2 子ども扱いしないでくださいよ

「しー兄!」

 あの子が呼んでいる。少年は重たい瞼を開けた。腕に緑の鱗がなければ、胴体は縞模様になっていない。耳は垂れ耳ではなく、尻尾は生えていなかった。

 今日の自分も二本足だ。

 まだ眠気から覚めていないぼんやりとした頭で、子どもには大きい白衣のポケットから懐中時計を取り出した。起床時間は過ぎている。思ったよりも眠ってしまった。枕元に広げたままの師から借りた本を閉じる。ベッドから飛び降り、少年は階段を駆け下りた。

「カナラ、悪い。水汲み」

「もう終わった!」

 今年で七歳になる少女の頬は上気していた。少女の足下には、水がたっぷり入ったバケツがある。

「ちゃんと運べたよ」

 自慢げに報告する少女に、喜ばしい反面、戸惑った。毎朝、精霊に澄んだ泉へ案内してもらうのが日課だ。なにしろ、この森の泉は移動する。少年が飲み込んだ種と同じ、精霊樹によって作られた森だ。魔法生物が生息する特殊な森は、ひとつの結界の役割を果たしていた。

 魔法が使えない少女を囲む森。純粋な人間の血を持つ空色の子どもを守る囲いだった。

「僕が泉の場所を精霊に聞いたんだ」

 少女が運んだバケツよりも一回り大きいバケツを持って、眼鏡をかけた白衣の男が開けたままの扉から顔を出した。男の肩越しに陽光を浴びた森が広がっている。年が明けて冬が解け、白の王が春を蒔いた。朝夜は冷えるが日中は心地よい気温となってきている。

「シスイ、また夜更かしをしたんだろう。しっかり寝ないと体によくないよ」

 全てを見透かしたような黒曜石に似た目を、少年はあまり好んでいなかった。人に化けたこの黒竜は自分を子ども扱いする。一緒に暮らすようになってから二年になるが、未だに掴めないでいた。

 少年がこの家の家族になったのは、名前をつけてくれた少女の傍にいるためだ。

 家族という囲いが、少女の記憶に違和感なく介入できると黒竜は判断した。それは少女が欲しがっていたものだった。黒竜を疎ましく思っていたが、少女の心を守るには黒竜に魔法をかけてもらうしかなかった。

 少年は黒竜と協力関係を結び、黒竜は義父に少年は義兄になった。

 少女と出会ったとき、彼女の何もなさに驚いた。複数の生物が混ざってしまった少年と比べ、少女は空っぽだった。自分が誰か忘れていた少年と違い、少女は自分が何者なのかわかっていた。魔法がなくては生きていけないと嘆く少女は無力で、それなのに少年を守ろうとした。親や村人に除け者にされても、腹を空かせた少年にパンを毎日持ってきた。小さな手で怯えもせずに少年に抱きつき、撫でて甘えて笑ってくれた。

 それは、少年が欲しかった温もりだった。

 もし、黒竜が少女に危害を加えるなら、噛み砕いてしまおうと思っていた。だが、黒竜は驚くほど純朴でお人好しだった。旅をしてきたのなら、少なくとも人の善悪に触れてきているはずだ。どちらかといえば善よりも悪が多く、少年が合成獣キメラになってからは特に酷かった。

「すみません……」

 こういうときは素直に謝るに限る。大人は聞き分けのよい子どもを好む。強者は弱者を見下すことで安心する。貧困に苦しんでいた頃に身につけた処世術だ。子どもは大人に従順でなければならない。無駄な暴力に遭うだけだ。

「あぁ、でも、そうか。僕がシスイに無理をさせたのか。あの本は面白かっただろう。読み終わったらシスイの意見を聞かせてくれ」

 少年は返す言葉を失った。やっぱりこの黒竜はおかしい。謝罪を聞いて満足げに笑うわけでもなく、説教を垂れるわけでもなく、頭ごなしに怒鳴るわけでもない。

「シスイは勉強熱心だなぁ」

 頭を撫でる手はくすぐったかった。

「子ども扱いしないでくださいよ」

 手を振り払う少年に黒竜は、「えー」と不満げな声をだす。

「しー兄だって、私の頭を撫でるくせに!」

「それは俺がお兄ちゃんだから!」

「それなら、僕はお父さんだからいい!」

 少女を守るためだけに作られた疑似家族。ここには、温かな食事と安心して眠れるベッドがある。飢えていた子どもでなければ、数字をつけられた化け物でもない。

 今の少年には、少女からもらった『シスイ』という名前があった。

 少女は覚えていないだろう。両親と村人たちから受けた苦い記憶に、合成獣の少年に名前をつけた思い出、路地裏で黒竜と出会ってから授業を受けた日々も含めて、この家で暮らすまでの出来事は夢食い虫に食べられている。

 思い出さなくていいと少年は思っていた。

 あの村にいた頃よりも少女は楽しそうだ。自分を本当の兄のように慕ってくれる。本物の家族のように接してくれる。

 それなのになぜだろう。時折、不安が浮かんでくるのだ。団らんの中でひょっこりと顔をだし、忘れるなと言わんばかりに浸食してくる。

 ずっと続けばいいのに。

 少女の隣に、ずっといられたらいいのに。

 けれど、その『ずっと』は、簡単に裏切るものだと少年は何よりもわかっていた。

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