5


「――――じゃあ、学校行ってくるよ」

 日課と化した一時間が終わり、今日もぼくは無力感を覚えながら咲良の部屋の前からいなくなる。自分が求められていないことに耐えられる限界の時間だった。

 咲良が自室に引きこもり始めてから、一か月が経過していた。

 いや、この表現は正確ではないだろう。

 咲良がぼくに姿を見せなくなってから一か月、だ。

 暦は十月に入り、残暑という言葉もさすがになりを潜め、むしろ肌寒さを感じる季節になった。ぼくは制服の冬服に着替えながら、咲良に宣言した通り、学校に行く準備をする。

 家のドアを開くと朝の冷たい風が肌を打つ。寒さに体を震わせながら鍵を閉める。咲良がまだ中にいるのに、咲良のそばには誰もいないのに。

 妹のそばにいてやれない自分が、何よりも嫌で、誰よりも嫌いだった。



『咲良ちゃん、アンタに会いたくないらしいわ』

 咲良が姿を見せなくなった翌日、美里叔母さんから珍しく着信があった。ぼくも知らない、咲良が引きこもり始めた理由を彼女は知っているのだろうか。

『そんなこと、アタシは知らない』あっさりと突き放された。

『知らないし、分からない。そして、分かろうとするつもりもない。アタシがアンタたちを引き取った時に言ったこと、覚えてるよね?』

 忘れるはずもない。家族になったぼく達の唯一のルールだ。

 ――アタシに迷惑かけなければ自由にしていいから。

 今回の件は、明らかなルール違反だ。

『覚えているならよろしい。賢い千春なら、処遇についても考えてるかもしれないけど――早とちりするな、今回の件は迷惑なんかじゃない』

 予想外の言葉に息を呑む。

『この程度、迷惑じゃない。咲良ちゃんの学校関係のことはアタシがなんとかしとく。なんとかできる範囲で、ね』

 叔母さんが、今まで以上に頼もしく見えた。

『でもまあ、問題解決となると迷惑ではないにしても、面倒かもね。アタシ、面倒はキラい。だから千春、この問題はアンタが解決しなさい』

 その言葉に根拠はなく、ぼくの自由意思もない。ただの命令。

 けれど、そこには言外の信頼が含まれていた。

 ぼくなら咲良を助け出せる。ぼくなら咲良を元の生活に戻すことができる。

 あらゆる可能性と、期待が詰まっていた。

『アタシはアンタたちに深入りしない。その方が楽だし、アンタたちにとってもそうだと思えた。アタシの入る余地はない。これはアンタと咲良ちゃんの問題なの』

 問題解決には寄与しない会話。咲良の精神に介入することもなければ、問題の根源を掘り起こすようなこともなく。けれど間違いなく、ぼくにとっての推進剤。

『千春、折れるなよ』

 前に進め、と背中を押してもらう。

 咲良への献身を削がれたいま、ぼくに生きる価値なんてない。そう思っていた。

 でも、諦めるにはまだ早い。咲良の口から直接拒絶されるその日まで。ぼくは地面を這い蹲ってでも咲良と関わり続ける。それがぼくの愛だ。ぼくの、愛の形だ。

『じゃあ後は任せた……あ、今日は早く帰れそう。カツカレーがいいです』

 ごめんなさいもありがとうも受け取らないまま、プツっと電話が切れる。仕事に戻ったのか、照れ臭かったのか、謝罪も感謝も必要ないと思っているのか。

 どれが正解にせよ、やっぱり叔母さんはカッコ良かった。

 叔母さんに拾ってもらえて、ぼく達兄妹は本当に幸せだ。

 だから、恩を仇で返さないように、ぼくは前に進みます。

「ヒーローになろう」

 咲良にとってのヒーローになる。咲良に手を差し伸べる、ヒーローに。

 決意表明は誰にも届かない。その声は、その波は誰にも響かない。

 それでいいと、思っていた。


 

 実際に意思を固め、行動に移し始めたものの、ヒーローは想像以上に地味だった。

 というより、ぼくというヒーロー気取りにできることはあまりにも少なく。ヒーローの主要にして唯一の活動は、咲良に話しかけることだった。

 咲良が起きているのか寝ているのかもわからない、登校前の時間に、一時間。

 ぼくの行動の結果、咲良との関係性が悪化しては元も子もないが、今回の問題の原因が分からない以上、慎重に粘り強く動くほかなかった。

 慎重に粘り強く――実際は、探り探り、おっかなびっくり、という調子だが。

 はじめのうちは良かった。自らに誓った決意表明の熱だけで走り続けられたし、語りかけた先がどんな虚空だとしても夢に近づく自己満足が燃料にもなった。

 けれど熱が冷め、余熱を使い続けるにも限度があり。報酬がなければ、夢という燃料を扱い続けることすら困難で、意地汚く結果を求める自分に嫌気がさす。

 献身の心のみで咲良に接していられたかつての自分が輝いて見える。

 咲良が姿を見せなくなってから一か月。扉に話しかけ始めてから一か月。

 自分の心が磨り減っているのを、自覚していた。

 

 学校を終え、自分の部屋のベッドに突っ伏す。考え事をするには、これが一番いい。

 九月は自分にできる最小限をこなすのに費やした。周囲に迷惑はかけず、友人にも変化を悟らせない。光を浴びないような結果は、はたして成功と呼べるのだろうか。人知れずぼくが努力したところで、咲良の姿を見ることも、声を聞くことすらできていない。

 結局のところ、ぼくは咲良の存在に、声に、笑顔に救われていて、報われていたんだ。咲良に捧げる献身にすら、醜く報酬を求めていた。

 咲良がそこにいれば十分、なんて思っていたぼくは現実が見えていなかっただけ。扉を一枚隔てるだけでこんなにも苦しくて、こんなにも生きるのが辛い。

 報われないヒーローは、何を活力にして生きればいいのか。

 自己満足と割り切っていたはずの信念さえも揺らぎ始める。自分が行動し続けることに疑問を抱き始め、自分の行動の先に咲良の幸せがあるのか疑い始めた。

 もしそこに咲良の幸せが存在しないなら、ぼくの過ごした一か月は何だったのだろう。自分の人生ともいうべき、妹への接触すらも許されず。自分の生きがいともいうべき、妹への献身すらも否定し始めた。

