2 魔女の家

 目を覚ましたら、知らないベッドで寝ていた。

 私の部屋ではない。上半身を起こせば、ベッドの上に長毛種の赤い猫が座っていた。紅玉の魔女シィラの使い魔だ。猫は可愛らしく鳴いてからベッドから飛び降り、薄く開いた扉から出て行った。

 部屋を見渡す。ふかふかのベッド。猫足の丸テーブルに二脚の椅子。化粧台の鏡は曇りひとつなく、白磁の洗面器が置かれていた。毛足が立った赤いカーペットの上に足を下ろすのは躊躇われた。宿の一室や自分の部屋とも違う。女性が使うために用意された質の良い部屋。

 ドアがノックされた。入ってきたのはシィラだ。会ったときと同じ、肩を晒した着物姿。赤い髪を纏めた紅玉の簪が似合っていた。赤い猫が甘えた声で彼女の足元にすり寄る。私が起きたのを伝えに行ってくれたのだろう。

「おはよう。夢から醒めた気分がいかが?」

「思ったより悪くなかったかな」

 シィラの手にはティーセットとクッキーの小皿を乗せたトレイがあった。溶かしたような金の目で魔女は微笑む。

「魔女の家にようこそ。まずは目覚めた祝福に、お茶を一杯」

 花柄の上品なティーポットから注がれるのは、シィラ特製のブレンドハーブティー。ティーカップから漂う香りは住んでいた森を思い出した。ローズヒップが混ざったハーブティーは、透き通った紅色をしている。

「シィラはどこの国の生まれ?」

「そうね。どこだったかしら。忘れてしまったわ」

 とぼけた態度ではない。気にしていないだけのようだ。ティーカップに口をつければ、甘酸っぱさのあとにレモングラスの爽やかな香りがした。眠気覚ましにはちょうどいい味だ。

「火の国かと聞かないのね」

「着物は似合っているけれど、違うような気がして」

「それは褒めているの?」

「褒めているよ」

 格好だけで判断すれば火の国『シンエン』かと問うべきだ。でも、顔つきはもちろん、纏っている雰囲気が違う。ヤシロのような訛りはない。共通語はお手本になるほどの流暢な発音だ。

「この着物はね。ヤシロと勝負して勝ったものなの。簪も一緒にねだったわ」

「もしかして、セイクにお金を借りたっていう高価なものって」

「そう、これのことね」

 シィラは着物の袖を広げた。花鳥が描かれた色彩豊かな柄に肌触りの良さそうな生地。ヤシロを悩ませたものだ。値段を聞くのはやめておいた。

「着物もドレスも好きよ。着たい服を着ているだけ。服は魔法よ。身につけているだけで、心を動かす力がある。着飾ることは心に余裕をつくるものよ」

「それは化粧も同じ?」

「そうね。化粧も装飾品も同じね。女ばかりじゃないわ。男にもそのときにしか身につけないものがあるでしょう。お守りに似ているわね」

 赤く塗られた爪がティーカップを握る。彼女の白い滑らかな手は、私のように家事で荒れていなければ日に焼けてもいなかった。

「それで、聞きたいことはそれだけ?」

 遠回しに会話を進めようとしても無駄のようだ。観念して、息を吐いてから本題を切り出した。

「まずは、しー兄。あれからどうなったの?」

 シィラと出会った中央通りの路地裏で、黒い影が迫ってきたのを覚えている。しー兄が追いかけてきたとシィラは言っていたけれど、あれから二人がどういうやりとりをしたのか知らない。

「あなたの傍にいるわ」

 しー兄の姿は見当たらない。訝しげに見返すとシィラは私の椅子の下を指した。

 私の影が、よく知る獣の姿をしていた。

「この都は精霊樹に守護されている。都に入った存在の本質を暴こうとしてくるわ。だからその子は人の姿を保てなかった。本来の姿は目立つものなのでしょう?」

「魔女はなんでもお見通しなんだね」

「いいえ、わたしが知ることは限られているわ。わたしは決して、万能ではないもの」

 影に手を伸ばせば、鼻が私の手に触れようとした。小皿のクッキーを一枚摘んで床に落とすと、影に吸い込まれてからぱりぱりと咀嚼音がした。

「あのあと、わたしと会話をせずにあなたを追いかけて行ったのよ。その様子だと、あなたにずっとついてきたみたいね。過保護だこと」

「うん。過保護な兄なんだ」

「そう」

 しー兄にとって私は、五歳の子どものままだったのだろう。無知で愚かで浅はかで、外を知らずに育った子ども。

「でも、守るだけが家族ではないわ」

「そうだね」

 今の私は五歳じゃない。背丈は伸びた。自分でものを考えられるようになった。自分で選択ができるようになった。ヤシロとセイクの三人で旅をして初めて外の世界を知った。私はもう一人で歩ける。歩いてもいいんだ。

「しー兄、私を信じてくれる?」 

 獣の影が起き上がり、ひょろりと長い尻尾が叩かれた。

 私は居住まいを正し、紅玉の魔女に向き直る。

「シィラ、教えて。私、先生に会いたい。会って、先生とお母さんたちを私から解放したい。魔法が使えなくても村を救える方法はあるの?」

 シィラはハーブティーを啜り、間を置いてから口を開いた。

「そうね。まずはその前に、あなた自身を知らなくちゃいけないわ」

 シィラが人差し指でテーブルを叩くと、扉が突然開いた。

「おわっ」

 扉から現れたのは、ヤシロだった。転倒したヤシロに驚いて立ち上がる。

「シィラ、わかっていたのなら開けろよ……」

「お茶会に聞き耳を立てるのが悪いわ」

「やぁ、空の子」

 セイクが顔をだした。椅子を二脚両脇に抱えている。倒れたヤシロに目もくれず、部屋に入ってきた。

「元気そうでよかった」

「心配かけてごめんね」

 椅子を置き、自分の席を確保してからちゃっかり会話に入ってくるところがセイクらしい。

「あれ、シィラ。僕とヤシロのお茶がないよ」

「あなたは遠慮を知りなさい」 

「お、うまそうじゃねぇか」

 ヤシロも席に座り、クッキーを掴んだところでシィラに手をはたかれた。

「全くあなたたちは、いつまでたっても懲りないわね。妙なことに突っ込みたがるんだから。お人好しどころかただの馬鹿よ」

「そりゃどうも」

 肩を竦めたヤシロと目が合う。茶色の目が安堵で細められた。

「カナ嬢、がんばったな」

 無骨で大きな手に髪の毛をくしゃくしゃにされる。

「おかえり」

 そのたった一言がぽとりと胸に染み渡る。

「ただいま」 

 迎えてくれる人がいるのは、受け入れられていることだから。

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