5 妙薬


 走り続けて一時間が経つのに、景色が一向に変わらない。

 馬車道を抜けてからというもの、林道が続いている。林道は気味が悪いくらい静かだ。鳥のさえずりすら聞こえない。


「真っ直ぐ行け、か」


 シィラが私にくれた助言をヤシロが苦々しく口にした。セイクも異常を察したのか、画帳を閉じて私たちの後ろに立った。


「誘われているね」

「いつからだ?」

「都を出たときから、見張られているなとは思っていたよ」


 誰にとは聞けなかった。

 林から霧がでた。ヤシロは手綱を引き、幌馬車を止める。霧は異常なほどに濃く、あっという間に覆われてしまう。白い世界の中でヤシロに動くなと肩を引き寄せられた。


「セイク!」

「紡ぎ唄うは風の道。惑い防ぐとばりを払え」

 早口でセイクが唄を紡ぐ。突風が吹き、視界が鮮明になった。

「あれ?」


 先程の林道ではない。目の前には橋がある。馬車一台分なら通れそうな、欄干や縄がない古びた木製の橋。この橋には見覚えがある。


「転移魔法かよ……」

「こちらが魔法を紡がなければ、空の子だけ持って行かれたかな」


 ヤシロの手が離れる。呆れたような同情されているような、複雑な眼差しを向けられた。


「カナ嬢。改めて思ったが、竜っていう厄介なものにまで好かれていたとはなぁ」 

「先生はいい竜だよ?」

「竜は懐に入れた相手には情が深い。裏を返せば、独占心が強いともいうね」


 セイクの説明に納得ができなかった。情が深いのは同意できるが、独占心が強いだなんて思ったことはない。


「私、この橋を知っているよ。ここを渡って宿駅についたんだ」

「俺はカナ嬢の家に行くまで、こんな橋を見ていないぞ」

 ヤシロとセイクが顔を見合わせて同時に頷いた。

「行くしかねぇな」

「行くしかないね」


 手綱を握り直し、おっかなびっくりに幌馬車は橋を渡る。ぎしぎしと悲鳴を上げる橋に気が気でなかったが、無事に渡れた。


 安堵すると、二人が私の背後を注視しているのに気づいた。後ろに獣がいた。いくつもの獣が混ざった混合獣キメラが私の影から姿を現していたのだ。気だるげな深緑が何も語らず、私を映している。


「しー兄?」

 しー兄は荷台から飛び降りた。森の奧へと駆けていく。

「待って!」

「おい! また一人で行動するな!」


 掴もうとしたヤシロの手をすり抜けて、しー兄を追いかける。幌馬車を置いてヤシロとセイクも走ってきた。


「しー兄、どうしたの!」


 呼びかけてもしー兄は止まらない。縮まらない距離がもどかしかった。瞬きをした瞬間、しー兄が人の姿になっていた。


 白衣を翻して走る後ろ姿に、なぜだか泣きたくなってしまう。家に引きこもっているから運動は苦手だって言っていたくせに、速いよ。


 誘われるように森の奥に入る。私がよく知る森の道。この先に自分の家がある。通り過ぎる木々の中に、人の顔に似た瘤があった。背筋が凍る。精霊樹になった村人たちは、今も縛りつけられている。この中に両親もいるはずだ。


 視界が開け、家に辿り着いた。息を切らした私に二人がすぐに追いつく。ヤシロに声をかけられたが動けなかった。


 『カナラ』として育った家。その家を囲むように黒竜が寝そべっている。自慢の漆黒の鱗は白く濁り、翼はたたまれている。首から尾にかけて生えていた白銀の鬣の量が減っていた。先生の目は閉じられ、呼吸が乱れている。頭の傍に立っていたしー兄が目を伏せた。


「カナ、先生は砂になりかけている」

「……どうして?」

「魔法が解けたからだ」

 優しく告げる声が、鋭利に突き刺さる。


「元々、竜は幻想の生き物だ。この世界の住民ではないと知っているだろ。カナに理想を与え、目を覚ました時点で役目を終えたんだよ。この森を守るのもクオンの姿を保つのも、限界がきていたんだ」