 一か月を使って、ぼくは自分を否定して、自分を嫌いになっただけだった。

 そんなのはあまりにも空しすぎる。咲良からのご褒美もなしに燃え続けられるほど、ぼくは自分の生に価値を見出していない。

「死ねばいいのさ」

 その考えは急に降りてきた。ぼくが思いついたのか、誰かの声が聴こえたのかは分からない。どちらにせよ、やってみる価値はあるように思えた。

 咲良に必要とされないなら、死ねばいい。自分の命に価値がないのなら、死後に価値を発見してもらおう。芸術作品よろしく、人間の命にもそんなことがあってもおかしくないだろう。

 ふらふらと、夢遊病患者のように台所へ向かう。目的は、包丁。

 ぼくの心の何割が、ぼくの身体を制止させようとしているのだろう。疲労が蓄積した肉体がゆらゆら揺れているのを、ぼくは他人事のように眺めている。

「……一割くらいだよ」

 どこかで誰かの声が答えた。へえ、そうなんだ、意外と多い。

 包丁を掴む。切るのはどこがいいか、手首か、頸部か。思い切りが良ければ手首でも十分だろうけど、やはり確実なのは頸部だろうか。頸部にしよう。

「兄さん。死のうとするのはやめて」

 お願いだから、と誰かの言葉が続く。聞き流せば、ぼくは迷うことなく死んでいただろう。迷いなく頸を横に切って、噴水のように血が溢れて、出血多量で心肺停止。

 だけど、死ななかった。その声を、その肉声を聞き逃せるはずがなかったから。

 誰かの声じゃない――咲良の声だ。咲良の部屋から、確かに聞こえた。

 カラン、と包丁を取り落とす。もういい、こんなものは要らない。

 ドタバタと足音を立てて咲良の部屋に向かう。ドアノブを回すと、今までが嘘のように簡単に扉が開いた。そこに、拒絶は存在しない。

 夢みたいで何度も目をこすったけれど、見間違うはずがなかった。

 ベッドに座っているのは、間違いなくぼくの妹――咲良だった。

 想像していたよりも健康的な顔つきに安堵する。一か月前と変わらない優しい笑顔。それを見るだけで、生への欲求が沸々と湧き上がる。

 何が無価値だ、何が自殺だ。咲良のために死のうなんて馬鹿げている。咲良は目の前できらきら輝いていて、ぼくの妹とは思えないほど美しい。世界は素晴らしい。

「兄さん、お話をしましょう?」

 その言葉を発した際の覚悟を決めた表情も、瞳に溜まった僅かな雫も。ぼくは気づくことができなかった。彼女が壊れていたことに、気づかなかった。

 だからぼくは、死ぬことになる。



 ぼくの妹、近江咲良は謙遜してばかりの女の子だ。

 兄の贔屓目を除いても十分に美少女といえる顔立ちをしていると思うし、自らは一歩引き他者を立て、不快にさせることはない、不和を望まない平和主義者。

 外見も内面も、他者と比べれば優れていると評価するのが妥当だろうに、咲良はそれを受け止めないし、受け入れない。自分なんか、と上手に身を隠す。

 それを世渡り上手と捉えるならば、兄としては褒めて伸ばしていきたいのだが、どうも素直に納得しがたく。一度だけ、どうしてそんなに謙遜するのかと尋ねたことがある。

 曰く「たまたまそれが私の美学に合っていただけなんですよ」とのこと。

 自分を高く評価しないこと。前に出過ぎないこと。他人と諍いを起こさないこと。自分よりも場を優先し和を貴ぶこと。そもそも、自分と誰かを比べないこと。

 それはすべて、咲良の美学と照らし合わせ、偶然生じた結果に過ぎなかった。

 謙遜するのが美しい、と咲良が判断しているのかは分からない。咲良にとっては周囲からどう見られるかは二の次で、自分の美学は秤にしたに過ぎないのだから。

 ぼくは咲良を愛している。だからといって、咲良が何を考えているのか、どういう人間なのか。全てを分かっているわけではない。

 咲良の部屋にあった椅子に座り、ベッドに腰掛けている咲良と対面している今も、咲良の真意が読み取れない。咲良の美学がこの状況をどう判断しているのかも分からない。

 一か月経って、ようやく咲良の前に立てたというのにぼくの内心は不安でいっぱいだ。

 でも、少なくとも最初に言うべき言葉だけは分かっていた。想像していたよりも血色のいい肌をみせる妹にかける言葉は、決まっていた。

「思っていたよりずっと元気そうで安心したよ」

「兄さんの想像よりずっと、動き回っていましたから。それに、ふふ、やっぱり兄さんの姿を見て安心したんでしょうね。さっきよりも元気になりました」

「それはなにより。でも心配はさせないでくれよ。咲良がいなくなったらぼくは――」

「死んでしまいますか? 先程も言いましたがそれだけはやめてください。そんなことをすれば、私絶対あとを追いますから」

「……分かった、約束するよ。咲良に死なれちゃ、本末転倒だしね」

 それならいいんです、と笑う咲良は以前と変わりない。姿を見せなかった一か月間の方が嘘かのように、元気そうに、楽しそうに笑っている。

「でも、本気で心配だったんだよ。急に姿を見せなくなって。それもぼくにだけっていうんだから精神的に参っちゃうよ」

「ふふ、ごめんなさい。でも、急じゃないと意味がなかったの。それ以外には意味がないの。今日姿を見せたのも、兄さんが死のうとしたからびっくりしちゃって」

「びっくりしちゃって……」

「別に、昨日でも良かったんです。もちろん、明日でも明後日でも来月でも」

「結果論だけどプラスに動いたのか……そんな冷たい目で見ないでくれ、死なないから」

 自殺を図ったことを前向きに捉えようとしたら睨まれた。その視線があまりに冷たく、あまりに鋭かったので、むしろそのせいで死にたくなった。

「それで、なんで出てこなかったんだ?」

 本題に移る。この話題を避けていては何も始まらない。今咲良と対面していることすらただの気まぐれだというのなら、ここで解決を図らねばならない。

 ぼくがどれほどチャンスに鈍くとも、その好機だということは分かる。

「蛇に出会ったんです」

「……蛇?」

「ああ、もちろん喩え話です。家の中にいて蛇に会うことなんてまずありませんし。でも、そう思い込むことにしたんです。だってそっちの方が面白くて、美しいから」

 出た、ぼくには理解不能な美的感覚。そんな表現を用いるということは、ぼくにも理解できない出来事があったということか。もしかしたら咲良本人すら、呑み込めていないのかもしれないが。

