最終話 空色少女の物語

1 真っ直ぐ歩くのは、思ったよりも難しい

 その家の中を私はよく知っていた。

 暖炉の火に当たりながら、安楽椅子の上で先生に絵本を読み聞かせてもらった。食事に苦手なものがでたとき、しー兄の皿に移したら戻された。魚を黒焦げに焼いてしまったとき、二人は笑顔で食べてくれた。なかなか白衣を洗濯させてくれない二人を追いかけ回した。喧嘩もした。怒って、泣いて、褒められて、たくさん笑って、五歳だった私は年を重ねて十四歳になった。


 先生としー兄と過ごした家には、『カナラ』の思い出がたくさん詰まっている。


 私は家にいた。誰も座っていない安楽椅子。食事が並んでいないテーブル。片づけられた台所。全ての場所に『カナラ』の記憶が生きている。


 翡翠色の蝶が通り過ぎた。蝶は二階へと飛んでいく。導かれるように追いかけていた。朝はこの階段を下りて挨拶をした。先生が寝坊したときは、しー兄と起こしにいった。しー兄と水を汲んで朝食を食べて、家の裏にある菜園の世話をして、読書をして家事をして、時々二人の研究の手伝いもした。森の中の閉ざされた生活には安寧があった。それがずっと続くものだと思っていた。


 蝶が私の部屋に入っていく。五歳から今まで生活してきた見慣れた部屋だ。蝶はベッドの枕元に置いてある箱に止まった。木製の四角い箱に目盛り盤がついた妖精の声が聞ける道具。黒色のヘッドホンは繋がれた状態だ。上部の覗き窓には精霊石がある。回転式の目盛りを回すと点滅し、ヘッドホンをつけてお祈りをしてから眠っていた。


 先生からもらった妖精ラジオ。

 眠るのを怖がった幼い私に、優しい夢を見られるよう眠りの妖精に子守歌をお願いしたと言っていた。かそこそかそこそ、ヘッドホンから聞こえた囁き声は耳に残っている。


「ここに隠していたんだね」

「うん、先生はそこに隠していたんだ」


 扉の前に獣がいた。犬に似た顔に縞模様の胴。固い鱗にびっしりと覆われた四つ足に、先端にふさふさの毛がついた細長い尻尾。数種類の獣を繋ぎ合わせた混合獣キメラ

 私の初めての友達で。


「しー兄……」


 私の兄、シスイ。

 私はしー兄に抱きついた。首に顔を埋める。あのときの私は腕を回しても背中にまで届かなかったのに、今は簡単に届いてしまう。


「しー兄。あの矢の傷は大丈夫?」


 尻尾を叩いた。大丈夫だという返事だ。念のために背中を確認したが傷痕は見当たらない。むしろ綺麗なくらいだ。始めから何もなかったような違和感があった。


「もしかして、治癒能力が高いの?」


 しー兄は鼻を上げて鳴らした。そうだと誇らしげな様子に思わず微笑んだ。


「ごめんね。しー兄。私、しー兄に酷いことを言った。私が守るって言ったのに、守られてばかりだった」


 頭を撫でると、気だるげな深緑が目を閉じた。尻尾をゆらゆらと揺らす。


「しー兄はどうして私についてきてくれたの?」


 私の手をすり抜け、しー兄はベッドに前足を乗せた。妖精ラジオを鼻でつつく。


「どうしたの?」


 その姿では話せないようだ。けれど、私の言葉は理解できているはずだ。持ち上げた妖精ラジオは予想以上に軽かった。そう、この中には。


「ねぇ、しー兄。これってやっぱり」


 しー兄が後ろから押してきた。どうしたのと尋ねても鼻で突いてくるだけだ。どうやら、部屋から出て欲しいらしい。部屋を出ると階段を下りるように促され、居間に戻った。


 テーブルに妖精ラジオを置くと、しー兄は玄関の扉の隣に座った。扉は開いている。

 外はよく知る森じゃない。真っ白な世界が広がっている。

 夢から醒める時間が来ている。


 妖精ラジオの錆びついた蝶番が突然外れた。開けられるのを待っているかのように、かそこそかさこそ箱の奧から声が聞こえる。深呼吸をして私は箱に手を添えた。


 妖精ラジオを開けた途端、無数の翡翠色の蝶が飛び出した。

 薄く透明な青い羽が川のように天井を流れていく。青い鱗粉をこぼしながら、しー兄の周囲に留まった。


「先生はやっぱり、この中に夢喰い虫を入れていたんだね」


 先生は私の心が壊れないよう、魔法をかけた。

 記憶の改竄をするために、夢喰い虫を使ったのだ。悲しい記憶を食べてもらい、『カナラ』という名前と新しい『家族』の記憶を植え付けた。妖精の子守歌というのは、夢喰い虫が活動している音だ。


 記憶を改竄するなんて立派な秘匿魔法なのに、私を守るために魔法をかけてくれた。

 優しい嘘をついてまで。


「ねぇ、しー兄。先生はどこ?」


 しー兄は鼻を上げ、天井を指した。つられて仰ぐ。耳を澄ませば、地響きに似た音が聞こえた。もしかして、竜の鳴き声だろうか。


「外?」

 しー兄は尻尾を叩く。肯定だ。

「じゃあ、早く目を覚まさなくちゃね」


 扉の前に立つ。今度は一人で行かなければならない。安寧の世界を出て、置いてきた過去と向き合わなければいけない。


 たった一歩だ。私はこの家から出て行く。その一歩が踏み出せない。守られている状態から抜け出したかったのに、そのときが来たら躊躇うなんてわがままだ。


「俺さ、初めて抱きしめてもらった人間がエリーナだったんだ。人がこんなにも温かいものなんだと初めて知った。だから、もっと一緒にいたいって思った。『家族』という人の輪を知りたかったんだ」


 振り返りそうになったところで、背中を押された。自然と一歩踏み出す。


「前を向いて真っ直ぐ行くんだ。カナラ」

 どうして、こういうときだけ名前で呼ぶの。

「うん、わかったよ」

 さよならなんて、絶対に言うもんか。


「ありがとう、しー兄。大好きだよ」

「ありがとう、カナ。俺も大好きだ」


 翡翠色の蝶が後押しするように私の周りを飛んでいく。真っ直ぐ歩いているはずなのに、視界はぼやけていた。これじゃあ、泣き虫のエリーナに戻ったみたいだ。涙を拭いながら白い世界を歩いていく。見えない道に足跡を残していく。今度は迷わないように、壊れないように、なくさないように、ちゃんと一人でも歩けるように。


 でも、真っ直ぐ歩くのは思ったよりも難しいね。しー兄。

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