6


 ぼくと咲良。ぼく達二人の兄妹の関係を作り上げたのは、今はもういなくなってしまった両親だといえる。あの人達が温かく、寛容で、慈愛に満ちるとまでは言わないものの互いと身の回りに少しでも愛を注げる人間だったならば、ぼく達はこんな人間にならなかっただろう。他人の目を過剰に意識することもなければ、世界で唯一の平穏を妹や兄に求めるようなこともなかっただろう。

 ぼく達はあの人達によって作られた。そこに今更怒りも憎しみも感じはしないけれど、それでもあの日の静寂だけはこの身に深い傷となって刻まれている。

 両親が蒸発して、帰っても誰も迎えてくれない家庭。そこに存在した暴力にも近い方法で孤独を感じさせる静寂は、今でも頭の中で再現できる。

 同時に、あの日からぼくの世界に静寂はなくなった。常に脳内でざわめく誰かの声は、ぼくの世界を静寂から最も遠い存在に仕立て上げた。他人の心の声が聴こえて、ぼくは自分が嫌いになり、より深く咲良を愛した――他人への興味を代償として。

 けれど、それでは不十分だった。兄としてではなく、家族としてでもない。誰かのための役割を果たせていなかったわけじゃない。ぼくは人間として欠損していた。自分のためを想えない、自分の希望を優先させられない欠陥品として成長してしまっていた。

 友のおかげでぼくは変わることができた。

 自分が何をしたいのか。自分はどうありたいのかを見つめ直すことが出来た。

 だからそれを伝えよう。ぼくに許されたのは自分の自由意思を伝える勇気であって、それに咲良を付き合わせようという傲慢ではないはずだ。

 ぼくに本当にできるのだろうか。咲良の部屋の前に立ってそんなことばかり考えている。悩んでいるかのような体で、立ちすくんでいる。

 この扉をノックすれば世界が変わる。そこに善悪の意思はなく、最善と最悪が両極を占める物差しが結果を決めるだけだ。ぼくの意思は咲良の決定に依存せず、咲良の解釈がぼくの決意を曲げることもない。善悪に関係なく、ぼくは自分の意思を伝えよう。

 十分弱ほど立ちすくんでいただろうか。ぼくはようやく決心する。

 ぼくと咲良の世界を壊そう。それがすなわち、ぼく達の世界を救うことに繋がる。


「ぼくにまたチャンスを与えてくれてありがとう」

 前回の失態を見て、咲良には完全に失望されていてもおかしくなかった。

 けれど、咲良の部屋を開ける腕に抵抗が伝わってくるようなことはなく、彼女の世界がそれを求めるかのように、ぼくは容易に受け入れられた。

「前回からたくさん自分を振り返ったよ。たくさん話したいことがある」

「私には別にありません。兄さんの信頼と抱擁さえ頂ければ、言葉は不要です」

 端的な否定には取り付く島もないが、咲良の言葉は予想できていた。

 きっと、咲良は変化を恐れているだろうから。両親が消え、ぼくが変わり、世界の見え方まで変わってしまって。混沌の世界の中で変わらぬ安寧を求めていたのだろう。

 長い間、ぼくがその役割を担ってきた。だからぼくが求められていて。ぼくが平穏を与えてあげれば、抱きしめてあげれば彼女は満足するだろう。

 咲良が満足するように、何も語らず、彼女の望む姿を演じる。

 今までのぼくならきっと、そうしていただろう。

 でも、それじゃあ何も変わらない。どこにも行けないんだ。

「要らないといわれても、一人で話すよ。これは話さないといけないことだから。ぼく達が変わるために必要なことだから」

「聞きたくないとは言っていないんですから、好きにお話ししてください。兄さんの話を聞くの本当に久しぶり。ずっと聞いていたいっていうのも、本心なんですよ?」

「嬉しいよ。それじゃあ、まずはぼく達の秘密の話からだ――」

 ぼくは語り始める。

 咲良がどんなリアクションをしているか、今度はその顔から眼を離すまいと誓いながら。


 自分や咲良に起きている現象については、発動条件や効果対象のことも含めてすべてを公開した。それを語るには教主の話は避けられなかったが、咲良はそちらをあまり気にしているようには見えなかった。効果対象――信頼しているものの声は聴こえない――という話の方が気にかかったようで、瞳に宿る強い意志にわずかに動揺が見て取れた。

 傷つける覚悟はしてきた。傷つけられる覚悟なんて生まれたばかりの咲良をはじめて見た瞬間には持っていた。けれど、ぼくに咲良の声は聴こえていないという事実を伝え、咲良の顔から血の気が引き青ざめる様子を見てしまうと、自分の甘さを痛感させられる。

 

 環や遥との出会いについて、本当は今更語る必要なんてなかったのかもしれない。ぼくが変われるかもしれないと淡い可能性を感じ、実際そのきっかけになったぼくの友人たる兄妹のことを、咲良はもしかしたらぼくを奪った人間として恨んでいるかもしれないのだから。