「蛇と最初に出会ったときのことはよく覚えています。兄さんに初めてお友達ができた日の夜でした。部屋に戻ったら小さい蛇がいて、こんなことを言ったんです」

『お前の兄に初めて友達ができたように、お前にも初めての感情が生まれたのさ』

 咲良が低い声を出して蛇の真似をする。想像上の蛇の物真似を。

 ぼくはこれから何を聞かされるのだろう。咲良の妄想だろうか。たとえ咲良がおかしくなってしまっても、ぼくは受け止めるつもりだけれど。

 咲良はぼくと目を合わせず、当時のことを思い出している。存在しなかった蛇を登場させるように、当時の思い出を即興で脚色しているのだろう。

「その日の蛇はすぐに消えましたけど、私はずっともやもやしていました。お友達ができたことは素直に嬉しかったはずなのに、どうしてそんなことを言われたんだろうって。蛇の言葉が理解できたのは、次に蛇と出会ったとき。兄さんに次のお友達ができた夜」

 咲良の瞳が一瞬鋭くなった。当時のことを思い出したのだろうか。

 ぼくが環や遥と出会って、咲良は蛇と出会った? 因果関係が分からない。

『お前のその感情は、嫉妬っていうんだよ』

「蛇は言いました。私が、兄さんのお友達に嫉妬を抱いていると。嫉妬だなんて、と最初は否定していました。けれどすぐに分からなくなったんです――あれ、嫉妬ってどんなものだろう? 私は、嫉妬を知りませんでした」

「そんなこと、だってお前、ぼくとケーキを取り合ったりとか、そんなつまらないことでも怒ってたじゃないか。あれだって十分に嫉妬だろう」

「私の世界には兄さんしかいなかった」

 ぼくの反論に返ってきた言葉は、あまりにも聞き馴染みがあった。

 ぼくの世界には咲良しかいない。咲良しか、いらない。

 両親に捨てられてからずっと囁き続けてきた言葉。自分の心に深く刻まれたそれは、誓いであり、救いであり、呪いでもあった。

 そんなものを、咲良も。

「兄さん以外のものに向けた嫉妬は、いや、あらゆる感情がはじめてで、戸惑いました。けど、不思議と受け入れられて。それから、世界が広がりました。蛇が色んなことを教えてくれたんです」

 優しい、憎い、愛しい、苦しい、楽しい、辛い、悲しい、嬉しい、つまらない。

 世界中の人々の、色んな感情を、色んな考えを。

「蛇はいつでも語りかけてきます。いつからか、部屋の外でも構わずに。うるさすぎて頭がパンクしそうな時もありました」

 その症状は、その現象は。ぼくの知っているものにあまりにも類似していて。

 無意識に、ぼくは教主の言葉を思い出していた。

 ――ヒトの心にも周波数はあると思うかい?

「都合の悪いことばかりじゃないんです。夏休み前、面白いことを教えてくれました。兄さんと、知らない女の人の話です。他人の心の声が聴こえるなんて、奇妙な話をしていました」

 責められているような気がして、呼吸が浅くなる。

 だから教主は現象を利用した会話を拒んでいたのか?

