第2話 思い出せない過去の夢

1 行商人は茶色の道をゆく

 川を見つけた。

 残念ながら澄んだ泉ではなかったけれど、何もないよりはと水を汲んだ。バケツにたっぷり入った水を見下ろす。水面に私の顔が映った。銀髪の肩まで伸びた髪に晴れた空と同じ色の目。不満顔はぶさいく。しー兄の緑も先生の黒もない、誰にも似ていない顔。


 お化粧を知らない肌は子どもっぽくて、使い古しのワンピースは地味だ。きらきらしたドレスを持っているはずもなく、淑女の作法なんてさっぱりわからない。町に比べれば、ここでの暮らしは質素で時代遅れなのだろう。水道やガスも通っていなければ、馬よりも便利だと賞賛された蒸気機関車や車は白黒写真でしか知らなかった。


 その代わり、私には森暮らしで培ってきた体力がある。足には自信がある。走るのはしー兄よりも速い。木登りは得意だ。高いところから見渡す景色が好き。食べられるキノコや木の実だってそれなりにわかる。学校に通っていなくても読み書きができた。先生が丁寧に教えてくれたおかげだ。


 それでも、魔法は使えない。

 精霊を見つけられない。


 息を吐く。森を下手に歩くのは危険なのに、知らない場所まで来てしまった。戻って、しー兄に謝らないと。頭では理解しているのに、先程のやりとりを思い出してふつふつと不満が戻ってきた。


「しー兄のばか」 


 ぼそりと悪態をつく。川を見渡せば、橋が架けられていることに気づいた。遠目から木製の平らな橋だと確認できた。橋の向こうには道がある。橋があるなら渡る人がいる。私の知らない世界がある。


 森の外は危険だと、先生に何度も言い聞かされていた。外は危ないから行ってはいけないと。なぜと尋ねたら怖い病気にかかると言う。ここでも風邪をひくよと返せば、治らない病気だと先生は困った顔で眼鏡を押し上げた。


 橋の向こうには、何があるのだろう。

 ちょっとだけなら。ちょっと、渡るだけ。


 バケツを置いて橋に近づく。頼りない古びた橋は、馬車一台分なら通れそうな広さだった。馬車の重さに耐えられるか保証はできないけれど、私の体重なら問題ないはずだ。

 振り返る。知っている森がずいぶん遠くに感じた。


 欄干も縄もない橋に足を乗せてみた。不安を煽る木の軋みに慌てて引っ込める。もう一度、乗せてみる。大丈夫。数歩、歩いて立ってみる。大丈夫。渡れるとわかった瞬間、気分が軽やかになった。橋を駆ける。とんとんと木の音がついてくる。両手を広げて走れば、自然と笑い声が漏れた。


 視界の端に、蝶が映った。


 蝶は翡翠色をしていた。淡く発光し、ほろほろと鉱物のように煌めく鱗粉を落としていく。羽化したばかりの、羽の使い方をまだわかっていないようなおぼつかない飛び方。突風が吹いたら簡単に飛ばされてしまいそうだ。


 初めて見る蝶だ。もしかして、魔法生物だろうか。

 私は無意識に手を伸ばしていた。

 蝶の羽に指先が触れた。


「どうして嘘をつくの」


 背中にぶつけられたのは、女性の低い声。

 足が動かなくなった。誰だっけ。冷や汗が流れる。私は知っている。喉が渇いていた。誰かわかっている。唇が震えた。何か言わなきゃ。

 だって、黙っていたら、また信じてもらえない。

 嘘つき呼ばわりされる。


「ち、ちがうの、おかあさん」


 振り返った先には、誰もいなかった。

 橋がない。川もない。置いてきたバケツも慣れ親しんだ森もなかった。目前には轍。何度も車輪と馬が通って作られた道が真っ直ぐ伸びている。轍の両脇に林があるが、どこに繋がっているのかはわからない。


 私の知っている場所ではない。

 ここはどこだろう。


「……おかあさん?」


 私は『おかあさん』と言った。おかあさんを呼んだ。おかあさんって誰だっけ。おかあさん。口の中で繰り返してみる。おかあさん、お母さん、母親、母。

 違う。私には先生としー兄がいる。

 『おかあさん』という人はいない。


「先生? しー兄?」


 見知らぬ場所で二人を呼ぶ。いないとわかっているのに呼んでいた。迷子になった幼い子どもみたいだ。口にすればするほど、いない事実が突き刺さる。不安がさらに膨れあがる。私はすがるように歩きだしていた。この轍を抜けたら、いつもの森に帰れると自分に言い聞かせた。


 でも、見つからなかった。


 轍を抜けた先にあったのは、街道だった。

 舗装された道に戸惑った。ここも知らない場所だ。あの森に近づくどころか、離れている気がする。


 指先に粉のようなものがついているのに気づいた。鉱物に似た煌めきに見覚えがある。先程の蝶だ。こすればほろほろと淡い光を纏って消えていく。記憶を辿る。きっかけは翡翠色の蝶。あれに触れてから妙な感覚が残っていた。疲労とは違う気だるさだ。例えばベッドから起き上がったような。


 まるで、夢から醒めた心地。


 来た道を戻るにも、見覚えのある道は消えている。街道があるのなら人がいる可能性が高い。ここはどこかと尋ねてみよう。


 石畳の街道は森とは違う静けさがあった。長閑で牧歌的というのだろうか。視界を狭める木々がない。木登りをした空と同じ、隔てるものがない晴れ渡った青空がある。牧草地が広がり、馬が駆けていた。

 人の生活がある匂いだ。近くに人がいると確信した。先生としー兄以外の誰かと会話するのには慣れていない。緊張してしまう。

 私がよく知る顔は二人だけだから。

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