 それでもぼくは語らなければならない。ぼくの視点で、ぼくの感情で、彼らとの間にあった物語を伝えなければならない。咲良との対話がどのような形で終わったとしても、誤解によって生まれる悲劇を観たくないと思うから。誰の悲鳴も、聴きたくないから。

 咲良の表情は動かない。それは彼女が冷酷だからでも非情だからでもないのだろう。無感情。蛇が教えた外界の人間に対しての感情さえも押し殺し、咲良は無感情であろうとしている。それが最も変化を生まず、外界との接触を持たず、彼女なりの幸福に直結するから。

 

 ぼくが咲良に最も伝えたいと思っていたのは、その彼女自身についてのことだ。

 近江咲良。ぼくの最愛の妹。

 ぼく達は近かった。あまりにも近くて、お互いの感情をうまく言葉に出して表現できていなかったのではないかと今は思う。それは信頼であると同時に、怠慢だったのだ。

 咲良を二の次にして語ることなどない、と先日までのぼくなら考えていた。今でもその考え方が完全に抜けきったとは思えない。視界は狭まり、思考は固定化されているのだ。

 十七年。ぼくが生きてきたこの短い人生すべてを振りかえって咲良への想いを語る。

 伝えたいことはいくらでもあった。咲良への愛を語り始めてから時計の長針は半周した。ぼくの生きる理由でもあった彼女を語ることは、ぼく自身を語ることであり、誰にも話したことのない思いや感情が咲良への愛とぐちゃぐちゃに混ざってしまったので、真っ直ぐに届けられたかは自信がない。立ち直っても更生しても、ぼくは屈折した人間だから。

 でも純粋な気持ちとして伝えることはできたと思う。

 それを否定してしまえば、咲良が静かに目元から拭った雫すらも否定してしまう。

 

 話題は“今までの咲良”から“今の咲良”へと移り変わる。

 それらが別のものなのかどうか、区別する必要はないのかもしれない。本質的には同一の人間が連続しているのだから。戸籍上のデータベースにだって何の変化もないのだから。

 でもぼくは区別する。十四年間、自分の妹として咲良を可愛がり、見守り、愛し続けた女の子の大切な変化として。振り返られる過去の一点にするために。

 そして差別化した。最悪の兄に歪められる前後の妹を比較して、どちらがいいかと評価させてもらった。人格的には、変わる前の方がかわいいものだっただろう。優等生で、迷惑もかけず、人を立て、和を貴ぶ人間性を否定できるほど、ぼくは優れた人間ではない。

 だけど、人間らしいのは“今の咲良”だ、とぼくは断言した。

 兄の変化に歪められ、社会の輪に入ることに価値を見出せず、独善的かつ独占的で、他人の心が読める妙な力を持ってしまった、世間から見れば可哀相な女の子。

 だけどそんな人間性も、無自覚に抑圧してきたものだったに違いない。

 兄に捨てられないように、社会から外れないように。周囲の目を気にすることが出来てしまったがゆえに、重荷を抱え込んでしまっただけ。

 それを生み出したのだって、不出来な兄のせいなのだ。

 ――ぼくが咲良を、欠陥品にしてしまったんだ。


「だからぼくは咲良を抱きしめられなかったことを後悔してる。今の咲良も、愛してるから」

「兄さん、その言葉だけでも、私は……」

「今すぐ抱きしめたい。でもあと少しだけ待って。最後に――ぼくの話をするから」


 ぼくは欠陥品だ、と言うぼくの声をもう咲良は聞いていないかもしれない。

 涙を堪え切れなくて、嗚咽を抑えようと頑張っているから。

 でも、ぼくは独りで語り続けようと思う。目の前の少女が泣いているように、多くの人間がぼくにSOSを届けていると知っているから。ぼくと同じように壊れてしまった人々に向けて語り続けよう。お悩み相談に答えるラジオパーソナリティーのように、声に、周波数に乗せて続けよう。誰かに奇跡的に届いていたら嬉しいし、届いていなければ自己満足だ。

 ぼくは、それでいい。真っ直ぐ行って、胸を張って生きれば、自己満足でも構わない。

 ここからは、ぼくの話――そしてもしかしたら、君の話だ。

 ぼくには夢があった。だけどぼくは欠陥品だ。心に致命傷を負っていて、普通の人と同じようには生きられない、自己嫌悪と劣等感の塊。それがぼく。

 ぼくは社会不適合者で、人間失格だ。同じように自己評価を下している人間がこの世界にはごまんといるに違いないが、ぼくはきっと彼らの百倍重症だ。

 なぜってぼくは大事な人の手を握れなかった。震える体を抱きしめてあげられなかった。

 そのくせそれを後悔し続ける、女々しさだけは一流の根性なし。

 ただぼくは――人に恵まれた。友人や、保護者に恵まれた。

 カッコ悪いぼくを見て友達が放った言葉がぼくに刺さっている。

「泥臭く生きろ」「真っ直ぐ行け」「胸を張って生きろ」

 できれば苦労しないって、ぼくだって思った。

 でも同時に、出来たらカッコいいな、って思ってしまったから。

 ぼくは諦められなくなった。夢を追い続けたくなった。

 欠陥品だとか、社会不適合者だとか、人間失格だとか。

 そんなことを言い訳にはしない。

 受け入れられなくても嫌われても、一切報われなくても人と関わることを諦めてはいけなくて。救いを求める声があれば聴こえるなら迷わず手を伸ばせる人間になりたいと思ってしまったから。