 会話を漏らしたのは、きっとぼくだ。でも、だとしたら、咲良は。

 ――発信機には異常がなく、受信機の故障なんだ。

「夏休みになって、兄さんはお友達と遊んでばかりで。ようやく私は認めました、心の中にあるトゲトゲは嫉妬という名前なのだと。だから私は、試しました」

 兄さんの、愛を。

「兄さんの前に姿を現さなければ、兄さんは私を強引に抱きしめてくれるんじゃないかって、開かない扉なんか壊してでも私を欲してくれるんじゃないかって、試しました」

 再び出会うことに焦がれていた咲良の顔を、今は直視することができない。

 きっと、ぼく達はもう対等じゃない。二人の関係はとうの昔に変わり果てている。

 ぼくが気づいていなかっただけ。

 それは狩人と獲物の関係。或いは、加害者と被害者の関係。

 ぼくが獲物で、加害者なんだ。ぼくが咲良を追い込み、狩人に仕立て上げてしまった。

 ――私たちは人としての全てが壊れた欠陥品。

「でも兄さんは扉を開いてくれなかった。私が差し伸ばした手を取ってもくれなかった。ねえ、兄さん――私はもう、要らない妹ですか?」

「そんなことあるわけない。ぼくだって咲良がいなければ生きている意味なんて――」

「じゃあなんで他の人のことばかり考えているんですか!!」

「…………」

 何も、言い返せない。ぼくには何も言い返す資格がない。

 咲良の怒りを受け止めるなら、現象の効果対象の話を思い出さねばならないだろう。

 ――信頼している人の声だけは聴こえない。

 ぼくに咲良の声は聴こえない。教主は母親の声が聴こえなかった。

 咲良にぼくの声が聴こえるならば、指し示す結果はただ一つ。

 ぼくが、信頼に足らなかったということだ。兄として、家族として。

「毎日一時間扉の前で一方的に喋って、それで満足して学校に行って。兄さんにとって私はその程度の価値しかなかったんでしょう?」

「…………」

「扉なんて壊せばよかった、強引に手を取って抱きしめてくれてもよかった! もっと過激にもっと過保護にもっと過干渉に! 兄さんにとって私はそれすらできない存在?」

「…………」

「結局は一線を引かれていたのね。友達ができてしまえば、そっちに目移り。心の声でいくら愛を囁かれても、それをどれだけ信じていいかなんて、分からないもの」

「…………」

「……ねえ、兄さん、顔をあげて。お願いよ」

「…………?」

 いつの間にか完全に下を向き、床と対話する形になっていた顔を上げる。

 声の調子だけでは全く気づけなかった。

 咲良の瞳からは涙が流れていて。今にも崩壊しそうな表情で、縋るような目でぼくに語りかける。

「兄さんは本当に私が大事なの? 大事なら今すぐ手を掴んでよ、抱きしめてよ……!  咲良だけのものだって、言ってよ……!」

 丁寧な口調が崩れるほどの感情の爆発。どうするべきかなんて、正解はすぐに分かった。手を掴めばいい、抱きしめればいい。自分は咲良だけのもので一生離れないと誓えばいい。それだけでぼく達は幸せを手に入れる。

 少なくとも、それらはぼく達が今まで当たり前のように行ってきたことだ。両親が蒸発し、心の底から信頼できる最愛の兄妹の日常の中には、自然に存在した行動だ。

 たとえ妹から信頼されていないとしても。ぼくが妹を信頼しない理由にはならないし、愛を貫かない理由にもならない。彼女が抱いたぼくへの不信感を誠意と愛をもって払拭し、彼女に真実に気付かせることなく大往生しよう。

 それがぼく達の新しい愛の形。少し歪だけどそんなことは今に始まったことではない、二人で築いた愛情に、少しの思い出が加わっただけ。来年には笑えるような話のタネに変わっていることだろう。

 二人で作る新しい幸せに思いを馳せながら、咲良に手を伸ばす。咲良の柔らかさも温かさも、この手は全部忘れて閉まっているけれど、間もなく全てを取り戻すのだ。

「助けて……!」

 誰かの声が聴こえた。いつもより大きく、強い声で。ふいに訪れた見知らぬ救難信号に手が止まる。気を取り直そう、と伸ばす右手は不思議なことに言うことを聞かない。

 何が最適解か分かっているのに。救難信号の声が、頭から離れない。

「それでいいの?」子供の声がする。

 今度は聞き覚えのある少年の声だ。直近の記憶に思い当たる節があった。夢の中でヒーローのおもちゃに瞳を輝かせる少年の姿。憧れだけを胸に抱く純粋な子供の、ぼくだ。

 伸ばした右手は、幼い妹の手を取るためか、ヒーローに近づくためか。

 どちらとも、と子供の頃なら答えることができただろう。

 けれど、伸ばした右手が傷つけた妹を抱きしめることすらせずに、ただ空気を掴んでいるだけの右手に、今の十七歳のぼくは何の可能性も見出すことができなかった。

 咲良のために伸ばした腕を止めてしまうのなら、そこには迷いがあるのだと。最善と信じ込んで盲目的に行動しているだけで、ぼくは何も選択していないのだと。

 咲良のために人生を捧げる。それがベストだと確信していたぼくの世界に罅が入る。

 知らない誰かの救難信号と子供のぼくの声が、今のぼくの手を止めた。ぼくが見て見ぬふりをしていただけで、ぼくの世界には選択肢が溢れている。

 咲良の手を取ることが、ぼくが本当に望んでいることなのか。

「……兄さん?」

 ぼくは混乱して、分からなくなって、自分が信じられなくなった。

「ああああああああああ!!!!!!」

 ああ、ぼくの声が聴こえる。劈くような叫び声で、ぼくが世界に不信を訴えている。

 嫌い、嫌い、嫌い嫌い嫌い! お前なんか死んでしまえ!

 ぼくの心の叫びの向かう先はすべてぼくで、自己嫌悪と自己否定だけが渦巻いていた。

 他人の声は聴こえず、もはや咲良の言葉すらも聞く余裕はなく。

 地獄の笑い声か、悪魔の囁きか。それとも人間の断末魔だろうか。

 ぼくはただ、己に向けられた嫌悪と否定を聴き続ける。

 完全に罅が入り、世界は割れた。外側と内側から力を加えられて。

 こうして今日までのぼくは死んだ。

 新しいぼくにはゴミほどの価値もないと、ぼくが一番知っていた。


 

 寒波の勢いが増し、木枯らしが強く吹き荒れる中、ぼくは独り公園にいた。

 両親に捨てられたあの日、咲良と過ごした公園に。

 思い出に縋りたいのだろうか、かつての日々の輝きから離れられていないのか。咲良とのつながりがまだ保てると心のどこかで思っているのではないか、と惨めな自分が嫌になる。咲良を抱きしめられなかったあの日以来、顔を合わせることすら避けているくせに。

 咲良は壊れていた。他人の声が聴こえる、ぼくと同じ欠陥品。

 もしも咲良が自分と同じ秘密を抱えていれば幸せだったのに――かつてのぼくがその可能性に希望を見出していたことを思い出すと吐き気を催す。

 実際に知ってみれば、そこには絶望しかない。どれだけ愛を注いできた妹だろうと、どれだけ過保護に養ってきた肉親だろうと、過去につけられた深い傷跡は治せない。

 自分の無力さを痛感させられただけだった。

 ぼくは咲良から逃げるように、自分の矮小さを見つめないように、咲良と接触しないように動いている。あれほど焦がれた妹の姿も、今のぼくには毒でしかない。

 咲良から追いかけてくるようなこともない。自分の心の裡を吐露したのにも関わらず安心を与えてはくれなかった兄に対して、ますます不信を強めていることだろう。

 ぼくの居場所はどこにもない。

 誰にも関わらないようにとどこまで逃げようと、自分の心は常に共にいる。

 己を蔑み、己を憎み、己を嫌う。そんな人間と常に行動を共にし、負の感情を包み隠さずあるがままをぶつけられる。自身に起きた現象がコントロール不能だった時期にあまりに多くの人間の声が聴こえて地獄のようだった経験はあるが、その比ではない。

