4 羽化

 紅玉の魔女は魔女の家にいる。

 家に行くには、道案内をしてくれる魔女の使いを探さなければいけない。

「都に住んでいるくせに人混みが嫌いだからなぁ、あいつ」

 都はランプの町『ヴァダン』よりも賑わっていた。朝市となるとさらに混み合い、足の踏み場がなくなるそうだ。朝市は気になるけれど、今度こそセイクに手を繋がれてしまいそうだ。こうして歩いている今も、離れたらだめだと口を酸っぱくして隣にいる。

「空の子があまりにも周囲を見ているから……。前を向いて歩いて。転ばないよう気をつけるんだよ」

「田舎者丸だしだな」

 また意地悪な発言をするヤシロを睨んでも効果はない。そっぽを向いて早足で歩けば、セイクが歩幅を速めた。

 幌馬車を預けて宿を取り、休憩をしてから外に出た頃には日が傾いていた。私の目と似た色をした空に、薄い紫の色が重なる。西日が徐々に海に沈み、橙色に染め上げてから夜が訪れるのだ。

 海上都市『メゼリア』は白亜の四角い建物が並んだ都だ。お土産の絵葉書には海上に浮かぶ白亜の町並みが描かれていた。影が落ちつつある白壁には蔦の模様が描かれている。建物の下から生えたように描かれている蔦の色は多彩で、魔除けの魔法の影響だとセイクが教えてくれた。誰かが描いたわけではない。精霊樹を使って守護魔法を行使した結果、建物に蔦の絵が浮かび上がったのだ。

 この都は森ともランプの町『ヴァダン』とも違う匂いと色で溢れていた。酸っぱいようなひりひりするような、潮の香りとからっとした空気。中央通りは人も馬車も詰められているのに活気があった。威勢のよい呼びかけに、できたてのパンの匂い。海鳥が鳴いている。近くに港があるのだ。海をもっと間近で見てみたい。そういえば、夕食は海の魚料理を食べようとヤシロと約束した。

「カナラ!」

 誰かに呼ばれた。私の隣にいたはずのセイクがいない。ついてきてくれたヤシロもいなかった。

 しまった。本当にはぐれてしまった。

「ヤシロ、セイク!」

 背の高い焦げた茶髪と白髪が見当たらない。人の間を縫って戻ろうとすると、脚の間に何かが通り過ぎた。

 猫だ。

 昨日の赤い猫。

 はっと視線を向けると、毛並みの長い赤い猫が行儀よく路地裏の前で座っていた。そこだけ空間が切り取られたように誰もいない。猫の尻尾がゆらりと揺れて路地裏に入る。翡翠色の蝶が猫を横切った。視界が歪み、猫の姿が、べつの、数種類の生物が混ざったあの子の。

 あなたは私の、最初の友達。

「待って!」

 咄嗟に追いかけていた。無理やり人混みから抜けて路地裏に入り込む。猫とは一定の距離があいたまま近づけない。都の路地裏はこんなに長いのだろうか。壁に挟まれた細い石畳がどこまでも伸びている。気づくと翡翠色の蝶が増えていた。淡く光る鱗粉をほろほろとこぼしながら私の周囲を飛んでいる。簡単に捕まえられそうな距離だ。手を伸ばせばすぐに。

 あれ、私の手。小さくなっている気がする。

「羽化よ」

 誰かとすれ違った。狭い路地裏にすれ違えるほどの幅はあっただろうか。足を止めて振り返る。妙齢の女性がいた。

「夢喰い虫っていう魔法生物。あなたなら知っているでしょう」

 真っ赤な髪に目を奪われた。血を吸ったような癖のない赤髪は結い上げられ、火の国『シンエン』の髪飾りである簪が挿してあった。以前、ヤシロに見せてもらったものだ。小さな紅玉が吊された簪は値が張る代物だ。衣服も火の国の民族衣装である着物だった。花鳥が描かれた極彩色の着物は高価なはずだ。ヤシロがこの国では価値が高くなると話していたのを覚えている。

