4 喧嘩じゃありません

「喧嘩でもしたのか」


 家の傍にある小屋は、魔法生物の研究室だ。いくら片づけても散らかす黒竜に何を言っても無駄だと、この二年で少年は諦めていた。本が積み上がり散乱した狭い室内で、少年は椅子の上で膝を抱えていた。背中を丸め、瓶の中でせわしなく動く鍵ネズミをどんよりとした目で見ていた。


「してません」

 声に張りはない。黒竜は薄いコーヒーを飲みながら、本に目を通していた。

「カナラがしたって言ってたよ」

「喧嘩じゃありません」


 第一、喧嘩の理由がわからない。少女が一方的に怒ったのだ。朝食では口をきいてくれなかった。声をかけても「知らない」とそっぽを向かれる。


「俺、何か悪いこと言いましたか」

「うーん」


 間延びした声は呑気だ。他人事だと思ってと毒づきそうになったが、代わりに溜め息を吐いて誤魔化した。


「そういえば、前にもシスイがこうなったときがあったね。ここに暮らし始めた頃かな」

「あれは、カナラについてくるなって言われたから」


 家族になって間もない時期だ。魔法をかけたばかりの少女は、いつも何かに怯えていた。魔法が解けて思い出してしまわないか不安だった少年は、少女を見張るようについて回った。黒竜が夢食い虫を使い始めてから落ち着いたものの、少女が「ついてこないで」と泣き叫んだときは酷く落ち込んだのだ。


「シスイは過保護だなぁ」

「あんたがいいますか、それ」


 竜の性質は知っている。一度心を許した者には独占欲が強くなる。物語にでてくる宝物を守る竜のように、宝物だと思ったものには異常な執着をみせるのだ。にこにこと毒気のない笑みをしているくせに、この森に縛られた村人の魂を解放していない。あの少女は面倒な存在に好かれたなとつくづく感じる。もっとも、面倒といえば自分も否定できないが。


「シスイが大切に思っているのを、カナラはわかっているはずだ。そういう質問をしたのは、兄以外の答えを聞きたかったからじゃないかな」


 兄以外と言われても、少年は思いつかなかった。なにしろ『シスイ』の役割はカナラの兄だ。自分はそういう存在なのだ。


「ほら、君は僕の弟子でもあるのだし」

 そういえばそうだったと少年は顔を上げた。

「あれは、仕方なく……」


 黒竜が魔法生物を研究していたのは、クオンという友人の真似事なのだろう。黒竜なりに、彼の意志を引き継ぎたかったのかもしれない。精霊樹の種が同化してしまっているシスイを人に戻すのは難しいかもしれないが、性質が似ている魔法生物や幻獣について調べていけば何かわかるかもしれないと黒竜は話した。今更、人に戻りたいかは答えられない。


 だが、この世界で少女の隣で生きていくためには、合成獣では不利だ。

 黒竜が与えた知識は、少年にとって非常に興味深いものばかりだった。少年は齧るように本を読み耽り、黒竜の話を丁寧に書き綴った。捕獲した魔法生物を一日中眺めている日もあった。


「きらきらした目で、先生、もっと教えてくださいって言ってくれたときは嬉しかった」

「そ、それはっ、カナラがそう呼んでいたから、同じ呼び方にしただけです」


 何かに秀でている人を『先生』と呼ぶらしい。認めがたいが、少年にとって黒竜は師であるのは確かだった。

 シスイの上擦った声に、黒竜は和やかに目を細めた。


「最初、僕は自分を知ることから始めようと話したね」

「……そんなことも言ってましたね」


 自分が誰か忘れていた少年は、過去を徐々に忘れていく少女とは反対に、緩やかに過去を取り戻していった。今は無力で無知な人の子どもでなければ、あの二本足たちに従うだけの合成獣でもない。


「今の俺はシスイです」 

「うん、そうだね」


 少女にそう答えればよかったのだろうか。

 けれど、それでは何か足りないような気がした。


「カナラはね、今じゃなくてもっと先を見ているんだ」

 少女は早く大人になりたいと言っていた。

「シスイとカナラはすぐに背が伸びるなぁ」 

 少女が大人になったら、自分はいらなくなるのだろうか。

「シスイには、何かなりたいものはあったか?」


 昔、同じ質問をされた覚えがある。

 シスイは口を閉じたまま、瓶の中で種を貪る鍵ネズミを見つめていた。

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