 地獄のよう、ではなく、まさしく地獄なのだ。

 ゆえにぼくには逃げ場はなく、安息地もない。ありとあらゆる場所が地獄と化してしまうので、どこにいても同じなのだとも言える。咲良がその場にいなければ。

 かといって学校に行くのも躊躇われる。今のぼくは、環や遥が望むものにきっと応えられないから。求められたことを満足させられる自信がない。求められるのが、怖い。

 正直、他人の期待に向き合うのがこれほどまでに恐ろしいとは思わなかった。ぼくの今までの人生なら、咲良にどう思われるかが一番で、あとは横一直線の同列。他人からの評価なんて、真正面から受け止めたくはないが、究極的にはどうでもいいものだった。

 それなのに、ぼくの掴んできた選択肢は紛い物で。自分の理想のために視野を狭めて、選択肢を削って、目の前にあったものを見ようとすらしていなかった。

 ならば、これからどう生きればいい。どう生きて何を選ぶのが正しい。ぼくにはそれが分からない。他の人々が色んなことを取捨選択して経験してきたことを切り捨ててきたぼくには、人生の困難や快楽のために悩んで選び取る方法が、分からない。

 友情が、恋愛が、勉強が、受験が、就職が、進学が、結婚が――人生が、分からない。

 失敗すれば怒られる。間違ったことをすれば叱られる。輪に入らなければ外される。

 子供の頃に壊れて、最近死んで、新しい自分になったはいいけれど、周囲にとっての当たり前や、集団における基本や、社会のルールが、正解が分からなくて。

 立ち竦んでいる。何も選べないでいる。

 一歩進んでしまったら。何かを選んでしまったら。

 今度はそれに一生縛られるような気がして、動けないでいる。

 かつてのぼくが咲良を選んだように。今度は何でぼくを縛るのだろう。怖くて、恐ろしくて、解決を先延ばしにしている。公園でただ一人ぽつんと、佇んで。

 遊具の中のトンネルに座る。ぼくは何かから隠れようとしているのだろうか。

 外にいるよりはいくらか温かい。子供の頃に覚えたのと同じ感覚。このトンネルの中に入れば外界との接続が希薄だ。何も、考えなくていい。

 誤算だったのは、今のぼくの敵は外側だけではなかったということ。外側との接続が弱くなれば、当然内側が強くなる。自己嫌悪の叫びが膨れ上がり、また壊れそうになる。ガタガタと歯を震わせるのは、寒さのせいなのか恐怖のせいなのか。

 声がしたのは、そんな時だった。

「見いつけたっ!」

「うわっ、マジでいるんか。環お前引くわー」

 トンネルの端から覗き込んでくる見慣れた顔が二つ。環と遥。ぼくの、友達。

「…………なんで?」

 誰にも場所は教えてないのに。携帯電話も家に置いてきたのに。

「それこっちのセリフ! なんで急に二週間も音信不通になるかな!?」

「その意見には賛成だが千春の疑問にも答えてやれよ、聞くのこえーけど」

「……内緒?」

「千春、お前結構やべー奴に好意持たれてるって自覚ある? 俺は今気づいた」

「……うっすらと、ね」

 なにそれー! と環が異論を訴えてきて恒例の兄妹喧嘩がはじまり、ぼくはそれを眺めながら笑っている。普段通りの会話。なんだ、意外とできるじゃないか。

「少しやつれた……?」環が不安そうな声で心配してくれる。

「大丈夫だよ」空元気の言葉で二人を誤魔化せただろうか、自信は全くない。

「「信じられない」」美しいとすら感じる、兄妹のユニゾンだった。

 流石に誤魔化せないか。

 関わりのない人ならともかく、この二人には全てを見透かされても驚かない。

 それに、この二人になら打ち明けてもいいのではないかと考えている自分がいる。

「それに瞳も変わった。遠くを見てるのは変わらないけど、ちょっと濁った?」

「遠くを見てるって、それ告白された時にも言われた」

「うおっ、ここにきて耳寄りな情報」

「ちょ、千春君、無駄にバカを喜ばせないで」

「ごめん、つい。思い出したのが口をついて」

 本当にふと思い出したことを口にしただけなのだが、思い返してみると環の目は物事を深くまで見抜いていると思う。

 ぼくは遠くを見ていた。目の前の現実でなく、幻想に映る咲良の姿だけを。

「でも本質は違うね。今は……何も見てない。そんな気がする」

 本当に鋭い。

「千春が学校にこなくなったのと関係あるのか?」

「関係あるかどうかは、本人が教えてくれるんじゃん?」

 追い詰められた。そう感じている。先程確信した通り、この二人に誤魔化しは効かない。遅かれ早かれ、このまま会話を続ければ真実を話さなければならないだろう。

 けれど、どこまで話せばいいのだろう。どこまで信じてもらえるのだろう。

 全てを伝えようとすると、いささか荒唐無稽な話も混ざってくる。彼らに真実を伝えるのは構わない。自分のことは信じられないけれど、親友のことは信じてもいいのではないか、そう思えるから。盲目的に妹を信じ愛してきた人間の最終防波堤のような信頼だ。

 もし。もし彼らが信じてくれるなら。

 自己嫌悪の声が聴こえ始めてからようやく、明るい可能性を考えることができた。

 まだ、口にしないでおこう。現実がどう転ぶかなんて、分からないんだから。

「ぼくの話を、聞いてくれるのかい?」

「「もちろん」」

 一切の逡巡もなく放たれた短い回答に、心が躍る。

 なら、信じてみよう。人の友愛を、信じてみよう。

 始めるよ、と合図するように二人の顔を順番に見て小さく頷く。二人も応える。

「これはぼくと、ぼくの妹と、両親の話だ――」



 ぱちん、と頬を叩いた音が、乾燥した空気に伝達されていった。

「信じられない」

 ぼくの右側の頬を赤く変えた環は、そう言い残して立ち去って行った。

 ざっざっざっ、と力強く姿を消す彼女の背中を、ぼくは呆けることなくしっかりと目で追いかけていた。

 一見理不尽にも見える暴力行為だが、ぼくは自分でも意外なほどに驚いていなかった。怒りを表すなら、彼女だろうと思っていた。彼女の感情の矛先は、ぼくの話の荒唐無稽さではなく、ぼくが起こした行動に向けられているという直感があったからだ。