 女性は赤い猫を抱いていた。金の目が私を映し艶やかに微笑む。着物から色白の肩が露わになった姿は色っぽい。甘い香りを纏った女性に彼女だと直感した。

「あなたは」

 紅玉の魔女、シィラ。

「空の子、空白の子。あなたの夢の羽化は始まっているの。それはあなた自身の望みでもあるわ」

 歌うように紡がれる言葉は魔法の唄のようだ。

「知らないまま夢を見続けていれば、守り人の役割を負った二人は演じ続けられた。そうね。でも、あなたは卒業したものね。妖精ラジオを」

 ――――「妖精ラジオはもう卒業か」

 宿駅でしー兄のへにゃりと笑った顔が脳裏をよぎる。

「紅玉の魔女。それはどういう意味?」

「その答えは時期にわかるわ。それと、シィラと呼んで頂戴。わたしはあなたをどう呼べばいい?」

 どう呼べばって。私はカナラだ。私を呼ぶ名前はひとつだけなのに。それなのに、なぜか躊躇してしまった。

「あなたも演じ続けていたのではなくて? カナラという『家族想い』の少女を。父と兄が大好きな少女を。そうしたいって願ったのはあなた自身だもの。魔法が使えなくても受け入れてくれる『幸せな家族』を。手に入れられないものをあなたは願った」

「ち、ちが」

 私は演じていない。これは本物だ。血の繋がりなんてなくても、私は本当に先生としー兄が大好きで、大切な家族だって思っている。思っているのに。どうして。

 嘘をついているような後ろめたさがあるの。

「けれど、あなたは今の生活に疑問を持ってしまった。だから、あなたの記憶を食べていた夢喰い虫が羽化してしまったの」

 私の周囲を飛ぶ翡翠色の蝶にシィラは視線を投げる。これが夢喰い虫。何かが抜け落ちたような感覚がする。赤い猫を撫でながらシィラは話を続けた。

「羽化した虫に触れれば、記憶の一部が戻る。あなたにかかった魔法を解くには、あなたが捨てた『あなた』を知らなければいけないわ」

 紅玉の魔女は問いかける。

「それでも、あなたは『カナラ』でいられる?」

 私はシィラを見据えた。

「私が『私』である理由に、答えなんていらないよ」

 そうだ。そんなの、わかっていたじゃないか。

 私はずっと前から『私』だもの。

 シィラは満足そうに頷いてから振り返った。息を呑む。細長い路地裏が黒色に塗りつぶされていくように、徐々に暗闇に覆われる。

 これには見覚えがある。宿駅と同じ黒の魔法だ。

「あなたの夢を守るためについてきたのね。けれど、精霊樹に守られた都ではその姿を維持するのは辛いでしょうに。難儀なものね」

「シィラ」

 彼女は私の後ろを指した。追いかけてくる暗闇とは違い、あちらには真っ白な光がある。

「いきなさい。目を覚ます覚悟があるなら走りなさい。あなたがあなたでいるために」

「ありがとう」

 走り出した足が小さくなっていた。手足だけじゃない。体全体が小さい。視線が下がっている。まるで身長が縮んだみたいだ。

 そうか、私の体が幼くなっているんだ。

「そろそろ妹離れをしたらどうかしら。人の子は成長するものよ。あの子は大人になりかけている。それとも、自分が捨てられるのが怖いだけかしら?」 

 あの暗闇の中にしー兄がいるんだろう。私を心配して来てくれたんだ。そうだよね。森から出たことがない私が知らない人たちと旅に出ているんだもの。心配になるのは当然だよね。

 やっぱり、しー兄はどこまでもシスイだ。

「ごめんね。しー兄」

 守っていたとしー兄は言っていた。未だにその真意がわからないけれど、私は今からしー兄に酷いことをするのだろう。

 あなたが守っていたものを、私は壊してしまうんだ。

 光の中に飛び込む。空中に投げ出されたように地面がわからなくなる。翡翠色の蝶が私の体に纏わりつく。意識が遠くなり、目を瞑った。

 誰かが私を呼ぶ。その叫び声は獣に似ていた。

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