつかない。
兄の安否が確認できたのは喜ばしいが、胸中としては複雑だった。
兄の手紙に書かれた内容は非常に淡白で、元気に生きていること、知らない人と関わりあえていることが書いてある程度だった。兄らしいといえば兄らしい。あの人は自分の感情を表現することが苦手だったから。
貴重な情報だったのは、P.S.という形で書き加えられた一文だった。
「もし心配なことがあればこの住所の事務所を訪れてください」
その住所に何があるのか、私は知っている。
そこで何かがあったこと、そこに兄に繋がる何かがあることも分かっている。
分かっていながら、避けていた。
私の知らない兄に触れるのが怖くて。私より兄に詳しい誰かと関わるのが恐ろしくて。そして何より、兄を変える一因にもなった教主とかいう女性が、気に入らなかったから。
私はアラヤ教のビルの前に立つ。
パーッと暴れて、パーッと消えて。
刹那的に生きる前に、一度だけ兄の幻影に触れておくのも悪くない。
「君が妹ちゃんかい。お兄さんにそっくりな目をしてるね」
新興宗教のトップだと名乗るジャージ姿の女性は私が来ることを見透かしていたかのように、驚く様子もなく警戒する姿も見せず、ただ意地悪い言葉を吐いて私を出迎えた。
「はじめまして。まず挨拶からって習わなかったんですか?」
「固いこと言うなよ、私たちはもう腹の裡を明かし合った仲じゃないか」
「お互いが一方的に覗きあってるだけですよね」
「てことは私のこともある程度知ってくれてはいるわけだ、今後ともヨロシク」
ニヤニヤとした笑顔の裏でこの人が考えていることはシンプルだ。
――面白くかき乱そう。
兄がこの人とどう付き合っていたのかは知らない。けれど、少なくとも私の目から見ればこの人は危険だ。たいした感情の揺れもなく人を殺しそうな怖さがある。
「兄の話をしにきました」
「君はブラコンらしいからね」
「もう卒業しました。急にいなくなる人なんて信用できないもの」
「君の両親みたいに?」
「かつての私みたいに、です」
ここには兄の話をしにきた。そして、過去の近江咲良の清算を。
「私は兄を一方的に見限りました。その懺悔をさせてください」
話を聞くのがお仕事だと伺いました、と加えると教主は嬉しそうに笑った。
きっとこの人は、愚か者が大好きなのだ。
「行き違いは誰のせいなのでしょう? 兄が変わったから? 私が順応できなかったから? それとも変化のきっかけになった貴女達のせいなのでしょうか?」
「君の考えを先に聞きたいな」
「私は……私は、兄のせいにしました。それを後悔しているから、こうしています」
「では、悪いのは君だったと?」
「私が兄のことを誤解しなければ、別離は起こりませんでしたから」
「……後悔は分かった。じゃあ次はお兄さんを批難してくれ。放っておくと、君はずっと自分を責めていそうだから」
「……兄はどうして私から離れたのでしょう。どんな気持ちで私を絶ったのでしょう。それが、私には分かりません。抱きしめられた瞬間、あんなにも幸福だったのに」
「君が思いつく限りでいい。理由を想像してごらん」
「私が兄を見限ったから、私が兄を信じなかったから、私の愛が足りなかったから……」
考えるうちに辛くなって、視線が机にぶつかる。下に下に、沈むように。
「まあそれだろうさ、悩みの原因は」
正面の椅子に座っていたはずの教主は、いつの間にか立ち上がっていた。どころか、歩を進めそのままベッドに倒れこんだ。私の懺悔なんて、どうでもいいかのように。
「……どれですか、どれが兄を離れさせたんですか?」
「違う違う。私が言ったのは、君が悩みに捉われている原因さ」
涙を拭いなよ、とハンカチを放り投げてきた。
自分が泣いてることにすら、気づかなかった。
「彼もいい加減に言葉が足らない。そういうタイプの人間だってのも分からんではないが、後始末を私に任せるとはいい度胸だ。かわいくない方向に成長しやがって」
何を言っているのか、理解に苦しむ。教主は常に私以外の誰かと話しているかのようだ。
「涙を拭き給え、悲劇のヒロインくん。普段は嫌味で用いる表現だが今回はそのままの意味でしかない。ヒーロー気取りの周囲で損を被るのはいつだってヒロインだからね」
「気取りなんかじゃないですよ……きっと」
「いやいやまだまだ半人前のヒーロー気取りさ。女の子を泣かせるうちは永遠に……ああでも、最近は強いヒロインが求められがちだから、君も変わるべきかもね」
だからさ、と教主だけが言葉を続ける。どう見ても怪しい人なのに、彼女の言葉には不思議な説得力があって、聞き入ってしまう。
「他人に迷惑をかけたくなくて縮こまってた自分嫌いのガキが、ようやく自分を出せるようになったんだ。見守ってやる方が、愛を感じると思わないか?」
兄が何を望んだのか。兄はなぜ変化を求めたのか。ようやく答えに辿り着けた気がする。
ヒーローは、夢を追いかけることは、兄の純粋な願いだったのだ。
幼い頃から屈折し、歪曲し、抑圧されながらも大事に抱えてきた夢の卵。
それが孵る時が来た。それだけの話。
「じゃあ、私は……兄の邪魔だったんでしょうか……」
兄の成長を素直に喜びたい感情と対立するように、自分の愚かさを責める感情が湧き上がってくる。私の気持ちは、私の愛は、兄を縛る鎖でしかなかったのではないか。
自らを罰するように、顔面に爪を立てる。疵を残すように。罪の印を刻むように。
そんな無意識のうちに動いた手も、気が付けば教主に目の前の女性に止められていた。
いつベッドから移動したのか。そんなことを気に掛ける余裕はなく。覚えているのは直後に告げられた温かい言葉と、手渡された一枚の写真のことだけだ。
「自分の愛まで否定することはないよ。君の愛は、他のどんな感情より美しいんだから」
それだけで、全てが報われた気がした。
今までの人生の辛かったことも苦しかったことも、全てが清算されたような。
きっと、今この瞬間に頭を拳銃で撃ち抜いたら気持ちいいだろうなあって。
そんなことを考えてしまうほど、積もり続けた心の中の闇が洗い流された。
「これからの未来は、そっち」
彼からだよ、と告げた教主は再びベッドに寝転んでいた。
手渡された一枚の写真。そこに写るのは日本中どこにでもありふれた何でもない写真。この季節ならば、なおさらだろう。そこには、掌にのった一片の花弁が写っていた。
花の種類は、桜。
日本人なら誰もが知っているその花に、その写真に、私だけが特別な意味を見出した。
「彼はなんて言ってる?」
教主の言葉に、涙を拭って答えた。今度は笑顔で答えよう。笑顔で未来を迎えよう。
「約束覚えてるよ、だって」
あの日、両親がいなくなった日に、公園で見つけた桜の花びら。
約束の意味は――。
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