3 私のお兄ちゃんでなければ、なんなの
少年は、
精霊樹の種を飲み込んでいなければ、野垂れ死んでいただろう。彼らは飢えてやせ細っていた子どもに、毎日食事を与えた。清潔な衣服と地下室という寝床を提供した。まともな言葉を話せないと知れば、丁寧に教えられた。子どもはこれから新たな進化の過程を刻むのだと教育された。今思えば偏った思想だったが、子どもは心を躍らせた。自分が憧れたものになれると疑わなかったからだ。もう無力な存在ではない、力があるものになれると期待に胸を膨らましていた。
彼らが話す『進化』という実験が始まってから、子どもの体は変化していった。最初は激痛が走り、痛さに堪えきれずに転げ回った。二回目は意識が朦朧とし、高熱にうなされた。徐々に感覚が麻痺していき、記憶が混濁して自分が誰だったか少しずつ忘れていった。
『進化』が終わるたび、彼らは子どもにビスケットを渡した。口の中に広がる甘さを噛みしめ、自分は幸福なのだと妄信した。褒められた経験がなかった子どもにとって、ご褒美のビスケットは自分が認められた証になっていた。大人は従順な子どもが好きだ。おとなしく言うことを聞いておけば、ここにずっといられると思っていた。
けれど、その『ずっと』は続かなかった。
甘いビスケットは、なくなってしまった。
彼らの行いが魔法協会に見つかった。自分が作ったものを取り上げられるよりはと考えたのだろう。子どもは外に放り出された。行けと言われ、わけもわからずひたすら走った。走って見つかって追いかけられて、隠れては食べ物を漁った。無意識のうちに、合成獣になる前と同じ生活をしていた。
少女に出会ってから、ようやく安心できる場所を見つけられた。だが、この姿ではいつまでも隣にいられない。
「望めば人になれるよ。私と違って存在が希薄ではないからね。そのときは人の名前があったほうがいい。君の拠り所になるだろうから」
黒竜の助言により、少年は『シスイ』という人の姿を得た。その姿は、合成獣になる前の大きくなった子どもの姿だったのかわからなかった。
わかるのは、この疑似家族の一人であること。
「しー兄、また伸びた」
少年は棚から朝食用の豆が入った瓶を取った。不満げにこちらを見上げているカナラに渡す。
「なにが?」
「身長」
少年たちは地下の食料貯蔵室にいた。昨年の年末に黒竜が頼んだ食料以外の肉を買ってきたせいで、年末年始は毎日肉を食べるはめになった。残った肉は薫製と塩漬けにしたが残り少なくなってきている。バターやチーズ、塩や砂糖といった調味料と小麦粉に余裕はあるが、野菜は心許なくなっている。菜園の収穫はもう少し先だ。そろそろ狩りに行くか、川に魚用の罠をしかけたほうがいいだろう。
「カナラは俺より大きくなりたいのか」
「だって、早く大人になりたいもの」
「子どもでいいじゃないか」
少年は作り置きしたパンが入った容器を抱えた。暖炉の火は黒竜が点けている。せっかく汲んできた貴重な水を、鍋からこぼしていないか気がかりだ。
階段に上ろうとした少年に先回りして、少女が通せんぼした。
「しー兄は子どもでいいの?」
「俺はカナラから見たら大人だ」
「先生から見たら、しー兄も子どもなのに?」
少女を追い抜かそうとした足が止まる。
「しー兄は、私と同じだよ」
「いや、でも、俺はカナラのお兄ちゃんだから……」
兄というのは年上の兄弟だ。少女から見れば少年は大人のはずだ。しどろもどろに答えると、少女は「ふぅん」と理解したようなしていないような返事をした。
「じゃあ、しー兄は私のお兄ちゃんでなければ、なんなの」
「それは」
シスイという存在から、カナラの兄を取ったら何になるのだろう。答えられずに黙っていると、どういうわけか少女の機嫌がますます悪くなっていった。
「もういい!」
扉が勢いよく開けられる。駆けていく小さな背中に、ただ立ち尽くすしかできなかった。
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