 二人には全てを話した。ぼく達に起こっている”現象”以外の出来事を、すべて。

 両親のことも、咲良のことも、教主のことも。当然、ぼくから見た遠藤兄妹のことも。

 ぼくを形作るありったけを、心の声が聴こえるという一点だけを除いて再構築して全て披露した。ぼくが咲良をどう想っていたのかも、ぼくが今どういう状況なのかも。

 環の沸点を超えたのは、たぶんぼくが咲良の願いを聞き入れなかったところだろう。ぼくと似た者同士の環には、妹を抱きしめることが出来ないぼくが情けなく映ったに違いない。

 だから、仕方ない。たとえ現象のことを隠そうとも、ぼくの醜さは変わらない。

「あー……環みたいな見透かしたようなこと言わせてもらうけど」

「うん」

「たぶん勘違いしてるぜ。環は別にお前を見限ってどっか行ったわけじゃない」

「こんなに痛いのに?」

 右頬を指さすぼくを見て、元気じゃねえかと遥が笑う。

「それはまあ、話の中のお前がロクでもなかったからな、一発くらいは仕方ない。でも、たぶん本気の怒りじゃないよ。誰かが叱ってやらないといけないと思ったんだろうな」

「そんなに酷かった?」

「酷かったさ。そりゃ最初は親のせいだったんだろうけど、結局は妹の手を取らなかったことを後悔してるわけだろ。後悔してるなら、きっと自分にも非があるのさ」

 だから環は怒ったのさ、と付け足す遥はどこか上の空で。その言葉すら誰かの言葉を借りているような、申し訳なさそうな表情をしている。

 それを尋ねてみると、遥はバレたか、と笑って理由を話してくれた。

「正直俺にはお前の話は想いが強すぎてな、現実感が全然湧かない。自分の体験に置き換えることも、誰かのために尽くしたいって気持ちに共感することすら難しかった」

「そっちの方が健全だと思うよ」

「だから俺は環のことを考えてた。あいつに置き換えたら、すんなりハマってな。助けてやりたいなーって思ってるよ」

「……前言撤回しようか?」

「はは、気遣いありがとうよ。でもいいんだ。環も十分不健全だ」

 でも環はぼく達と違って欠陥品じゃない。

 訊いたことはないし、訊けるはずもないのだけれど、環にはきっと心の声は聴こえていないだろう。ぼく達みたいに、既に壊れてはいないだろう。

「……どうして似た者同士なのに、環は壊れないんだと思う? ぼくみたいに、自暴自棄になったりとかしないのかな」

 考えても答えは見つからないので、兄に尋ねてみた。

「うーん……たぶんあいつはメンタルが異常に頑丈なんだよな。環のことでも話してやろうか、鬼の居ぬ間に、な」

「頼むよ」二人して周囲を見渡し、本人がいないことを確認する。

「あいつ恋愛関係になると急に視野が狭くなるタイプでさ、一直線なわけよ。加えて男を見る目がないもんだから、重い愛情が砕けまくってるんだわ」

「ぼくも含めて、なんだろうね」

「自覚があってよろしい。で、打ち砕けるわけだがあいつは何分復帰が早い。移り変わりが早いって言ったら最悪の女だが、フラれてるわけだからセーフにしてくれ」

「ぼくが断った時も、秒速で友達になったけど、みんなそうなの?」

「どうやらそうらしい。俺も把握してるわけでもないから真実は知らんが。で、妹を心配した普通たる俺は訊いたんだ『なんでお前そんなに焦ってんの』って」

「なんて答えたのさ」

「『愛が報われないなんておかしいじゃない! わたしはいつかこの愛を受け止めてくれる人と出会って幸せになって、その人も幸せにすんのよ!』って。それが自分の夢なんだって、言い切ってたよ」

