6 可愛い宝物

「お母さん! あ、あのね」

「嘘つきエリー」

 冷たい声が降ってきた。


「どうして嘘をつくの? お母さん、いつも言っているでしょう? どうして魔物と一緒にいるの? 嘘はだめって言っているでしょう?」

「ちが、違うの、お母さん」

「私はあなたの母親なのよ!」


 金切り声に肩が跳ね上がった。体がぴたりと動けなくなる。震えて、うつむいて、視界が滲んで、足元が不鮮明になる。


「泣けばいいと思っているの!?」

 責め立てる声に頭が真っ白になった。

「あなたが隠れて変な旅人といるぐらい、お母さんは知っていたわ。早くその汚らわしい魔物を渡して頂戴。それはあなたと一緒にいたらいけないの」 


 お母さんはいつもそうだ。私の話をちっとも聞いてくれない。


「どうして、信じてくれないの」

「あなたが嘘つきだからよ」

 お母さんはいつもそうだ。私が何を言ってもちっとも信じてくれない。

「どうして、いつもそうなの」

「あなたが悪いからよ」


 私が悪いから。全部、こうなってしまった。

 私が、魔法を使えないから。


 ぼんやりと視線を動かすと瓶が転がっていた。男の子があの子に驚いて落としたのだろう。瓶には夢喰い虫と楕円形の小さな物体があった。夢喰い虫が食べていたものを吐き出したのだろうか。精霊石の欠片だと先生は予想していたけれど、植物の種のように見える。種にしては、青や赤に黄色と様々な鉱物が混ざったような不思議な色をしていた。


 自然とその種に意識が吸い寄せられる。

 奥底で閉じこめていたものを、一枚ずつ剥がされていくような妙な心地よさを感じた。


「いらない」

 ぽつりと私は呟いていた。

「エリーナ……?」

「いらない。そんなお母さん、いらない」


 ゆっくりと顔を上げる。私はよっぽど酷い顔をしているのだろう。あの人の顔がひきつっていた。


「私を無視するお父さんなんていらない。魔法が使えないからって、いじめる男の子たちなんていらない。私の友達をいじめる大人なんていらない!」

「だめだ、エリーナ! それは精霊樹だ!」 


 呼び止める声が先生だと気づいたのは、叫んだあとだった。


「こんな村、いらない! だいっきらい!」


 ぺきりと奇妙な音がした。

 種が、割れている。

 地面が揺れた。あの子が私を支えようとお腹に潜り込み、咄嗟に抱きついた。地面に亀裂が走る。村に罅が入ったように、いたるところに亀裂が広がっている。私と母の間にも悲痛な音を立てて亀裂ができた。


「お母さん!」

 放心していた母が反応した。

「エリーナ!」


 亀裂から芽がでた。芽は急速に伸び、樹木になる。次々と亀裂から芽吹き、成長を遂げる異常な光景に呆然とした。私と母の間にも立派な樹木ができあがろうとしている。すぐさま母に手を伸ばした。


 あと少し、あと少しで届きそうなのに。

 母の指が、ぼとりと落ちた。


「おか、あ、さん?」


 落ち葉のように乾燥した指が落ちていった。指から腕へ、首から胴へと母の体が枯れていく。目を見開き、口を開け、私に手を伸ばした母は一本の木になっていた。血を流さない、母の形をした枯れ木になっていた。


 揺れが収まった。周囲は静まり返っている。辺りを見回し、絶句した。

 村の人たちが、全て木になっていた。


「なに、これ」

「エリーナ」


 突風が吹き、影が落ちた。空を仰げば、太陽を塞ぐ巨躯が視界に映った。蝙蝠に似た翼を羽ばたかせ、夕焼けの光を浴びて漆黒の鱗が鈍く光る。振り下ろされればひとたまりもない鋭利な爪に恐ろしさを感じても、優しい黒い目には見覚えがあった。


「先生?」


 私の声が届いたのか、黒竜が旋回した。首から尾にかけて鬣に似た白銀の体毛が生えている。風に吹かれて輝く姿は厳かだった。


 黒竜は降りる場所を探していたようだ。家を潰さないようにと私から離れた場所に降り立った。あの子と一緒に駆け寄れば、黒竜はなるべく場所を取らないよう体を小さくさせて座っていた。


「ごめんね、エリーナ。大きくなったらこの姿を見せるって約束したのに、守れなかった」


 申し訳なさそうに長い首を下に向けた。

 聞き覚えがある温かな声は、やっぱり先生だ。


「先生! おかしいの! お母さんが木になったの!」


 先生に抱きつけば、鼻で頭を軽くこすられた。私が落ち着くよう撫でてくれたのだろう。


「精霊樹だよ」

「精霊樹?」

「まさか、夢喰い虫が食べていたものが精霊樹の種だとは思わなかったんだ。ごめんね。もっと早く気づいていれば、こんなことにはならなかった。ごめんね」 


 先生は悪くないのに謝ってばかりだ。


「精霊樹って何?」

「精霊を生み出す木だ。強力な魔法を造るものでね。そのひとつに、種が芽吹くと願いを叶えるといわれている」

「願いを?」


 種が割れる前に、村がこうなる前に、私は何をしたっけ。精霊樹の種に自然と目が吸い寄せられて、なんでも吐き出してしまってもいいような気持ちになって、それから。


「……私のせいだ」

「エリーナ、違うんだ。あれは心を」

「私のせいだ!」


 私はお母さんになんて言った? 村人になんて言った? ここをなんて言った?


「いらないって言った!」


 取り返しのつかないことをしてしまった。私が村を壊してしまった。お母さんを木にしてしまった。皆、木にしてしまった。


 体が震えた。体温が一気に下がり、心臓の鼓動がやけに耳に響く。村は静かなままだ。私以外に無事な村人はいない。私のせいで、私が、こんなことをしてしまった。


「先生。どうすれば、みんな、元に戻るの……」


 沈黙が流れた。ほんの短い沈黙が、今は重たくてどうしようもなかった。


「戻らない」

 落とされた答えはそれ以上に重たくて。

「ここにいる村人は、精霊樹になったんだ」


 このときの私には、理解ができなかった。

 理解できるほどの心もなかった。


 何かがぷつりと切れた音がした。今まで堪えてきたものが崩れる音がした。地べたに座り込み、声も上げずに涙が溢れだした。あの子が頬を舐めているのはわかっていても、顔を上げる気力すらなかった。


「……エリーナ。僕の可愛い生徒、僕の可愛い宝物」

 傍にいるはずの先生の声がやけに遠い。

「君に魔法をかけよう。君の心がこれ以上壊れてしまわないように」

 頬に柔らかな風が吹いた気がした。

「君の心を眠らせよう。君に夢を見せよう。君がいつか目覚めるまでは、安寧を与えよう」


 強い眠気に襲われ、意識が霞んでいく。傾いた体を抱きしめたのは、竜ではなく人の姿をした先生だった。


「エリーナ、起きたら僕を怒っていいんだよ。物語の中では、竜はいつだって悪者だからね」

 眼鏡の奥で先生は寂しそうに笑った。

「そういうのは、慣れているんだ」


 先生の、嘘つき。

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