 先生に駆け寄り、頭に抱きついた。黒の眼が薄く開いた。


「ごめんね、カナラ。本当は死に場所を探していたんだよ。クオンがいなくなった世界に取り残されたとき、初めて孤独を知った。旅をすればそのうち死ぬだろうと思ったのに、長命種だけになかなか死ねなくてね。しかも困ったことに、この世界は美しかった。そこで君に会ったんだ」


 思い出すように目が優しく細められる。


「ねぇ、僕はカナラの先生でいられた? 父親だった? いつも不安だったよ。子どもを持った経験はなかったからね。ちゃんと親らしいことができたかなぁ」


 こんなときでも先生は変わらない。のんびりとした口調で私に語りかけるように話してくる。


「カナラはもっと怒っていいし、恨んでもいいんだよ。竜が人を育てるなんておこがましいことをしてしまった。君は人に育てられるべきだった」


 先生の巨体が少しずつ白銀の砂になっていく。鱗が一枚、剥がれ落ちた。


「それにね、僕は村人たちを許せなかったんだ。精霊樹になったのを利用して、魂を解放せずこの地に縛りつけた。時折、恨み言や謝罪や助けを求める懇願の声が聞こえてきたけど、無視してあざ笑っていたんだ。君の両親ですら、僕は解放しなかったんだよ」


 どうして。喉まで出かかった言葉は先生によって遮られる。

「君は紅玉の魔女に僕と村人たちを解放する方法を聞いたそうだね」

 先生に額を当て、もういいと止めても穏やかに話を続けた。

「罰だと思った。それと同時に、許されたと思ったんだよ」

 無意識に拳を握りしめていた。


「安心して。僕が消えれば、村人たちの魂は解放される。もちろん両親も。そうしたら、シスイと一緒にここを出て行くんだ。閉じこめられた生活は飽きただろう? 幸いにも、君はよい縁に巡り会えたようだ。そこにいる彼らがきっと助けてくれる」

「そうじゃない……」


 先生はちっともわかっていない。額を離し、私は黒竜を睨みつけた。


「カナラ?」

「全然違う!」

 私の怒鳴り声にその場にいる全員が驚愕した。


「黙って聞いていれば、どうして勝手に結論づけるの? 私は何も言っていない! 私は怒っていないし、恨んでもいない! お母さんとお父さんも村の人たちも恨んでいない! 恨む恨まないなんてどうでもいいのっ! 私にとって、『カナラ』の私にとって、今の家族が一番なんだ!」


 爆発した感情は涙へと変わっていく。勝手にぽたぽたと落ちていく涙を乱暴に拭いながら、私は叫んだ。


「先生が自慢の父親に決まっているじゃない! しー兄が大切な兄で当然じゃない! どうしてそんなことを言うの。私は大好きだよ。大好きなんだ。大好きなの!」


 先生が顔を上げ、濡れた頬にすり寄せてきた。


「ごめんね、カナラ。僕は君を悲しませてしまったね」


 先生の体の砂化が止まる気配はない。尻尾の鱗も剥がれ落ちていた。私は息を吐き、後ろにいる二人に体を向けた。


「ヤシロ、ナイフを貸して」

「何をするんだ」


 話を振られて驚きながらも、野外用の小型ナイフをズボンのポケットから取り出した。


「私の血を先生にあげる」

「馬鹿っ、お前!」

 ヤシロからひったくるようにナイフを奪う。


「セイク、私の血は他種族にとって妙薬になるんでしょう」

「なるよ。でも、人の血を覚えた種族が君にとっていい存在のままか保証はできない」


 そうと私は返し、掌をナイフで切りつけた。激痛が走る。掌を握り、痛みに耐える。ナイフをヤシロに返却して、私は先生と対面した。


「先生、私の血を飲んで」

「カナラ、その行為を僕たちは『契約』と呼んでいるんだ。そんなことをしたら、君は一生、僕から解放されないよ」

「親は子どもに対して、そういうものだと思っていた」

 皮肉げに笑えば、先生は観念したのか目を閉じた。


「そうだね。可愛い娘の頼みなら仕方ない。君の血をもらい、その代わり黒竜である『私』の真名を教えよう。困ったときに、心の中で強く呼んでごらん。助けになろう。そして、この命が燃え尽きるまで世界を見届けよう」

「それは竜として?」

「いや、家族としてさ」


 にやりと笑った竜の顔がおかしくて、思わず口元が緩んでしまった。

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