 いくらなんでもパワフルすぎる。真っ直ぐで、力強くて、環らしい言葉だけれど、そんなこと普通言い切れないじゃないか。少しくらい、言い澱むだろう。

「クレイジーだろ?」

 咲良と兄妹でなかったら。最初から出会っていなかったら。ぼくは環のように言いきれただろうか。運命の人と出会うまで、夢を追い続けられただろうか。

 愛を、叫び続けられただろうか。

「複雑なんだよ。ここまできたら環の夢は叶ってほしい気持ちもあるし、ここまで叶ってないんだから落ち着けよって気持ちがあってな、幸せにはなってほしいんだが……」

「気づかなかったよ」

「何が?」

「意外とシスコンだったんだな」

 遥が膝から崩れ落ちる。仲間意識を伝えたつもりだったんだけど。

「シスコン呼ばわりされるのもお前と同族扱いされるのも不服だよ……」

 ごほん、と一つ咳払いをして、雰囲気を立て直そうとする隠れシスコン。

「俺が言いたかったのは、簡単に諦めんなってこと」

「……咲良のことを?」叔母さんに言われたことを思い出す。

「それは分からん。お前の手がどっちを掴みたがってるのか、口を出すには俺は筋違いすぎる。愛は分かんねえし、夢も持ってない……って口に出すと恥ずかしいな」

「青春ってやつだよ、きっと」

 セットされた金髪を恥ずかしさからぐしゃぐしゃにしてしまう遥の優しさは真っ直ぐだった。遥は自分が普通だというけれど、その優しさは特別といえるほどに心地良かった。

「遥、ありがとう」

「……お、おう」

「なーに照れてんの、気持ち悪い」

 ぼく達の背後にはいつの間にか戻ってきた環がいて、不満そうな顔をしている。

「わたしが体張ったってのにアンタがいいとこ持ってくのは納得いかないわ」

「俺が黙ってたら地獄絵図だったろ。暴力女と死んだ目の男の痴話喧嘩で終わってたわ」

「う、まあそうね。アンタにしてはいいフォローだったかもね」

「スタンスを決めてから混ざってこいや」

「千春君の笑顔に免じて許してあげる」

「え、ぼく笑ってた?」

 全く自覚していなかった点を突かれて驚きが口に出る。咲良と距離が離れ始めて以来、最後に笑ったのがいつなのか、該当する記憶が見つからない。

「笑ってたよ。今までよりもいい笑顔で、ね」

 環がそう言うなら、きっとそうなのだろう。自己嫌悪の渦に呑み込まれても、最愛の妹と離ればなれになっても、ぼくは笑える生き物だったらしい。

 それを鈍感とか薄情という言葉で片付けるのは間違っている気がした。

 遥から環の話を聞いたぼくが、今までより少しだけ前を向けているだけだ。愛情に猪突猛進な環を見習って、ちょっとだけ自分勝手に生きようと思っているんだろう。

「で、なんの話してたの?」

「夢に猪突猛進ガールと、シスコン男の話」

 右手でそれぞれ環と遥を順に指し示しながら答えた。大枠は間違っていない。

 環は一瞬なんのことか分からず首を傾げていたが、そこは自分のことということで意味に気づくのは早かった。怒りの矛先が正しい方向に向くのも早かった。

「遥、アンタねぇ……」

「まあまあ環、許してあげてよ。実際ぼくも相当救われたし」

「ならいいけど」

「いくらなんでも千春に甘すぎねえか!?」

「惚れたら負けだもの。わたし千春君のこと全然諦めてないし、そりゃ甘やかすわよ」

 当人がいる前でそんなに堂々と告白しないでほしい。

 咲良への愛を胸を張って叫べない今、もしかしたら刺さるかもしれないから。

「気持ちがバレちゃってるなら、むしろ堂々とするべきじゃない? 私は千春君に一目惚れしたのよ。その瞳に映っているのは私じゃないのは分かってたけど、君と愛し合えたらきっと幸せになれるだろうって気がしたから」