 空は飛べなくて、物も浮かせられない。派手な能力はなくて権力も経済力もない。鉄合金の肉体も、鋼のメンタルもなければ、変身もできない。

 だったらぼくは――人間でいい。


「人間のまま、咲良のことも助けたいって思うんだ」

 咲良が一番知っているであろう、ぼくの話。

 けれどこれは、咲良も知らない、これからのぼくの話。

 すっかり目を腫らしてしまっていたけれど、少なくとも目の前の女の子には届いていた。

 ぼくの言葉を受け、驚きと期待を浮かばせた表情の妹に近づいていく。

 一歩。一歩。

 昔は一切感じなかった距離を踏みしめながら、ぼくはようやく咲良を抱き締めた。

「………………にいさん」

 咲良が胸の中で小さくぼくを呼ぶ。

 分かってる。咲良の望みはもう、分かってるから。

 言葉にはせず、先程よりも抱き締める力を少しだけ強く。

「ん……」

 幸せそうな少女の吐息が漏れる。

 嬉しい。咲良の幸せはぼくの幸せだ。

 あと少し、あと少し、と自分を甘やかそうとする自分がいる。

 胸の中の吐息も、柔らかな肌も、人肌の体温も、すべてが愛おしい。

「でも、この手だけは放さないといけないんだ」

 抱き締めた腕を解き、咲良から距離をとる。腕に残るわずかな温もりが急激に大気に奪われていく。咲良の笑顔とともに。

「兄さん……?」

「咲良、ごめん。心から愛してる。ぼくの人生でお前以上の理解者はいなかった。今までの人生で咲良だけを信じて生きてきた。だから一度、咲良とはお別れだ」

「なんで……?」

「ぼくはヒーローになりたい。多くの人を助けたいんだ」

 自分の夢を貫くにはこうするしかない。咲良に語り始める前に、覚悟を決めたのだ。

 掌の中の幸せを手放して、再び掴める確証はないけれど。

 自分に嘘を吐かないためには、これが最も理想に近いものだと。悩んで迷って、選択したのだ。

「……しは……私は……」

 咲良には責められても仕方ない。どんな批判も受け止める覚悟だ。

「私はただそばにいてくれるだけで幸せだったのに……」

 責めはしない。怒りもしない。そこにあるのは純粋な悲哀。

 咲良の瞳から流れる透明な雫があまりにも綺麗で、感情の全てを内包していた。

「…………ぼくは」

 本当はこれ以上何も語らずに去るつもりだった。ぼくが咲良を過去に縛り付ける鎖にならないように。二人一緒に沈まないように。

 そしてなにより、それが最も咲良の美学に適うと思っていたから。

 けれど純粋な涙を見て。それに応えたくなった。応えねばならないと直感した。

「ぼくは咲良に救われた」

 咄嗟に出た言葉は思いつきの言葉でもあり、純粋な気持ちでもあった。

「咲良がいなければ、ぼくの世界は空っぽで、もっとつまらないものだっただろう。だから、ありがとう。ぼくの世界を満ち足りたものにしてくれて、ありがとう」

 溢れ出た言葉は感謝と、誓いだった。

「咲良の声は絶対に聴かない。ずっと受信できないままだ。それを以て、永遠の信頼を咲良に誓うよ」

 そしてぼくは咲良の顎を軽く持ち上げ、彼女の額に唇で触れた。

 これがぼくなりの感謝と誓い。

 ぼくは振り返って咲良の部屋から出る。咲良から呼び止める声は聞こえなかった。

 家の外に出れば木枯らしがぼくを迎え入れた。張り詰めたような乾燥した空気を大きく吸って、ぼくは自分がまた生まれ変わったと確信する。

 自己嫌悪の叫びは鳴りやまない。救難信号の正体も分からないまま。すべてが解決したわけではない。けれど、ぼくを原点に立ち戻らせる子供の声は聞こえなくなった。

 何が正解かなんて誰にも分からない。だからせめて自分が納得できる最大限を目指して。

 ふっと意識が持っていかれる。また知らない誰かの救難信号だ。まずこの人を助けよう。

 ぼくは誰にも見送られず、終わりのない旅に出た。

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