 花火大会の時にぼくが感じたことと全く同じことを、環も感じていたのだ。

 ぼく達は似た者同士で、愛が一番強い絆で、最も強固で重い鎖だと知っていた。

 愛し合えれば、幸せになれるだろう。重い鎖に引っ張られて、逃げることも離れることもなく、ただただ一緒に沈んでいくだけ。堕ちていくだけ。

「私は探し続けている。でも、千春君はもう見つけちゃったんでしょ、心に決めたんでしょ。私なら迷わない――けど、迷ったなら、そこにはきっと可能性が残ってるんだよ」

 未来に可能性はないのかな、と小さな声で彼女は呟く。

 それは、告白された時にも聞いた言葉。

「可能性があるなら迷いなよ。正解なんてきっとないんだから」

「どちらかを選んだら、もう一方を捨てないといけないとしても?」

「そのために迷うのよ。選択が人生を決めるなら、その選択に後悔がないように」

 少なくともわたしはそうやってきた、と語る彼女の横顔は一人の強い女性だった。

「千春は今くらい泥臭い方が人間味あるよ」

 環がうんうんと頷くからには、遥の言葉を受け入れざるを得ないのだろう。

「ぼく人間じゃなかった?」

「愛が原動力のロボットみたいだった」環の喩えに実感がありすぎて否定できない。

「スマートすぎても怖いし、視野が狭くても関わりにくいし。別にカッコつかなくたっていいんだって。泥臭い姿が他人には眩しく見えるときだってあるだろうさ」

「千春君は今の方が魅力的だよ」

 褒められ慣れていなくて真っ直ぐな称賛はむず痒い。

「だから、どっちの道を選ぶにしても、真っ直ぐ行け」

「カッコ悪くてもいいから胸張って生きていこう」

 自分のことが一番わかっているのは自分だ、なんてきっと嘘だ。

 だってこんなにも、ぼくは新しい自分を友達から教えてもらっている。

 勇気を出して、息を大きく吸って、遥と環に順にチャンネルを合わせる。敵対感情や悪感情と直接対面するのが怖くてやらなかった、能動的な受信。

「良かった……」

 言葉そのままの二人の感情に触れて、安堵の声が漏れる。

「「?」」

 二人して首を傾げられたが、理由は分からなくていい。ぼくだけの特別な感動だ。

 振り返ってみれば、ぼくは無意識に完璧であろうとしていたのかもしれない。咲良にとって理想の兄であるために、咲良に最大限の愛を届けるために。

 でも結局それは自分で決めた枠組みの中での話。ぼくが世界の全てだと思っていたものは殻を破ってみれば、世界のほんの一部に過ぎず。

 ぼくにはもっと可能性がある。恥も外聞も捨てて、泥臭く、人間らしく。胸を張って、ぼくの人生を歩んでいこう。どちらを選ぶかは、もう少し悩むとしても。

「ありがとう、かなり楽になったよ。二人が友達で、本当に良かった」

「すっかり毒気が抜けちゃって……惚れ直しちゃいそうだよ」

「どういたしまして。それでこれからどうするんだ、帰って妹と決着か?」

「いや、帰る前にもう一人、話しておきたい人がいてね。咲良と話すのはそれからだね」

 じゃあまた学校でな、と別れを告げた遠藤兄妹を見送って、ぼくは反対方向へ進む。

 アラヤ教のビルのある方へ。教主が待つ建物へ。

 自分の人間性とは向き合った。気持ちにもある程度の指針は付けられた。

 だから次はこの力だ。ぼくとは切っても切り離せないこの現象をどう扱うべきなのか、ぼくはもう少しだけ自分を見つめ直さなければならない。



「随分と中身が変わったようじゃないか。子供の成長は早いね」

 アポイントメントも取らず、突然来訪したにも関わらず、教主は驚かない。夏のはじまりのあの日と同じ部屋、同じ服装でぼくを迎え入れた。

「周りで色々あったもので」

「それの話をしにきたんだろう?」

「する必要はないでしょう。咲良のこともぼくのことも、貴女は全部知っていそうだ」

「知ってるけどさ……なんだい、今回はやけにつれないなあ」

「訊きたいことに答えていただけたらいくらでも感謝しますよ」

「構わないが……大人びちゃって面白くないな」

 わざとそうしているのだから、そう思ってもらえないと意味がない。教主から訊きたいことがあるのは本当だが、彼女にペースを握られて雑談に時間をかけるつもりはない。

 なにせこの後には咲良と向かい合うつもりなのだ。この会話で無駄に体力を浪費している場合ではない。

 ここには意思を固めに来ただけなのだ。

「以前お会いした時、知らない誰かの救難信号の話をしましたよね」

 教主は露骨に嫌な顔をする。そういえばこの人には違った聴こえ方をしているんだった。

「その人達の手を取ったことがあるか、とぼくが尋ねた時の答えを覚えてますか?」

「『ないよ。伸ばされた手を掬い上げるので忙しくてね』……だったかな」

「あの時ぼくは貴女の行動を偽善と評し、それに対して貴女は独善だと訂正しました。他愛ない言葉遊びだったけれど、ぼくの節穴の目は本質を見逃していました」

「私の本質が、今なら分かると?」

「貴女は結局のところ善人なんですよ。悪役ぶっても、道化のフリをしても、愉快犯を気取っても、貴女は結果的に人を救っている」

「営業妨害、でもないか。私は表舞台に出ていないんだから」

「ええ。ですからこれはただの称賛です。そしてそんな貴女を尊敬するからこそ、ぼくは今日ここに来たんです」

「なんだい、急に人を褒めそやして気持ち悪い。お金が欲しいのかい?」

「ぼくに人の救い方を教えてください」

 教主はやはり驚かない。ぼくが言い出すことさえも、読んでいたのだろう。

 受けるでもなく断るでもなく、ただ黙っているのが不気味だ。

「方法が詐欺紛いとはいえ、ぼくが持て余している力を活用して人を救っていることにもっと素直に感心するべきでした。もともと力を能動的に――」

「……頭」

「はい?」

「とりあえず、頭下げようか」

 即下げた。これで満足して教えてもらえるなら安いものだ。

「んー……ん~~~~~!!!!」

 バタバタと、あるいはぱたぱたと。教主が可愛らしく体を捻って悶えている。何かに満足できなかったのか、不満そうな顔でつまらないものを見る目だ。

「……はあ。いやもういいよ、直っていい。今の君なら素直にやるだろうなとは思っていたのに、つい嗜虐心が出てしまった。予測通りに動かれても気持ちよくないんだ」

 どう動くか完全には予測がつかないものをコントロールするのが快感なんだよ、と説いてもらってもまるで刺さらない。ぼくが聞きたいのは教主の快感のツボの話ではない。

「えっと、じゃあどうすれば……?」

「何もしなくていいよ。別に教えてあげるけどさ……変わったなあと思って」

「妹と友達のおかげですよ。世界が明るいです」

「いつか変わるだろうとは思ってたんだ。妹ちゃんの件も読めてたし。そうでなくとも、君は独りでに自殺して生まれ変わるって予測できてた」

「後学のために理由を教えていただきたいですね」

「自分嫌いな人間が変わりたいと思わない方が異常だからさ」

「たしかに変化は常に求めてましたね……一人では停滞しきってましたけど」

「じゃあ予測が前にズレたのはお友達のせいだろうね。今度こそ大切にしたまえ」

 今度こそ、というのは咲良の変化に気づいていなかったことを言われているのだろう。最も近い人が壊れているのにも気づけない、ぼくの愚かさへの皮肉だ。

「社会から外れている私が言うのもなんだけれど、良い変化だと思うよ。今ならきっと努力次第で社会に馴染むことだってできると思う。可能性は二択じゃないんだよ?」

「いいんです。誰かを救いたいっていうのは本心なんです」

 この言葉が嘘でないと、教主にはすぐに分かってもらえるだろう。

「それで、えーっと、人の救い方だっけか」

「はい。できれば現象を活用した方法で」

「一応確認しとくけど、君、うちで就職はしないよね?」

「お世話になるつもりはありませんよ」

「これが一番面白いのに……。おっけー、じゃあ一般的な方法にしてやろう。人の救い方ってのは心構えさ、『相手の世界をぶち壊しながら抱きしめる』だけ」

 『相手の世界を壊す』と『抱きしめる』……両立するんだろうか。不安を抱きつつも、この宗教団体みたいに迅速さが求められなければ、なんとかなる自信もあった。

 『アメ』も『ムチ』も相手の心を覗く勇気があれば揃えられるからだ。

「君はまず人の心を覗くところからだね」

 けらけらと笑われる。ぼくの未熟さが愉快でしかたないのだろう。

「習うより慣れろ、さ。実験体一号は君の妹ちゃんかい?」

「咲良には使いません。咲良にはぼくの全身全霊をもってぶつかります」

「そうか、まあ面白い結果になることを願うよ」

「それじゃあ、ありがとうございました。もう会わないことを祈ってます」

 つれないねえ、と笑いながらも見送ってくれる教主が、思いついたように付け足した。

「なあ、意思表明をしておきたまえよ」

「はい?」

「私たちは他人の心が読める。君に至っては自分の声まで聴こえる。なら嘘が日常なことは思い知っているだろう。自分に嘘が吐けないように、ここで言葉にしたまえよ」

 たしかに、教主の前では嘘は吐けない。頭でなにも考えず、あることないこと思いついたままに喋る人もたまにはいるけれど、教主はその言葉の真贋さえも見抜くだろう。

 なるほどいい機会だ、と言葉を選ぶ。ぼくの覚悟を示す、最適な言葉を。

 うん、やっぱりこれだ。ぼくの人生を振り返れば、迷う余地はない。

「ぼくは世界を救おうと思います」

 両親に捨てられて咲良と二人きりになって。叔母さんに拾われ。遠藤兄妹に変化をもらって。教主にかき乱され。咲良に気づかされ。ぼくが壊した。

 そんな世界でさえも、友人に救われた。

 ぼくが、ぼくの世界が受けた恩を、今度は世界に返していこう。

 まずは、ぼくの最愛の妹からだ。

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